第一章<エレオドラの虹> 第一場(2)
羊飼いの仕事は、嫌いではない。無口な彼は、物言わぬ獣たちを愛する。一日中、犬と羊だけを相手に山のまきばで過ごすこの仕事は、村の誰からも温厚な人格者と見なされ、もう何年も村の自警団長を勤めて村中の若者たちから頼れる兄貴分として慕われていながら本心では人付き合いをあまり好まない彼にうってつけだ。羊を見張りながら、唯一本当に心を許す友であるミュシカと無言で並んで座り、時にはミュシカに羊を任せて身体の鍛錬や剣術の稽古に励むこともできる。
アルファードは、一時期、身体を鍛え剣の腕を磨くことに、憑かれたように熱中してきた。それはたぶん、彼に魔法が使えないからだったのだろう。魔法の力がない代わりにせめて埋め合わせとして別の種類の力が欲しいと、心のどこかで、たぶん思っていたのだ。一時期の彼が見せていた一種強迫的なまでの『力』への執着は、二年前のある日を境に憑き物が落ちたように影をひそめたが、それからも彼は、身体が鈍らない程度の――と、本人は称しているが、他人から見れば充分激しい――鍛錬を欠かすことはない。
村に現れた当時、アルファードは、色白で、どちらかというと線の細い印象のある少年だった。が、今、彼の均整の取れた長身は一分の隙もなく見事な筋肉に鎧われて無駄なく引き締まり、あのころの、育ち良さげだがどこかひ弱そうな少年の面影はどこにもない。肩幅の広い、がっしりしたその体躯は、ただ黙って立っていてさえ静かながらも圧倒的な力の気配を全身から発散して、それが彼を、実際の身長以上にさらに大きく見せている。
そんなアルファードの力強い姿を頼もしげに見上げて、村人たちは、目を細める。それは、立派に成長した自慢の息子を見る目だ。村の大人たちの考えでは、彼は女神から村への贈り物であり、だから、誰の家に引き取られようと、村全体の養い子も同然なのだ。そして、その、女神から授かった彼らの愛息子は、期待に違わず、こんなにも強く逞しく、礼儀正しく孝心厚く育って、冬至の火祭りに演じられる古い聖劇の中の少年英雄そのままに、恐ろしいドラゴンから村を守ってくれている――。
イルシエル山脈を越えて、世界の果てのその向こうから時おり人里に飛来する巨大なドラゴンは、このあたりの村では最も警戒される危険な害獣である。そのドラゴンを、これまでに何頭もその手で斃してきたアルファードは、<ドラゴン退治のアルファード>として近隣に名をとどろかす、村の英雄だ。
理由は知られていないが、他の動物と同様、ドラゴンには魔法による攻撃が効かない。だからドラゴン退治は、魔法を使えない彼にとって、それがハンディにならない数少ない仕事であり、彼は、ひたすらその鍛え上げた肉体と磨き抜いた剣の技にものを言わせて、村を荒らすドラゴンを、かたっぱしから退け続けてきたのだ。
こうして彼は、この古い村で、来る日も来る日も羊を見張り、たまさか現れるドラゴンを斃しながら、<マレビト>として生きてきた。
決して、不幸な境遇ではなかったと思う。
どこから来たのかもわからない天涯孤独のみなし子を、村人たちは、女神に遣わされた聖なる御子として貴重な贈り物のように受け入れ、その成長をつかず離れずやさしく見守り、過去を持たずどこにも属していなかった彼に、暖かい居場所を与えてくれた。貧しくはあるが、時の止まったかのような村の暮らしは穏やかで、誰もが肉親のように彼を気づかい、彼を誇り、信じ切って頼ってくれる。心優しい村人たちに対する、彼の、感謝の念は深い。
けれど、祭りの季節が廻りくるたびに、彼はふと、考えずにはいられないのだ。
(俺は、どこから来て、なぜ、なんのために、このような存在として、ここに、この場所にいるのだろう。俺はいったい、何者なのだろう……)
魔法の使えない、はんぱものの自分。半人前の、出来損ないの男。女神のおさな子よ、ドラゴン退治の英雄よと祭り上げられながら、まともな仕事もできず、夏には羊を見張り冬にはドラゴンを殺す。単調な日常の繰り返し。
村の、女神の司祭のばあさまは、常々、彼のことを、祭りの聖劇の中の童形の英雄になぞらえて、ドラゴンから村を守るために女神が遣わした聖なる御子なのだと言っていたが、そんな言葉を、彼は信じてはいなかった。もしもドラゴン退治が彼の天命であり存在理由であるならば、彼は、ドラゴンと戦うことにもっと喜びを感じ、<ドラゴン退治のアルファード>と呼ばれることに誇りを感じてもよいはずだ。けれど彼は、たとえドラゴンといえども生き物を殺すことは好きではなかったし、また、そうして誰からも自分の名をドラゴンと結びつけて呼ばれることに、むしろ、微妙な抵抗と屈託を感じている。
が、それでも、ドラゴンの害から村を守るためには誰かがドラゴンを斃さねばならないことは分かっていたし、彼に<本物の魔法の力>がない以上、村の食客、養われものである彼が村人たちの育ての恩に報いるためにできることは、身体を鍛えてドラゴンを退治することだけなのだ。
(俺は、これからもずっと、ここでこうして、ドラゴンを殺しながら生きていくのだろうか。そのことに、いったいどんな意味があるというのだろうか……)
思いに沈みながら歩くアルファードの陽に晒された髪を、冷え始めた山の夕風がなぶっていく。
いつのまにか、虹は消えている。短い秋の日が、暮れようとしている。空はまだ儚い青をとどめ、山頂には夕日の最後のひとかけらが宿っているが、すじ雲は桃色に染まり、谷あいのイルドの村のあたりは、もう、夕闇の底に沈んでいる。
女神の淵へと下る脇道に入ってしばらく行くと、女神を祀る古い祠がある。祠の前で、彼は半ば無意識の内に足を止め、軽くこうべを垂れて、幅広の銀の腕輪をはめた左手首を胸にあて、村の習慣どおり、女神に敬意を表した。
そうしてから、苦笑した。
養い親のレグル老は、信心深い人間だった。祠の前を過ぎるとき、礼拝のしぐさを忘れると、厳しくたしなめられた。そのころの習慣が、いまだに身体にしみついている。養い親の形見と思いなして肌身離さず身につけている、装飾品というには少々武骨な銀の腕輪が、すでに自分の身体の一部となってしまった気がするのと同じように。
祠を過ぎると、草に埋もれかけた小道は急に下りの勾配がきつくなって、ほどなく、木立のすき間から、眼下に淵が見えてくる。淵と言っても、手前のほうは浅い淀みになっていて、上流から流れてきた木の葉などが溜って静かに渦を巻いている。その淀みに、かつて、彼は、倒れていたのだ。
ふいにミュシカが、ひと声ふた声吠えて、何か訴えるようにアルファードの顔を見上げると、淵に向かって駆け出した。
しつけのよいミュシカは、普段、理由もなく吠えたり、勝手に主人の前に飛び出したりはしない。彼女がこういうことをするのは、その不思議な知覚で何か異変を感じ取った時だけだ。アルファードの心が、波立った。アルファードも、ミュシカの後を追って、心のざわめきに駆り立てられるように走り出した。
狭い切り通しを駆け下りて淵のほとりにたどりついたアルファードの目に最初に飛び込んで来たものは、なにか、青色のものだった。
アルファードは、はっと立ち止った。
それは、彼が発見されたあの淀みに仰向けに倒れている、一人の少女だった。
少女は、見慣れぬ意匠の濃紺の衣服を身につけており、その、細かくひだを取った奇妙なスカートが、青い花が開くようにふわりと広がって、水の流れに揺れていたのだ。
ミュシカが、岸に座って、もの問いたげにアルファードを見上げている。
たぶん、かつての彼がそうだったように気を失っているのだろう、少女は目を閉じて、か細い手足をぐったりと投げ出し、布きれのように頼りなく、浅い水に浮かんでいる。
アルファードは呆然と立ち尽くし、夢を見ているような思いで少女を見つめた。
ほっそりとした、華奢な少女だ。たぶん、まだ幼い。漆黒の長い髪と濃紺の衣服が、水の中で揺らいでいる。スカートが揺れるたびに白い素脚が膝小僧まであらわになって、アルファードの目を思わず背けさせる。
透き通るように薄い青い花びらを持つ不思議な形の花がいくつも、少女を取り巻くように水面に浮かんでいるのに気づいたアルファードは、さらに目を見張った。
(<女神の花>だ……)
大人の掌ほども大きさのあるその花は、山頂の結界の中だけに人知れず咲くと言う神秘の花だった。ごくまれにその花びらだけが川を流れて来ることはあっても、花が咲いているところはこれまで誰も見たことがないはずの、その、幻の花が、今、彼の目の前で、暮れ行く水のおもてにゆらゆらと漂っている。
夕映えの名残りも木立に遮られて届かない緑の薄暗がりの底で、儚げな青い花弁にそっと包み込まれた真珠色の蕊は幽かな燐光を湛えて、そこだけぼうっと川面を明るませ、まるで、女神の祭壇に飾られる、花をかたどった燈明立てを川に浮かべたかに見えるのだった。
花芯に淡い光を抱く青い花に囲まれて、少女は、何か、触れてはならない神聖なものに見えた。女神の祭壇の花の形の燈明立てに似つかわしい、この世のものならぬ、幻めいた何かに。
まぶたを閉じたその顔は、決して死者のようにではなく、ただ安らかに眠っているように見えたが、一方で、生あるものの持つ生々しさを一切感じさず、やはり、この世のものとは思われなかったのだ。
瞳の中に眠る秘密の夢を守るように、ひっそりと閉ざされた白いまぶた。細かな水滴を真珠のように飾って伏せられた漆黒の睫毛。精巧に刻み込んだ薔薇水晶のような、さくら色に透き通る耳たぶ。おとぎ話の王子のくちづけを待ち受けるかのように微かにほころんだ、あどけない唇――。
華奢な肢体はいかにも脆そうで、武骨な手で不用意に触れたらたちまち砕け散ってしまいそうだったし、薄闇に浮かび上がる白い肌は半ば透き通っているようにさえ見え、さっき見た虹のように、今にも薄れて消えてしまいそうだった。
あえかに儚げなその姿は、生身の少女というには、あまりにも、清らかすぎた。
アルファードは、人が思っているほど信心深い人間ではない。人並みの魔法さえ使えぬただの人間の男が十数年間も<女神のおさな子>などと言われ続けてきて、その本人が、どうして信心深くなどなれるだろう。彼が村人たちから『女神の御子だけあって模範的な信心者だ』と信じられているのは、ただ、自分に良くしてくれる村人たちに対する礼儀として、村の信仰やしきたりに常に敬意を払ってみせているからだ。他の若者たちがよくやるように、これといった理由もなく単なる幼稚な反抗心から古いしきたりをわざとないがしろにしてみせて善良な老人たちを嘆かせるような無意味なことを、彼はしなかったというだけの話なのだ。
もしも女神を礼拝することが自らの信条に反し、自らを貶めることになると思えば、彼は、力づくで強制されても礼拝を拒むだろう。が、彼には、女神への礼拝を拒まねばならぬ内的な必然性など、別に無い。だったら、無意味に礼拝を拒んで人の気持ちを傷つけ、よけいな摩擦を生むのは、単なる無駄であり、愚行である。彼は、無駄や不合理、非効率を嫌う。無益なこと、無意味なことは、なるべくしない主義だ。彼が礼拝を拒むことで悲しむ人や、彼がしきたりを尊重して見せることで心が慰められる人がおり、かつ、彼らの信仰を傷つけないように振る舞うことが自分の信条に反しないなら、そのように振る舞っておけばよいのである。
そんなふうに、彼は、ただ、自分の信念に反しない範囲で村人たちの心情を尊重し、他人の心を無意味に傷つけぬために礼儀正しく振る舞ってきただけなのだ。──少なくとも、自分では、そのつもりでいた。
けれどもこの時、アルファードは、ふいに、敬虔な想いに捕らわれた。
(奇跡は、本当にあるのだ。たぶん俺は、人の言うような女神の御子などではないが、それでもやはり、女神は、俺に、特別な運命を用意していたのだ。女神の愛し児は、今、こうして、他の誰でもない、この俺の前に現われた……)
天啓のように訪れた運命の予感に、彼の胸は我知らず打ち震えた。
(そうだ、俺が今、ここにいること──俺が今までここで生きてきたことには、ちゃんと意味があったのだ。この村での俺のこれまでの日々は、きっと、今日、この日のためにあったのだ。今、ここで、女神の愛し児を水の中から抱き上げ、地上に連れ出すために。女神の愛し児の、この世への誕生に立ち会うために……)
アルファードは、水の中に足を踏み入れた。