第一章<エレオドラの虹> 第十四場(3)
アルファードは、まだ、燃えるような目で、黒衣の一行を睨み続けていた。自分の中でふつふつと燃えたぎる怒りのほとんどが嫉妬からくるものだということに、彼自身も気づいてはいなかった。
自分では決して認めないだろうが、彼は、そもそもの出会いの時から――女神の淵で里菜を見出したあの時から、里菜を、発見者である自分のものと思い込み、自分は女神から彼女を託されたのだと自負し、彼女に対する自分の正当な保護者としての義務と権利を一瞬たりとも疑わずに来たのだ。
そんなふうに、これまでひそかにすっかり自分のものと信じこみ、掌中の玉として大切に守ってきたつもりの里菜が、誰か他の者の花嫁になると言われたこと、しかも、その相手が、神様だかなんだか知らないが、女神に任ぜられた正当な保護者である自分の知らないうちに里菜と会って、ずうずうしくも里菜を自分のものだなどと一方的に宣言していたらしいことが、おもしろくなかったのである。
嫉妬といっても、それは、恋敵の出現に慌てた男というよりも、まだ子供だと思っていた娘が自分に内緒でいつのまにか作った恋人に求婚されていたと知った父親のような気持ちだったのだが、いずれにしても彼がこれまで知らなかった、自分でも理解できない種類の感情で、訳がわからなかった彼は、よけいに、目の前の黒衣の老人に怒りを向けるしかなかったのだ。
しかし、ドアを閉めて振り返った時、アルファードはすでに冷静な表情を取り繕っていた。
その冷静さの中に、いくらかの厳しさが混じっていたので、里菜はビクッとした。
自分のさっきの告白について、アルファードに何か言われるのかと思ったのだ。
さっき、内緒のつもりの想いをつい口に出してしまったとき、里菜はアルファードがそれを聞かなかったことにしてくれるらしいので、むしろほっとしていた。何も言わないということは、自分の気持に応えてくれないまでも、それを黙認はしてくれるということだと思ったのだ。
けれども、そうではなく、これからきっぱり、はねつけられるのだろうか……? 望みはないと、はっきり宣告されるのだろうか?
だが、いくぶん堅さの混じる声でアルファードが言ったのは、全然別のことだった。
「さて、リーナ。さっきの、『夢』の話を、聞かせてくれないか」
里菜が、例の夢を、魔王がアルファードに関して語った内容と自分が感じた不思議な陶酔のことは抜かして語り終えるまで、アルファードは、冷めたお茶を前に、ただ黙って聞いていた。
「ねえ、アルファード。あたし、どうすればいいの? ずっと、これ、ただの夢だと思ってたから、忘れてしまおうとしていたんだけど……」
助けを求めるように里菜が尋ねると、アルファードは、やっと口を開いた。
「それで君は、少しでも、そいつの花嫁になろうという気があるのか」
「まさか! さっき言ったじゃない。絶対、いや!」
「それなら、放っておけばいい。花嫁になる気がなければ、それが夢だろうと、そうでなかろうと、北の荒野へ行く必要も、シルドーリンに行く必要もないんだから」
「でも、もしまた、魔王が夢に出てきたら……」
「無視すればいい。君は、その時も、はっきり断わったんだろう? そうしたら、そいつは、無理強いはせずに、消えたんだろう? 何回でも、断わればいい」
「でも……」と言って、里菜は黙りこんだ。
もう一度、あの誘惑に抗し切れるか、里菜は自信がなかったのだ。けれどそれをアルファードには、言えない。
その思いを見透かしたように、アルファードは淡々と言い聞かせた。
「夢の中では、俺が助けに行くことはできない。君の心がすべてなんだ。君が、本当はどうしたいのか、それをよく考えるんだ」
「うん……」
アルファードに話せば何もかも何とかしてくれるような気がしていたが、何しろ、夢だかなんだかよくわからない、あやふやな話である。いくらアルファードが強くて頼りになるといっても、そんなあいまいな夢の中の出来事まで具体的に解決出来るわけがないのは当然だろう。
これ以上、この件で指示を請おうとしても無駄だと思った里菜は、話題を変えた。
「ねえ、アルファード、さっきのおじいさんたち、何なの? タナティエル教団って、山賊のことじゃなかったの?」
「いや、君にも話したと思うが、彼らはもともと、宗教団体だ。ただ、ヴェズワルに住みついた一派が、このへんで山賊行為を働いているというだけだ」
「あの人たち、ここの人たちと違う神様を信じているの? さっき、ここのとおんなじお祈りの言葉を唱えていたみたいだけど」
「ああ、違う神というわけじゃない。神は同じなんだが、ただ、その神について少し考え方が違うんだ」
「どういうふうに?」
「そういえば、君は、神々のことを、よく知らないのだったな。まず、そのことから話そう。この世界には、生命の女王エレオドリーナと、死の王タナートという、二柱の神がいる。小さな神々、例えばその土地その土地の土着の土地神や、風の精霊、海の主、森の王のようなものは他にもあれこれいるのだが、大きな、主だった神は、この二柱だ。俺たちは皆、出産や結婚式の時は女神に祈りを捧げるし、葬式の時は黄泉の大君タナートに祈る。それは、国中、どこでも同じだが、ただ、女神の聖地に近いこのあたりでは女神に関係する行事や祈りの数が多いし、男神の聖地のある北部では、その逆なんだ。
その北部でも特にタナート神を強く信仰しているのが彼らタナティエル教団だ。タナティエル教団は、タナート神の聖地であるシルドーリンで生まれた。教団自体はずいぶん昔からあるものなんだが、ここ数年のあいだに急速に信者を増やし、同時にいろいろと変質しているらしい。『タナティエル』というのは、古い言葉で『タナートを待つもの』という意味だそうだ。彼らは、タナート神の復活の時を待っているのだという」
「復活って、タナート神は死んだの? 神様も死ぬの?」
「いや……。そのへんのことは、今まで、俺にもよくわからなかったんだが……。俺だけでなく、たいていの人が、なんで彼らが復活などと言うのか訳がわからずにいたんだ。でも、さっき彼らは、たしか、タナート神は眠っていると言っていたな。それで彼らは、その眠れる神が復活する時を待ち続けているというわけだったらしい」
「神様が復活すると、どうなるの?」
「さあ。それも、よくは知らない。なんでも、その時こそ彼らの待ち望むような世の中になるとかいうことらしい。さっき、君も言っていただろう、新しい世がどうとか。それがどういう世なのか、俺は知らないが。
ただ、ヴェズワルの連中は――、ああ、ヴェズワルの山賊というのは、この近辺のものが彼らを蔑んでいう呼び方で、彼らは一般にはタナティエル教団ヴェズワル派と呼ばれているんだが、やつらはこのことで、こんな主張をしているらしい。神が復活したとき、地上に新しい神代の王国が築かれ、そこでは自分たちが、まっさきに神の近くに座れるのだと。
なぜかというと、自分らが<魔王の刻印>を持っており、それが新しい世での救いのしるしだということらしい。彼らは、魔王こそ黄泉の大君、つまりタナート神のもうひとつの姿で、刻印を受けるということは神に選ばれたということなのだと言っているんだ。そして、刻印のないものでも、ヴェズワルに来て、信仰のあかしとして手首に刻印に似せた刺青をしてもらえば神の近くに座る権利が得られると言って信者を集めているらしい。俺もその刺青は何度か見たことがある。
だが、どうも、それはタナティエル教団の正統の主張ではなくて、ヴェズワル派独自の主張らしいんだが、その正統の主張のほうがさっぱり宣伝不足で、ヴェズワル派の主張のどこまでがシルドーリンと同じで、どこからが違うのかもよくわからない。第一、ヴェズワル派の主張のほうが分かり易い。だから最近ではそっちのほうが広く知れ渡ってきて、タナティエル教団全体を、憎むべき魔王を崇拝する邪悪な教団だと考えるものも増えている。彼らがシルドーリンでひっそりと暮しているあいだは、決してそんなふうには思われていなかったんだが。
だいたい彼らは、もともと謙虚な人たちで、死の前では誰もが平等だと唱え、自分たちが神に選ばれたものだとか、そんなことは一言も言っていなかったはずなんだ。だが、さっきの話からして、シルドーリンの連中も、魔王とタナート神を何か関係のあるものだと思っているのは間違いなさそうだな。
それに、彼らが昔から魔物や魔王の刻印を恐れていないのは確かだ。
シルドーリンでは昔から、刻印を受けたものを教団に受け入れ続けてきた。魔王の刻印はこの世の生活への過剰な執着を断ち、信仰に入る助けになるから、それを受けたことを喜び感謝しろと言って、彼らを祝福するのだそうだ。かと言って、刻印のないものに刺青をするとかいうことは、なかったはずだが。
そういうわけで昔から、刻印を受けたものは、聖地シルドーリンに巡礼に出て、そのままタナティエル教団に入ることが多かった。実際、あそこでは、刻印を持つものでも普通に長生きし、穏やかな人生を送れることが多かったと聞いている。だから、タナティエル教団が最近急に大きくなったのには、魔王の刻印を受ける者が増えたせいもあるんだ。
今、タナティエル教団にはいろいろと良くない評判がたっているが、昔は彼らは、普通の人にも結構尊敬されていたものなんだ。だが、ヴェズワルの連中が山賊行為をするようになって、この辺ではタナティエル教団の評判は非常に悪くなった。もっとも、しばらくして、ヴェズワルの連中はタナティエル教団内の異端分子というか、過激分子で、古くからの穏健なシルドーリン派と内輪揉めをしているらしいこともわかってきたんだが……。さっきの話では、ヴェズワルとシルドーリンの関係は、思っていた以上に悪化しているらしいな。ようするに、組織が急に大きくなりすぎて、まとまらなくなったんだろう」
「アルファード、ずいぶんくわしいのね」
「ああ、そうでもないが……。彼らは謎の多い連中で、外部のものには、詳しいことはあまりわからないんだ。ただ、ヴェズワルの奴らは俺たち自警団の宿敵だから、俺は、彼らについてはそれなりに研究しているつもりだし、彼らと接触する機会も多いから、他の人よりは情報も入る。彼らは大抵、ちょっとおかしくなっているから、捕えられた時などは、尋ねもしないことまで自分からいろいろと喚きちらすことが多いんだ」
「ねえ、捕まえた山賊は、どうするの? そういえば、昼間の女の人とか、縄で縛ったらどうするつもりだったの?」
「どうもしないさ。ただ、一通り尋問してから、プルメールにある監獄まで護送するだけだ。護送したって、形ばかりの取り調べのあと、そのへんにほうり出されてしまうだけかもしれないし、監獄に入っても、こそ泥程度じゃ、すぐに追い出されるだろうが。最近は治安が悪くなって、監獄も満員だから、こそ泥なんかを長く入れてタダ飯を食わせる余裕はないんだ」
「なんだ、それならたいして怖くないじゃない。それが怖くて自殺したなんて、よくみんな信じるわね」
「いや、どこの自警団でも俺たちのようにするわけじゃない。よそでは、プルメールまで連れて行くなどという手間はかけずに、罪人を私刑にしてしまうことも多い。うちも昔はそうだったらしいが、ひどい時は縛り首だ。そこまでいかなくても、かなり残虐なことをする連中もいるようだ。特に、この辺のものはヴェズワルの連中には恨みを持っているから、たとえ罪状がただのこそ泥でも、それがタナティエル教団のものとわかれば、どんな目にあわせるか分からない。あの女がそれを恐れたとしても、おかしくはない。
しかし……。あの女といい、今の連中といい、ああいうやつらに回りをうろつかれるとまったく困る……。こんなことが、今後もあるようだと、また君のことをとやかく言うやつが増えるだろう。そうでなくとも、いろいろと……」
続く言葉を呑み込んで、黙り込んだアルファードに、里菜も心配になって尋ねた。
「ねえ、アルファード、あの人たち、ここへ来る時、誰かに見られたかしら?」
「ああ、たぶんな。それに、来る時に見られていなくても、君を探し歩いていたようだから、その時に人に何か尋ねたりしただろう」
「やっぱり、それって、まずいのよね?」
「ああ、かなり、まずい。この辺じゃあ、やつらの黒衣は、魔物の灰色のマントと同じくらい忌み嫌われているからな」
アルファードは、そのまま腕を組み、宙を睨んで考え込みはじめた。
しばらくして、アルファードは、何か心を決めた様子で急に顔を上げ、まっすぐに里菜を見つめた。
「リーナ……」
「は、はい!」
アルファードの様子があまり真剣なので、里菜は思わず緊張して答えた。
「リーナ、その……。突然の話で、驚くと思うんだが……。いや、でも俺は、何も思いつきでこんなことを言うわけじゃないんだ。もう、ずっと前から真剣に考えていたことなんだ……。そう、たぶん俺は、あの日、女神の淵で初めて君を見つけた時から、いつかこういう日が来ると知っていたんだ……」
(え、なに、なに? アルファードは何を言い出すの?)
アルファードがふいに椅子から立ち上がり、テーブルを回って自分のほうにやってくるのを、里菜は目を丸くして見つめていた。
里菜の前に立ったアルファードは、里菜の手を取って、椅子から立ち上がらせた。
愛しいアルファードに手を取られ、いつになく熱いまなざしで瞳をじっと覗き込まれて、里菜は、夢の中で魔王の大鎌に呪縛された時のように動けなくなった。目を反らすこともできない。声も出ない。気が遠くなりそうだ。
「ああ、その……。君が嫌でなければの話なんだが……。その……」
(え、え、え……。アルファードは何を言うの? もしかして、さっきのあたしの告白と関係あること? ええーっ、どうしよう!)
パニックを起こしかけた里菜の耳に届いた言葉は、しかし、里菜が予想だにできなかったようなものだった。
アルファードは、里菜をひたと見つめて、力強く、こう言ったのだ。
「……リーナ。一緒に軍隊に入らないか?」
「へっ?」
里菜の頭の中が真っ白になった。
真っ白になった頭のなかに、ただひとつ浮かんだ考えは、こうだった。
(目がテンになるって、こういうことを言うのね……)
(── 第一章・完 第二章に続く ──)
第一章完結しました。ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
次回は、これまでのまとめとして『第一章あらすじ』をアップします。
その後で第二章に入ります。
今後も引き続きお付き合いくださると嬉しいです。