第一章<エレオドラの虹> 第十二場(3)
アルファードの家は、村の中心部から少し離れている。
遠足にでも行くようにはしゃいでいる子どもたちを引き連れたローイと里菜は、広場へ向かって、並んで歩いていった。
里菜が広場へいくのは、別に初めてというわけではない。牧場 へ行っていたころは、夕方、ここで羊たちを持ち主に引き渡していたし、その時ついでにパンや雑貨を買ったりもしていたのだ。でも、そのときは必ずアルファードと一緒だった。アルファードと一緒にではなく村の中心部に行くのは、初めてだ。
そう思った里菜は、ほんの少し緊張しながら、あらためてあたりを見回した。
最後にこの道を通ってから、半月ほどたっている。その間に、道沿いの畑も木立も、すっかり冬めいてしまったように感じられる。冷たく澄んだ空気と、金色の午後の日差しが心地よい。子供たちの元気な声を聞きながら歩くうちに、アルファードの言いつけを破った後ろめたさで強張っていた里菜の気持ちも、のびやかにほぐれてきた。牧場 《まきば》に行かなくなってから、里菜はずっと、アルファードの家とその庭を離れたことがなかったのだ。解放感が、緊張と後ろめたさに取ってかわり、里菜は大きく伸びをして、空を見上げた。
そんな里菜の様子を横目で見ながら、道中のあれこれを面白おかしく解説していたローイが、ふいに真顔になって、こう言った。
「あんた、アルファードに、惚れてんだろ。なんでまた、あんな堅物に。あんた、あいつにゃ、勿体ないよ」
突然の言葉に、里菜は真っ赤になった。
「な、なんでわかるの?」
「なんでって、あんたまさか本当に、わからないつもりだったのかよ。そんなの、誰が見たってわかるさ。今だって、そんなに真っ赤になってさ。あんたがアルファードのあとをついて歩いてるとこは、まるでアヒルのヒナみたいだぜ。……でも、けちをつけるつもりはないけどよ、あんたのそれはさ、恋っていうより、ほら、アヒルのヒナが最初に見たものを親だと思ってくっついて歩く、あれとおんなじなんじゃねえの? あんた、この国に来て目を開けて初めて見たのがアルファードだったろう。そんでアルファードのこと、親鳥だと思いこんじまったとかさ。いや、気に障ったら許してくれよ。俺、思ったことは、すぐみんな言っちまうからさ」
里菜は、ちょっと驚いて、それから考え込んだ。
言われてみれば、自分のアルファードへの想いは、たしかに、それに近いものかもしれないという気がしてくる。もとより里菜は、どういうのが恋でどういうのがそうでないかなど自分に区別できるとは思っていないが、それにしても、自分はただアルファードに頼り切っていて、いつも甘えていたいだけで、それは、恋愛感情というのとは、さすがにちょっと違うような気もするのだ。なるほど、親鳥を慕うヒナと変わりない。
だいたい、よく考えてみれば――よく考えてみるまでもなく――、アルファードは、もともと、里菜の好みのタイプというわけでもないのである。極端にオクテであまり恋愛に興味のなかった里菜に、それほどはっきりした異性の好みというのがあったわけでもないのだが、少なくとも彼のようなやたらと男っぽいタイプは絶対に好みでなかったことだけは確かだ。好みであるとかないとか考える以前に、そもそも、まるっきり対象外で、視野にも入って来なかっただろう。
だから、例えば、里菜がアルファードと『あちら』の世界の日常生活の中でたまたま普通に行き合っていても、彼に特別な関心を持つことは、まず無かっただろうと思う。
まあ、タイプとして好みであろうとなかろうと、人柄を知ってみたら実は良い人だったというなら好きになっても不思議はないが、あんなふうに、ほとんど一目で彼に恋に落ちてしまったというのは、確かに、なんだか不自然だ。
いや、そう言えば里菜は、一目惚れどころか、顔もろくに見ないうちから、すでに彼に恋していたような気がする。恋をしていたというより、はっきりした根拠は何もないのに最初から彼を信じ切っていて、川から抱き上げられて運ばれて行く時も、その腕の中であんなに安心しきって、うっとりと眠りかけたりしていたのだ。
顔もよく見ず、人柄も知らないうちに、恋ができるものだろうか。
だいたい、いくらまだ意識が朦朧としていたからといって、自分が見知らぬ男の腕の中であんなふうに安心して眠り込むなんて、よく考えてみれば、確かに変だ。『刷り込み現象』のなせるわざとしか考えられない。
今まで、自分では一人前に彼に恋をしているつもりでいたが、もしかすると、これは、ただ、『刷り込み現象』を恋と錯覚しているだけなのだろうか。
ローイは、一生懸命考え込んでいる里菜を覗き込んで、ふいにおどけた調子で言い出した。
「でも、もったいねえよなあ。あんた、大損してるぜ」
「え? 損って、何が?」
「だってよ、この国に、男はごまんといるのに、たまたま最初に見たのがアルファードだったからって、あんたみたいなかわい子ちゃんが、あんな朴念仁に惚れちまうなんてよ」
「別に、最初に見たから好きになったなんてわけじゃ……」
「いいや、そうだ。そうに決まってる。あんたの国には、こういう話はないのか。ほら、小箱の中に、親指くらいのきれいなお姫様が閉じ込められてて、たまたまその箱の蓋をあけた貧しい若者のお嫁さんになる、みたいな話」
「うーん、もしかするとどこかにあるかも知れないけど、あたしは聞いたことないわ。壷とか瓶とかランプとかに閉じ込められていた魔神が、蓋を開けて出してくれた人の願いをかなえてくれるって話なら知ってるけど」
「あははは、壷の魔物か。そういう話なら、この国にもあるよ。壷から出してもらった魔物は、助けてもらった恩のために、出してくれた人の言うことは何でも聞かなきゃならなくなるんだ。こりゃあ、いいや。あんた、まさに、それを地でいってるよ」と、ローイがあまり大笑いするので、里菜は思わず、むっとした。
「なによ。どういう意味?」
「まあ、怒るなよ。だってあんた、アルファードのいいなりじゃん」
「そんなことないわ!」
「まあまあ、怒るなって。でも、あんたじゃ、壷の魔物の役は、ちっと無理そうだなあ。たしかに不思議な力があるっちゃあ、あるかもしれないが、それで何が出来るってわけでもないしな。やっぱ、どっちかっつうとシルグリーデ姫だよな。あ、その、箱の中のお姫様、シルグリーデ姫っていうんだよ。
で、さ。彼女は、実は、悪い魔物に、誰でも最初に箱を開けたものに恋をしてしまうって呪いをかけられてたのさ。魔物は、その美しい姫に惚れて結婚を申し込んだんだが、ふられちまったんだ。その腹いせに妖術で姫を小さくして箱に閉じ込め、そんな呪いまでかけて、姫がどんなに愛しても決して振り向いてくれないような男に箱を開けさせようと企んだんだ。ところが魔物は、そういう男を探して世界中を飛び回っているうちに、空の上から、箱を落してしまった。きっと、ちょっとマヌケな魔物だったんだなあ。それから何百年もたって、貧しいけれど心のきれいな若者が箱を見付け、箱から出してもらった姫はもとの大きさに戻って、ふたりは結ばれ、めでたしめでたしってわけ。
それでだな、俺が言いたいのは、あんたにもシルグリーデ姫みたいに何かの呪いがかけられていたんじゃないかってことだ。それであんた、アルファードに惚れちまったわけ。そして、それが大損だっていうのさ。だって、あんたがもしも呪いから解き放たれ、目をさましてあたりを見回してみれば、あんたが恋するのにもっとふさわしい相手が、すぐそばにいることに気がつくはずだぜ。そう、今、ここに、あんたの隣にだよ!」
そう言ってローイはケタケタと笑い出したので、からかわれたと思った里菜は、つん、と、横を向いた。
ローイは笑いを収めて、唇を尖らせた里菜の様子を眩しげに横目で見やって、言葉を続けた。
「でもよ、なんであんたがアルファードに惚れるのか、わかんないんだよな。いや、アルファードが怪物みたいに不細工だとか、ひどく意地が悪いとか、そういうことはないんだが、ただ、俺から見ると、あんたとアルファードって、相性はあんまりよくないように見えるんだ。……ていうか、まあ、割れ鍋に綴じ蓋で、それなりに相性はいいのかもしれねえが、でも、それに安住してると、あんた、ダメになると思う。あいつは、あんたをダメにする。あっちこっちへ伸びあがろうとするあんたの心を力で押えつけて、あんたの魂を矯めてしまうだろう。
……アルファードはな、普段、あんまり温厚でおとなしいから、誰も気付いていないと思うが、あれは、なんていうか、人を支配するタチの男なんだ。そして、あんたは、あんな野郎におとなしく支配されてるような女じゃないはずだ。俺、人間を見る目には、ちょっと自信があるんだぜ。あんたは、ヒナ鳥か飼犬のようにアルファードの後をついてまわっているが、もともと、あんたは、男の後を黙ってついていくってタイプじゃねえだろう。それなのに、アルファードの前では、あんたは、ついていく女になっちまう。それが恋だと言われればそれまでだが、アルファードの前では、あんたは本当のあんたじゃなくなっちまうんだ。今はそれでよくても、そのうち、ムリがでてくるぜ」
たしかに、彼の、ひとを見る目は確かだ。一見軽薄なだけに見えるローイが、繊細で鋭い感覚も持ちあわせているのを、里菜はもう、知っている。
アルファードの前で、里菜が自分を失っているというのは、たぶんそのとおりだろう。里菜はそれを、ただ、恋をしているせいだと思っていた。恋をした女の子は、みんな変わってしまうんだと思っていた。だが、ローイにこんなふうに指摘されると、それが不自然なことにも思えてくる。里菜は、なぜだか言い訳する口調になって言った。
「でもローイ、アルファードは、そんな人じゃないわ。絶対いばったりしないし、それにやさしいし……」
里菜のよわよわしい反論を、ローイが、彼にしては強い口調で遮った。
「やさしいから支配しないってものじゃないんだ。冷酷な暴君も、思いやり深い明君も、支配者には違いないだろう。あいつは、あの、父親みたいなやさしさで、保護者づらして人を支配しようとするんだ。だから俺は、あいつとは友達だし、いいやつだと思っているが、時々あいつに我慢がならねえ時もあるんだ。俺は、たいして年上でもねえ赤の他人に父親面されるのはごめんだからな」
それからローイは、一転して、茶化すような軽い調子になって付け加えた。
「ま、色恋ってのは理不尽なもんで、どういうものか、一緒にいて幸せになれるやつを好きになるとは限らないんだよな。わざわざ、つらくなるようなやつを選んで恋をしてみたりする。そこが色恋の、奥の深いところってもんだ。だからあんたが、それでもアルファードがいいってんなら俺は止めねえよ。まあ、いつまでもつことやら、せいぜい頑張ってみな。何事も経験ってやつさ。実は俺のほうがあんたにふさわしいってことに気付くのはそれからでも遅くないぜ。いや、そのほうが、俺の有難みがよくわかろうってもんだ。そうさ、そういう遠回りが、いっそうふたりの愛を燃え上がらせるのだ!」
ローイは、芝居がかったしぐさで両手を広げて叫んだ。ただでさえ滑稽なしぐさが、赤ん坊をおぶっているので、よけいおかしい。
里菜はローイを睨んで見せたが、彼の愛敬につりこまれて、つい笑い出してしまった。
「もう、何よ、ローイってば! 何が、『ふたりの愛』よ! ふたりって、誰と誰?」
「わかってるくせに! 照れるなよ」
慣れ慣れしく里菜の肩を叩いて、ローイは大笑いを始めた。
ひとしきり笑いころげたローイは、また急に真摯な声音で言った。
「でも、ほんと、冗談抜きでさ、アルファードといるのがつらくなって、やめたくなったら、いつでも俺のとこへ来いよ。俺、ずっと……待ってるから」
それはまるで、突然仮面がはずれたような、素直な言葉だった。少なくとも、そう、聞こえた。
里菜は、不意打ちをくらった思いで、少しうろたえて、目をそらした。
が、ローイは、すぐに、いつものおどけた顔に戻って、ケラケラ笑いながらつけくわえた。
「……なーんてね!」
「ふんだ、ローイのバカ! 何があったって、あなたのとこへなんかだけは、絶対行かないもん!」
里菜は、かすかに頬が赤くなってしまったのをごまかすために横を向いて、ひときわツンツンして叫んだ。一瞬でも、ドキッとしてしまった自分が悔しかったのだ。
「おお、おお、元気、元気。いいことだ! さすが、素手でドラゴンに立ち向かった女の子だけのことはあらあ。あんた、俺の前では、随分威勢がいいよな。アルファードの前じゃ、まるでしおらしいくせしてよ。でも、俺、こういうあんたの方が好きだよ」
この、最後の一言は、里菜に聞こえないように、口の中でそっと呟かれたのだった。
後ろでは、子供たちが、ふたりの会話など気にも留めずに騒いでいる。
幾度か、道沿いの畑や庭で、急がしそうに働く人影が見えた。彼らは、一行が通り過ぎるのを、めずらしそうに手を止めてながめ、何人かは遠くから里菜に手を振り、声をかけてくれた。里菜は笑顔で小さく手を上げて、あいさつを返した。
このあたりでは、冬はどんより曇って小雪が舞っていることが多い。だが、本格的な雪の季節の訪れを前にして、毎年必ず、今日のようなよく晴れた日がしばらく続く。その、冬の初めの短い黄金の日々を、村人は<女神の贈り物>と呼んで、季節に追い立てられるように忙しく冬支度に精を出すのだ。道すがら見掛ける誰もがせわしなげに働いている。働き者の村人は、いつでも忙しいのだ。