第一章<エレオドラの虹> 第十二場(2)
このへんの農村では、学校は、主に、農閑期である冬に集中して授業をする。新学期が始まり、幼い弟妹の世話をする年かさの子供がいなくなった今、あいかわらずろくに働かずヒマそうにブラブラしているローイのところに、学令前の子供たちがまとめて押しつけられた。その子供たちを連れてローイが毎日のように里菜のもとに訪れるうちに、自然と里菜も子守りを手伝うようになったのだ。
ローイと里菜がアルファードの家で子供たちを預かって、よく面倒を見てくれるということが知れ渡ると、そこに集まる子供はますます増え、子供たちは、バターだのチーズだの、アルファードが自分で作れないような食べ物を、子守りのお礼として親からことずかってくるようになった。それは里菜に、自分が村の一員として認められ、少しは人の役に立っているのだという気持を抱かせたし、居候としてアルファードの乏しい食べ物を食い潰すだけだった自分が少しでも食いぶちを稼いだということが嬉しかった。
一人っ子の里菜は子供の世話などしたことがなかったが、そこはローイが子守りの先輩としていろいろ教えてくれ、子供たちも里菜に懐き、里菜も心から子供たちをかわいく思うようになっていた。
「ねえ、あたしたち、託児所やってるみたいね」
あるとき里菜がそう言うと、ローイはけげんな顔をした。
「なんだ、そのタクジショっていうのは?」
どういう仕組みかしらないが、どうも、ここでは、里菜の言葉は、どこかで自動的に翻訳されて相手に伝わっているらしい。その『翻訳』が伝達の過程のどこで起こっているのか――自分の口からは日本語が出ていて、それが相手の頭の中で『翻訳』されるのか、それとも、自分の口から出る段階ですでに『翻訳』されているのか――は、どうにも確認のしようがないのだが、いずれにしても、最初から、互いに別の言葉を話しているという違和感を感じることなく、普通に会話ができている。ただ、固有名詞や、お互いの世界にない事物を指す言葉などは、『翻訳』されずに、そのまま伝わってしまうらしいのだ。
里菜が託児所について説明すると、ローイは、大喜びで叫んだ。
「なあるほど! そういや、そういうものがありゃあ便利だよな。なあ、リーナ、俺と一緒に都へ出て、都でタクジショ始めないか? 都では、外で働いている母親はいっぱいいるんだが、ばあさんなんかが一緒に住んでないうちでは、いろいろ苦労してるらしいぜ。そういう家の子を、金とって預かる。まずは小さな家を借りて二人で始めてさ、うまくいくようなら、だんだん手を広げて、何軒も家を借り、人も雇って、大々的にやるんだ。そうなったら俺たちはもう金持ちだから、父親のいない子供とか母親が病気して困ってるうちの子なんかは、うんと安く預かってやったっていいよな。毎日ガキどもと楽しく遊んで金を儲け、人の役にも立つ。これはすばらしいぞ!」
まさか本気ではないだろうとあいまいに笑って済ませた里菜だが、確かに彼は、託児所経営に向くかどうかはともかく、保父さんには向いていると思ったのだ。
ローイが器用に作ってやったおもちゃで、子供たちがおとなしく遊んでいるときは、里菜とローイは、あれこれとおしゃべりをした。ローイは、子供たちに歌をうたったり、お話をしてやるだけでなく、里菜にも、名調子で、この国の伝説や、歴史を題材にした物語を語ってくれた。それは里菜にとって、面白いだけでなく、とても勉強になったが、もっともローイの語るのは、伝説であるから、必ずしも史実どおりでないのだろう。
一度、里菜は、ローイに聞いてみたことがある。
「ねえ、ローイ、ラドジール王って、本当にいた人なんでしょ?」
「ああ、そうだぜ。ちゃんと、学校の歴史の時間でも教えている、有名な昔の王様だ。でも、ラドジールが本当に伝説で言われているような食人王だったかどうかは、俺は知らねえよ。まあ、戦乱の世に平民から王様にのし上がったなんて男が、人を山ほど殺してないわけはないし、そのなかには当然、女も大勢いただろうし、彼の言動に少々常軌を逸したところがあったとか、お妃が次々早死にして、十三年の在位の間に結局十二人の妃を娶ったとか、最後は城の物見の塔から落ちて死んだとかいうのは史実らしいぜ。でも、一年に一人づつお妃を迎えて、それをみんな婚礼の晩に殺して食っちまったとか、死んだ恋人が彼の腹の中で予言をし続けてたなんていうのは、いくらなんでも、作り話だろうさ。だいたい、負けた国の王様なんて、ろくなこと言われるわけねえんだ」
「ラドジールの国は、負けたの?」
「そうさ、だから今、カザベルじゃなくてイルベッザがこの国の首都なんじゃないか。でも、負けたのはラドジールが死んでからだよ。彼が生きているうちは、連戦連勝、負け知らずだったってさ。だから今でも北部、特にカザベルじゃあ、ラドジールは英雄なんだ。もしあんたが、ラドジールって名前のやつに会ったら、まずまちがいなく、そいつはカザベルの出身だぜ。北部のやつの前で、あの物語をするなよ。絶対、怒るからな」
「北部の人は、この辺にもいるの? 会ったら、わかるの?」
「この村には、いないよ。でも、プルメールあたりまで出れば、いろんなところの出身の人がいる。そうそう、ヴェズワルの山賊も、大半が北部からの流れものらしいぜ。北部のやつは、言葉がなまってるし――もっとも、あっちに言わせりゃ、俺たちのほうがなまってるんだそうだが――、なんとなく貧乏臭くて服装もダサイから、すぐ分かる。北部は気候が厳しいし、土地も痩せてるから、昔から貧しいんだ」
やっぱり、ローイの話は、ためになる。これで里菜は、南部と北部の間に歴史的ないきさつからくる微妙な反目が残っているらしいことも、知ることができたわけだ。
こうして里菜は、ほんの数日の内に、この国について、無口なアルファードが一月半のあいだに話してくれたよりも多くのことを、ローイから教わっていった。
今日も、里菜とローイは、子供たちを見守りながら、おしゃべりに興じていた。
ローイとひとしきり乱暴な遊びに興じた子供たちは、いまはおとなしく、家の中で積み木遊びをしている。ローイの背中では、さっきまでぐずっていた赤ん坊が、いつのまにかぐっすり眠っている。
たあいないおしゃべりをしながら、夕食の材料を物色しはじめた里菜が、つぶやいた。
「あ、いけない。パンが、もう無いわ。アルファードに買ってきてくれるように頼んどけばよかった」
「なに、パンが無い? なら、買いに行けばいいじゃないか。一緒に行こうぜ」
「ううん、だめなの。アルファードに買って来てもらうことになってるの」
「なんで? まさか、あいつ、仕事にいく時、家に金を置いとかないで、全財産持ってっちまうわけ?」
「ううん、そうじゃないけど、アルファードが、勝手に外に出るなって……」
「なにい? 外に出るなぁ? なんでまた、そんな無体なことを」
「ほら、あたし、変な力があるじゃない。それで、人に迷惑をかけると困るから……。家のまわりはいいんだけど、村の、ほかの人がいるようなとこへは、一人で行くなって」
「だって、あんた、もう、その力、抑えられるようになったんじゃねえの?」
「うん。でも、アルファード、慎重だから。それに、山賊が出ると怖いし」
「山賊だあ? 何も俺は、あんたを寂しい山道に引っ張り出そうってんじゃないんだぜ。パン屋は村のど真ん中だよ。そんなとこに白昼堂々と山賊が出るとしたら、それはよっぽどの大襲撃で、そんなのにまきこまれたら、その時はその時で、そりゃもう、しかたないだろうさ。アルファードになんと言って脅かされたか知らねえが、まっ昼間っから山賊が怖くて買い物に行けないなんていったら、誰もこの村で暮していかれないじゃないか」
そう言いながら、ローイはあきれて、まじまじと里菜を眺めた。
(バカか? そんなの、口実に決まってるじゃないか。アルファードは、ただ単に、あんたを閉じ込めておきたいんだよ。あいつはそういうやつなんだ。まったく、この仔猫ちゃんときたら、アルファードがどんな無体なこと言っても、露ほども疑問を持たないんだからな。恋は盲目というが、こりゃ、重症だな)
そのときローイは、よっぽど里菜にこう言ってやろうかと思ったのだ。
『あんた、自分の置かれてる状況ってもん、分かってる? そういうのを、軟禁状態、もっと言っちまえば、飼い殺しっていうんだぜ』
が、さすがに、その言葉はあやういところで呑み込んだ。里菜の前でアルファードの悪口と取られるようなことを言ったら、自分がのほうが憎まれかねないのは分かっているのだ。
こうなると、ローイは意地でも里菜を連れ出したくなる。
「な、行こうぜ。アルファードは、一人で村に行くなって言ったんだろ。俺と一緒ならいいじゃないか」
「うん、でも……」
「大丈夫だって。俺だって自警団の副団長だぜ。いざとなったら、あんたの一人くらい、守れる。山賊くらい、おっぱらってやるさ」
「だって……」
「ああーッ、じれってえなあ! その、『でも……』とか、『だって……』とかいうの、頼むから、やめてくんない? あんた、一生ここに閉じこもって過ごしたいわけ?」
「そんな、一生だなんて。ただ、しばらくの間、あたしがもっと魔法に慣れるまでだけよ」
「バカか、あんた。アルファードが『もう大丈夫』というころには、あんた、ばあさんになってるぜ。だいたい、やつは心配症なんだ。いいから来いよ。俺が責任持つって。もし後でアルファードのやつが何か文句言うようなら、俺んとこへ言いに来さしてくれ。おーい、ガキども、買い物に行くぜ! ついて来い! さあ、リーナ、あんたも、来な」
そう言うなり、ローイは本当に、子供たちを引き連れて出ていってしまった。
里菜はあわてて戸口から叫んだ。
「待ってよ、ローイ! 行くから、ちょっと待って。お金、持っていかなきゃ」
「そうだろ? やっぱり来るんだろ? たかがパン買いに行くぐらいで、ぐだぐだ言わずにさっさと来りゃあいいんだよ」
満足気にそう言ってゆっくりと歩き出したローイの後ろを、小銭を握った里菜が、小走りに追いかけていった。