第一章<エレオドラの虹> 第二場(1)
昨夜、村の、女神の司祭が死んだ。
司祭の死は、村人たちにとってかなり衝撃的な出来事だった。彼女はすでに老齢だったが、昨日の夕方まではいたって元気そうだったし、なんといっても彼女の死は、よりにもよって彼女が司るべき祭りの真っ最中のできごとだったのだ。
そのために、秋分の日の今日行なわれる予定だった祭りの儀式は中止された。
秋の村祭りは、秋分の前夜とその当日の二日間に渡って行なわれる。一日目は村の広場にかがり火を焚いての夜宴だ。<女神のお迎え>と称して、一年の労働を慰労するべく陽気などんちゃん騒ぎが繰り広げられ、元気のよい若者たちなどは夜を徹して酒を呑み、歌い、踊り、笑いさざめき、あるいは恋をする。そうして、例年ならその翌朝、気持ちも新たに女神の淵の祠の前で女神を讃える厳かな儀式を執り行ない、その後は、<女神の見送り>と称して、もう一度宴を催す。今度は山のまきばに酒やごちそうを運び上げ、村中総出で秋の一日を野に遊ぶのだ。
司祭が死んだのは、その、祭りの一日目、<女神のお迎え>の宴会のさ中であったらしい。らしい、というのは、誰もその死に立ち会ったものがいないからだ。
その夜、司祭は、夜更けに宴席から立ち去った。高齢の彼女が徹夜の宴会に最後までつきあわないのは別に不思議なことではないから、誰もそれを気にしなかった。そして、翌朝、彼女を起こしに家人が部屋を訪れた時には、司祭は、自室に設けた祭壇の前で、祈りの姿勢のまま、すでに冷たくなっていたという。
司祭の後継ぎは彼女の幼い孫娘だったが、本当にまだ、ほんの子供で、正式な祭りの儀式を取り仕切れるとはとても思えなかった。儀式は中止され、司祭の野辺送りの葬列が、祭りの行列に取って代わった。
祭りは中止になったが、昼からの宴会のために用意されたごちそうは、無駄にはならなかった。村では、葬式の時も、祭りや結婚式と同様に、賑やかな宴会を催すのだ。祭りのごちそうは、そのまま、送別の宴のごちそうになった。
その宴会で、祭りでも葬式でも酒さえ呑めればそれでいいとばかりにご機嫌で騒いでいた不信心で考えなしの若者の一人が、
「祭りが葬式に化けた、か……。こりゃ、まるで、何だか女神様その人の葬式みたいだなあ!」と大声で言って、周囲の大人たちから、いっせいに、どこかうろたえたような低い叱声を浴びた。
調子に乗った若者が不用意に口にしたその言葉は、しかし、それから後、宴会を続ける村人たちの心に、不吉な陰を落し続けた。彼は、深い考えもないまま、村人たちが漠然と抱いていた恐れを的確に言葉にしてしまったのだ。
(――世界に実りをもたらす豊穣の女神の御魂が衰えている――)
それは、誰もが口に出さずにいた、秘かな不安だった。
気候がよく地味も肥えたこのエレオドラ地方は、古くからこの国で最も豊かな地方であり、ここ数年続く全国的な不作にもかかわらず、収穫も、普段よりは減っているがまだ十分にあって、村人たちが飢えることもなく、宴の卓には食べ切れないほどの料理が並んでいる。それでも、いつの頃からか国全体を覆い始めた暗い影は、時の流れに取り残されたようなこの村にもじわじわと忍び寄りつつあり、そのことに、誰もが本当は、気づいていた。そんな時、女神を祀る祭りのさなかに女神の司祭が原因不明の急死を遂げ、祭りが葬式に成り変った。村人たちは皆、口には出さなくとも、そこにまごうかたなき凶兆を感じ取っていたのだ。
胸の底に淀む、そんな不安を追い払おうとするように、村人たちは、ますます大声で歌い、ひっきりなしに冗談を言っては笑い合い、浴びるように酒を飲み、宴は、いつにもまして賑やかに盛り上がった。
アルファードは、酒はあまり飲まない。無口で、気の利いた冗談も言えなければ、歌や踊りを楽しむような遊び心もなく、入れ替わり立ち替わりしなだれかかってくる娘たちにも、とりたてて関心はない。ひととおり腹を満たした後は、ただ黙然と座って、飲むでもなく飲まぬでもなく手にした酒杯を、時々思い出したように口元に運ぶふりをするばかりだ。
けれど、いつも、そんな彼の回りに、いつのまにか、若者たちは集まってくる。
無口で、どこか打ち解けない一面もあるが、道理をわきまえた温厚誠実な好青年。謙虚で思慮深く公明正大、常に理性的でどんな時にも合理的な判断を下し、滅多なことでは腹を立てない人格者。年齢に似合わぬほどの落ち着きと統率力を備えて自警団の若者たちの尊敬と信頼を一身に集める大人物。それが、村でのアルファードの評判だ。
若者たちは、母犬の回りで遊ぶ子犬のように、寡黙なアルファードの回りで互いにじゃれあい、彼の堅物ぶり、朴念仁ぶりを親しみを込めてネタにした軽口を飛ばし合っては、彼を肴に勝手に盛り上がる。
そんな様子を眺めて、年寄りたちは満足気に頷き合う。
――アルファードは、実に感心な若者だ。不平も言わず贅沢も求めず、血のつながらぬ育ての親を孝養を尽くして看取った後は自警団長として命を賭して村のために尽力し、『イルゼールに勇者アルファードあり』と近隣中に名を轟かせながら、その働きを誇ることもなく、剣術の全国チャンピオンにまでなっても、驕りたかぶることもない――
アルファードは、こうしてただの羊飼いをしてはいるが、実は、イルベッザの都で四年に一度開かれる武術大会の一昨年の大会での、剣技の部の全国チャンピオンなのだ。
今は廃れた冬至の火祭りの奉納試合の流れをくむイルベッザの武術大会は、戦乱の世から遠く隔たったこの時代、その起源にふさわしく国を挙げての一種の祭りとなっており、各地で開かれる予選も含めて、退屈な冬ごもりの季節を彩る国民的な娯楽として親しまれていた。その武術大会の、それも花形である剣技の部の優勝者といえば、少なくとも次の大会が開かれる四年後までは国民的英雄であり、その出身地であるということは、村にとって非常な栄誉だ。アルファードの優勝に、村は沸いた。凱旋してきたアルファードは熱狂的に迎えられ、村を上げての祝賀会では村の誇りと讚えられ、少年たちの尊敬のまなざしや娘たちの熱い視線を一身に集めたものだ。
けれど、当のアルファードはとりたてて嬉しそうな顔もせずに、威張るでもなく浮かれるでもなく、次々かけられる祝福の言葉に辛抱強く淡々と応え続けただけで、翌日からまた、何事もなかったように黙々と日々の勤めに戻った。人々は彼のそうした振る舞いに謙虚、地道、平常心と言った美徳を見いだして、自分たちの英雄はただ強いだけでなくこんなにも立派な人物なのだとますます満足しただけで、あの日のアルファードの静かな瞳の奥に、何か諦念めいたものが注意深く隠されていたことに気づいたものはいなかった。
彼は、あの日、気づいてしまったのだ。自分が、ただの『魔法の使えない羊飼い』から、『剣のチャンピオンで魔法の使えない羊飼い』になっただけなのだということに。
過ぎ去った戦乱の時代ならともかく、今の時代に、この平和な村で、剣の腕が立つからといってそれが何になるというのだろう。彼にできることは、せいぜい、それまでと同じように自警団長として村を襲う山賊を追い返し、ドラゴンを退治することだけだ。
自分がそれまで何のために強くなろうとしていたのか、その時、彼には、わからなくなってしまった。彼は、賞賛や名声を求めていたわけではなかったのだ。
彼はただ、ひたすらに、力そのものを求め続けてきた。強くなりさえすれば、何かが変わるような気がしていた。あるいは、自分を励ますためにそう信じ込もうとしてきただけかもしれないが、それにしても、その漠然とした思いこみがそれなりに彼を支えてきたことは事実だった。けれど、もはや力の時代ではなかったのだ。いくら強くなっても、結局は、なにも変わらない。彼は相変わらず、彼のままだ。
その後彼が以前ほど武芸に精を出さなくなったことに薄々気づいているものもいないではないが、それを怠慢だの慢心だのと責めるものはない。それで彼の剣の腕や体力が少しでも衰えたとは誰にも思えないし、彼の場合、それまでの熱心さが人並みはずれていただけで、今が人並みに劣るというわけではないのは誰が見ても明らかなのだ。以前のような異様なほどの精進ぶりがいつまでも続いたとしたらそのほうがよほど問題で、むしろ彼はそろそろ武芸以外の他のことにももっと関心を向けるべきではないかなどと、わけ知り顔で主張する者も多い。
彼らの言う『他のこと』というのは、つまり、例えば娘たち――ひいては家庭を築くことを指している。二十二歳といえば、この村では、そろそろ身を固めているか、少なくとも婚約くらいはしていてしかるべき年頃なのである。それなのに、いまだに恋人の一人も作らず、娘たちに興味を示すそぶりさえまったく見せないアルファードは、そういう点では、そろそろ少々困り者と見なされ始めているのだ。
公正だが厳格な死者の王タナートを主に崇めてきた北部の村々と比べ、出産と豊饒を司る生命の女神エレオドリーナのお膝元である南部の村は、日頃から若者たちの恋愛に対しては比較的寛容であり、少々の戯れは見て見ぬふりで黙認される。そんなおおらかな気風の村で、決まった恋人もいないのに適当に遊ぶということもないアルファードの堅物ぶりはむしろ不自然に思われているほどで、若者たちの間では格好の笑い話の種になっているほどだ。
アルファードは、別に、モテないわけではない。何と言っても彼は、村の誇るチャンピオンであり、ドラゴン退治の英雄だ。貧しくはあるが、逞しく頑健な働き者の若者だし、見目麗しいとは言えないまでも、凛々しく引き締まったなかなかの男ぶりで、姿も悪くない。そして何よりも、その、誠実で落ち着いた頼もしい人柄は、誰知らぬものもない。魔法が使えないという決定的なハンディがあってさえ彼と一緒になってもいいと本気で考えている娘はいくらもいるし、もっと軽い気持ちで彼の気を引いてみようと試みたことのある娘なら、更に多い。
けれども彼は、これまで、どんな娘にも、ほんのかりそめにさえ靡いたためしがない。村の娘たちはみな、青年たちがそうであるのと同じように彼にとっては幼なじみだから、彼とてそんな娘たちを冷たくあしらうということはしないが、ただそれだけで、幼なじみとして以上の特別な関心は、誰に対しても見せたことがないのだ。
今日も娘たちの何人かは、祭りに事寄せて、他の若者たちと一緒に彼の回りで騒ぎながら抜け目なく機会を伺い、何かにつけて、ものは試しとばかりにアルファードにすり寄って見るのだが、アルファードのほうは、祭りだろうと何だろうと普段より気安く振る舞うこともなく、いつも通りの堅物ぶりで、知らんぷりを決めこむばかりだ。
「そういえばこの前、インマ婆さんが、また、彼のところへ縁談を持っていったが、やっぱり見向きもされなかったそうだよ」
「婆さんも懲りないなあ。これでもう何回目だろうかね」
「しかし、アルファードにも困ったものだな。浮いたうわさひとつ立てないまじめな若者だと感心していられたうちはいいが、いつのまにやらあの歳だ。身持ちの堅いのは良いことだが、だからといってどんな娘にもまるで興味を示さないというのも、それはそれで考えものだ。だいたい彼には、いつかはちゃんと家庭を持とうという気はあるのかね」
「まあ、いいじゃないか、あれには、あれが身を固めないからといって嘆く親もないんだから」
「そもそも、アルファードは、ほれ、あれだ……。日頃ああして我々と同じように振る舞ってはいても、なにしろ、<女神のおさな子>だからな。普通の男とは違う。女神の御子ともなれば、そこらのありふれた若者たちのようにそこらの娘を娶って普通に家庭を築き子孫を残すなどということはしないものなのかもしれん……」
そんなうわさ話が宴席を駆けめぐり、言い古された冗談やおなじみの笑い話が飽きもせず大声で繰り返される一方、そこここで、ひそやかな、あるいはこれ見よがしな恋のさや当てがいくつも繰り広げられ、宴に華を添えるちょっとした喧嘩も始まって、それににぎやかな声援が飛んでいるうちはいいが、しまいにはつかみ合いになって仲裁がはいり、そのうちに、そんな騒ぎもよそに昼間から酔いつぶれていびきをかくものもあらわれる。最後のころにはもう、これが葬式だということなど、誰もがほとんど忘れている。どっちみち、これは祭りだ。司祭はその人生の最後に、やはりみんなに祭りをプレゼントしてくれたのだ。日頃は質素で堅実な働き者の村人たちが、このときとばかりハメをはずして、年に一度の乱痴気騒ぎが延々と繰り広げられる。
やがて太陽が西に傾き、長い喧騒の宴もついに果てようとする頃、一瞬の通り雨が山並みを駆け抜け、水滴で清められた東の空に、アルファードは、虹を見たのだ。
そして、今。
アルファードは、女神の淵の浅い澱みに立ちつくし、横たわる少女を魅入られたように見つめていた。