第一章<エレオドラの虹> 第十一場(3)
「魔物は、どうして人を掴んだり、村を襲ったりするの? なんで人を殺さないで、ただ刻印っていうのをつけていくの? そんなことして、何の得になるの?」
「わからない。やつらは、魔物だ。人間じゃない。やつらには、人間のような知性も感情もないらしい。魔物と戦ったものの話では、やつらが物を考えているとは思えなかったそうだ。ただ、決められたことをその通りにするだけ、という感じで、口もきかないんだそうだ。少なくとも、魔物が話すのを聞いたものは、誰もいないという。
ただ、伝説では、<魔王の刻印>について、こう言われている。魔王は、手下の魔物に命じて人間にそれをつけさせ、その人間の絶望を食べて永遠の命を繋ぐのだと。だから、魔物は人を殺さずに刻印だけつけていくという訳だ。魔王が、この国を一気に滅ぼしたり、人間を皆殺しにしたりしようとせず、何百年も、そうして少しづつ人間に刻印を与え続けてきたことを考えると、もしかするとそれは本当なのかもしれない。今だって、魔物と、魔王の灰色の幻の軍勢は、都を攻め落とそうとはしない。悲観的な考えを持つ学者たちは、この世界について、こう言っている。魔王こそ、この世界という牧場の支配者たる羊飼いで、絶望という乳を絞るために人間という羊を飼っているんだと。だから、人間の中に、贄として<魔王の刻印>を受けるものがあるのは、逃れられない宿命なのだそうだ」
「あたし、信じないわ、そんなこと! この世が魔王の牧場なら、なんでこの村は、こんなに美しいの? 人間が、絶望を搾り取られるために生きているだけの家畜でしかないなら、なんで人間は、よろこんだり悲しんだり、愛し合ったりするの?」
「リーナ……。俺だってそんなことは信じないさ。ただ、中には悲観的な考え方を持つものもいるという話だ」
「そうか。話の腰を折って、ごめんね。……ね、魔物が光に弱いって、月の光は平気なの?」
「ああ、魔物は、月の光も、太陽ほどではないが、あまり好まないらしい。三日月くらいなら、月があってもたまに出てくることがあるが、満月の夜なんかは、まず出てこないそうだ。でも、月が明るい時でも、物陰に入ったり、月が雲に隠れたりすると、それまでどこにいたのか、湧いて出るように現われることがあるから、今、北部では、夜、外へ出るものは、まず、いないそうだ。さっき言ったとおり、このへんにはまだ、魔物が現われたことはないんだが……。でも、約束してくれないか。いつ、このへんにも魔物が現われるかわからないのだから、昼間もそうだが、夜は特に、絶対、一人で外へ行かないと。夜、外へ出る必要なんかないはずだが、君はどうも、月が奇麗だとか星が見たいとか、そんな理由でふらっと外に出てしまいそうで不安だ。君は、あんまり無防備すぎる。君のいた世界は、よほど安全なところだったのか、それとも君が、よほど、お姫様のように大切にされ、あらゆる危険から注意深く守られていたのか、たぶんその両方なんだろう。俺には、君がそんなふうに幼子のように無防備でいられることの幸福が、とても貴重なものに思えて、それをそのままに守りたいと思い、それでつい、君に危険な物事について何も話さずにきたのだが……。でも、この世界では、夜の戸外は、危険に満ちている。魔物が出なくても、獣や、山賊や、いろいろな危険があるんだ。だから、決して、夜、勝手に外へ出たりしてはいけない」
「うん……」
里菜はうしろめたさを隠してうなずいた。
(あれが魔物だったのかしら。じゃあ、これは、<魔王の刻印>なの? でも、あのとき月は、あんなに明るかったし、<魔王>はとても背が高かったわ……)
「ねえ、アルファード。魔物のマントは、必ず灰色なの? 黒ってことはない? 魔物は馬に乗るの? 魔王って、どんな姿をしているの?」
里菜の矢継早な質問に少しめんくらいながら、アルファードは、考え考え答えた。
「魔物のマントが灰色なのは、今までの例では、まちがいのないことだ。ただ、風説によると、魔王は黒いマントを着ているということだ。魔王の姿については、なにしろ、誰も見たものがいないから、いろいろな説があって、身の丈三メートルはある醜い大男で、角と牙があるとか、口が耳まで裂けていて尻尾があるとか、逆に、この世のものならぬ神々しい美青年であるとか、あるいは魔物に良く似た、白骨の手を持つ黒い影であるとか、いろいろ言われている。だが、黒衣をまとっているという点では、どの説でも一致している。だから、この国では、タナティエル教団のものが黒衣を着るほかは、昔から、誰も黒や灰色のマントを着たり、作ったりはしない。灰色のマントなんか着ていたら、魔物と間違われて殺されても、文句は言えない。魔物を退治したものは、その灰色のマントを<賢人の塔>に持っていけば、報奨金が貰えるんだ。魔物は、死ぬと紙のように燃えて消えてしまうんだが、マントは必ず、燃えずに残るんだそうだ。魔物が馬に乗るかは、知らないな。乗っていたという話も、乗れないという話も、聞いたことがない。背丈については、全部の魔物が、ぴったり同じ背丈ということも、ないんじゃないか? 多少の高い低いは、あっても不思議はないだろう」
「ふうん……。アルファード、ちょっと、話は、変わるんだけど……。エレオドリーナって名前、聞いたことある?」
アルファードは、意表をつかれた面持ちで、まじまじと里菜を見た。
「ああ、無論、あるが……。この辺では、ごくありふれた女の名前だ。……それじゃあ、リーナ、君の正式名は、エレオドリーナじゃなかったのか。俺はてっきり、そうだと思い込んでいたが、そういえば、君は別の世界から来たんだから、この国の女神にちなんだ名前を持っているはずがなかったな」
「あたしのもともとの名前は、ただの『リナ』よ。『あちら』の世界の名前。ただ、ここの人は『リーナ』のほうが言いやすいみたいだから、そう呼んでもらってるだけ。……ねえ、エレオドリーナって、女神の名なの?」
「ああ。ふだんは、ただ、女神、と呼び習わしているが、この、エレオドラ山の女神は、エレオドリーナという名前なんだ。だから、この辺では、女神にちなんでエレオドリーナと名付けられる女の子は、とても多い。どこの村にも、二、三人は、いるだろう。この村でも、ほら、昨日宴会に来ていたドリーという娘がいたろう。彼女の正式名は、エレオドリーナだ。エレオドリーナという名だと、リーナと呼ばれるのが一般的なんだが、数年前に亡くなった彼女の祖母が、やはりエレオドリーナで、リーナと呼ばれていたので、彼女はドリーと呼ばれるようになったんだ。でも、リーナ、なんで急にそんなことを聞くんだ? 誰かに、そう呼ばれたのか?」
「うん、まあ……」
「そうか、それじゃあ、きっと、俺と同じように、早合点して、そう思い込んでいたんだろう」
「うん、そうかも……」
里菜はあいまいに頷くと、また、急に話題を変えた。
「ねえ、アルファード。さっき、アルファードは、今の自分がただの夢かもしれないと思うことがあるって言ったでしょ。あたしも、前は、いつもそう思ってたの。もとの世界にいたころ。そして、あたしも、自分の人生を夢の中のできごとかもしれないと思っても、それは、全然、怖くなかったの。逆に、自分が今、ここに生きているということが夢じゃないとわかるのが、怖かった。いつも、心のどこかで、これは全部ただの夢なんだと思っていて、そう思うことで、なんとか生きていられたような気がするの。
だって、夢の中でだったら、私が何をして、それで何がどうなっても、どうせ夢なんだから平気だけど、現実だったら、全部のことが本当で、とりかえしがつかないんでしょ? それって、なんだか怖い。だから、時々、そういえばこれは本当は夢じゃなくって全部現実なんだって、我に返るみたいにふっと思い出した時には、家からほんの一歩でも外に出るのも、毎日会っている学校の友達に会って口をきくのも怖くなった。自分の外の世界のすべてと関わるのが辛くて、もし、できるなら、サナギみたいに、大人になるまで殻の中に隠れていたいって──、そうやって、自分がもっと大人になって、もう取り返しのつかない間違いなんか犯さずに、後悔なんかせずに生きられるように──、つまらないことで傷つかないくらい強く、うっかり人を傷つけてしまうことがないくらい賢くなって上手く世の中を渡っていけるようになるまで、固い殻に包まれて、誰とも関わらずに現実をやり過ごしていたいと思うこともあった。
でも、さっき、あなたが、これが夢なんじゃないかと思うって言った時、あたし、怖かったの。前とは逆に、『これが夢でなかったらどうしよう』、じゃなくて、『夢だったらどうしよう』、と思ったの。それは私が、初めて、今、この時を、ここにあるこの世界を、現実であってほしいと思うことができたからだと思う……」
里菜の唐突な長い述懐を、アルファードは黙って聞いて、ただ、
「そうか」と頷いた。
そこへ、明るい声とともに、バタンとドアが開いた。
「おはよう! 後片づけ、手伝いに来たわ!」
ドアの向こうに現われたのは、春の日差しのようなヴィーレの笑顔だった。
開いたドアから明るい光と朝の風が小さな部屋に流れ込み、里菜の中に再びよみがえりかけていた悪夢の余韻を吹き払ってくれるような気がして、里菜は思わず、ヴィーレに駆け寄って手を取った。
「おはよう、ヴィーレ! あなたが来てくれて、とてもうれしいわ!」
「あら、やだ、リーナ、そんな、大袈裟な。そんなに後片づけが心配だったの?」と、ヴィーレは笑い出だした。
「手伝いに来るの、遅くなってごめんなさいね。今日は、お母さんの具合がよくなくてなかなか出て来れなかったの」
軽やかな足取りで入ってくるなりアルファードの手もとに目を止めたヴィーレは、
「あら、お皿、割っちゃったの? いやだわ、また、砂で磨いたりして……。あたしが来るまで待っててくれれば、いくらでも水が使えるんだから、置いといてくれればよかったのに」と、眉をひそめた。
「いや、その……」と、アルファードが何か言い訳しようとした時には、ヴィーレはもう、お皿の山をアルファードから奪い取っていて、
「やっぱり思ったとおり、ローイのおバカさんは、あなたたちにみんな押し付けていっちゃったのね。もう、しょうがないったら……」と楽しげに呟きながら、里菜には手を出す隙さえないような勢いで、春の嵐のように猛然と部屋を片付け始めたのだった




