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第一章<エレオドラの虹> 第十一場(2)

「リーナ、どうした? 大丈夫か!」

 アルファードの声が遠く聞こえた。

 崩れ落ちそうになった里菜の小さな身体を、アルファードがあわてて抱きとめた。その暖かく力強い腕の感触が、里菜の正気を繋ぎ止め、里菜は、アルファードの腕につかまって体勢を立て直した。

「うん、大丈夫……。ごめんね、ちょっと、立ちくらみ、みたい……。ほら、雑巾がけしてて、急に立ち上がったから……。でも、もう、平気」

 言いながら、里菜は何でこんなことを言うのだろうと思っていたが、口がかってに動いて、言い訳をしていた。

(やっぱり、話せない。あのことを、アルファードには言えない)

 アルファードは手を放して、心配そうに里菜を覗き込んだ。

「なら、いいが……。乱暴に手をひっぱって、すまなかった」

「ううん、別に、いいけど……。アルファード、どうしてあんなに血相変えたの? これが、どうかしたの?」

 里菜は、わざと平然と腕を上げて手首を反してみせた。

 どうしてそんなふうにするのか、自分でも分からなかった。

「あ、ああ……。ちょっと気になることがあったから。その傷は、前からあったのか?」

「そうだと思うわ。気にしてなかったけど。きっと、ずっと前に何かで怪我をして、忘れていたのよ。気になることって、何?」

 初めてアルファードに嘘を言っている自分の声を、見知らぬ人の声にように、里菜は聞いていた。

「……そうだな、確かに、これは、古い傷だ。昨日今日についた傷じゃない。俺が、気がつかなかっただけか。それに、<魔王の刻印>であれば、このような傷跡ではなく、黒いアザになるはずだ……」

 魔王、という言葉を聞いて、里菜はまたギョッとしたが、そしらぬふりでキョトンとして見せた。

「アルファード、<魔王の刻印>って、何?」

 アルファードは、暗い顔をして、しばらく考え込んでいたが、何か、決心をしたようすで、正面から里菜を見つめて言った。

「そうだな、君にも、話しておくべきだろう。ちょっと、長い話になる。そのへんの椅子に掛けてくれ。……リーナ、俺は、間違っていた。俺は、この世界に存在する邪悪や危険について、君に一切話してこなかった。だが、今度のドラゴンのことで、それが誤っていたと気がついた。君が、ただ守られることしか考えていないなら、君は、何も知らなくていい。知っていたって、どうしようもないんだから。でも、君は違う。君は、力及ばずとはいえ、俺と一緒に戦ってくれようという気概を持っていた。それなら君は、この世の悪や危険について、知っておく権利があるし、知っておかなければならないだろう。リーナ、俺は、命に替えても君を守るつもりだった。……いや、今でも、そのつもりでは、あるが……」

 口を開こうとする里菜を手で制して、アルファードは続けた。

「でも、だからと言って、君が何を知り、何を知らずにいるべきかを、俺が勝手に決めてしまう権利はなかったんだ……」

 アルファードは、里菜が、真剣そのものの顔で少し不安そうに聞いているのに気付いて付け加えた。

「ああ、リーナ、そんなに不安そうな顔をすることはない。別に、この世界は、本当はものすごく危険で邪悪に満ちたところだなどというわけではないんだ。君のいた『あちら』の世界も、きっとそうだったように、この世界も、いいこともあれば悪い面もある、普通の世界だというだけのことだ。さしあたって、君に大きな危険が迫っているとか、そういうことはない……はずだ。ただ、その傷がちょっと気になったのは、それがこの世界に来てからついたものなら、俺が思っていたよりもずっと君の近くに危険があったということかもしれないと思ったからなんだ」

「さっき言った、魔王、とか、なんとか……?」

「ああ。たぶん、そんなものは、本当は俺の生活にも君の生活にも、まったく関わることはないものなんだが。俺たちに関係のある危険と言えば、ドラゴンや狼、それに、山賊くらいのもののはずなんだが」

「え! 山賊なんて、いるの? ここにも、来るの?」

「ああ、この近くのヴェズワルの森には、最近山賊がはびこっている。もともとは、奴らは、タナティエル教団という宗教団体だったはずなんだが、いつのまにやら、すっかり山賊になり下がってしまった連中だ。このあたり一帯の村で盗みを働いたり、エレオドラ街道を通る旅人を襲ったりして、みんな困っている。この村でも、去年の冬、食料倉庫が襲われたが、何とか追い返した。俺たち自警団は、ドラゴン退治ばかりをしているわけじゃなく、山賊から村を守ったり、盗人を捕まえたりもしているんだ」

「ええーっ! 怖い! 知らなかった。どうして、教えてくれなかったの?」

「だから、言ったろう、俺が間違っていたって。山賊に出くわすことなど、そうしょっちゅうはないんだから、それまでいつもビクビクしているより、そのとき驚くほうがマシだと思ったんだ。君を怖がらせたくなかったのさ」

「あたしは、万一山賊と出くわした時、せめて心の準備が出来ていたかったわ」

「だから、すまなかった。俺が、悪かった。でも、君は、山賊がいることを事前に知っていたからと言って、山賊に会った時に、知らなかった時よりマシな対応が、自分に出来たと思うか?」

「……思わない」

「だろう?」

「じゃあ、教えておいてよ。山賊が出た時、どうすればいいか」

「俺の指示に、迅速に従うこと。そうすれば、俺が、絶対君を守る。君がいれば、やつらの魔法は無効にしてくれるから、あとは、肉体的な力の戦いになる。それなら、やつらが何人いても、俺はやつらを退けられる」

「……アルファードって、謙虚に見えるけど、実は結構、自信家なのよね」

「何も、根拠もなくうぬぼれているわけじゃない。俺は自分の力をよく知っているし、やつらの力もある程度知っている。なにしろやつらは、俺たち自警団の宿敵だからな。やつらはそんなに強くないんだ。やつらはもともとただの宗教団体で、本職の山賊じゃない。なかには、もともと悪党だったものや兵士だったものも混じっているが、たいがいは、ただの善良な市民だったものだ。一人一人の力もたいしたことはないし、集団としての統制も取れていない。ただ、目先の欲望の赴くままに、いきあたりばったりの略奪やこそどろをしているだけだ。だいたい、ただでさえ、魔法が使える者は、魔法に頼って肉体的な鍛錬は怠りがちだ。そのうえ、彼らはみな絶望に取りつかれているから、なおさら、技を磨く努力などするわけもないし、大半が麻薬中毒で、身も心も病み衰えている。そして、やつらは、死は恐れないが目先の苦痛は恐れる怯楕な連中だ。やつらが何人いようと、烏合の集にすぎない」

「でも……、じゃあ、もし、あなたがいない時に山賊にあったら?」

「そういう時に、君に出来ることは……。そうだな、一目散に逃げ出すか、それもどうせ無駄だから、せめて、抵抗せずにすべての持ち物を差し出すことくらいか。そうすれば、運がよければ命だけは助かるかも知れない。運が悪ければ、それでも殺されるかもしれないし、女の子だから、もっと別のひどい目にあうかもしれないが」

「アルファード。あたしを脅してない?」

「ああ、別に脅すつもりじゃないんだが。本当のことを言っているだけだ。君は肉体的にか弱いだけでなく、その上、攻撃の魔法も、何ひとつ使えない。相手の、魔法による攻撃を無効にする力はあるが、それに気が付けば、相手は当然、身体的な力で攻撃してくるだろう。そうなったら、君など仔羊同然だ。いくらやつらが俺より弱いからといって、あなどってはいけない。君よりはずっと強いんだから。だから君は、一人でいるときに山賊に出会ったらおしまいなんだ。夜道を歩くな、無断で俺から離れるな。それが山賊について君に事前に忠告できるすべてだな。ドラゴンについても、君にきちんと忠告しておくべきだった。ドラゴンが出たとき、君が出来ることは、隠れることだけだ! 俺が死のうが羊がさらわれようが、絶対、出て来るな。それを君に、事前にきちんと言い聞かせておかなかったのは俺の失敗だった!」

「なんだ、アルファードの言ってることって、結局黙って守られてろってことじゃない」

「違う。絶対に、違う! 心構えが違う。とにかく、山賊やドラゴンは、絶対、君の手にはおえない。そういうとき、君が俺とともに出来る最良の戦いは、俺の邪魔をしないということだ。隠れているにも、勇気がいるんだ!」

 思わず語調を強めたアルファードに、里菜は口をとがらせたが、悔しいことに、たぶんアルファードの言うとおりなのだ。里菜はしぶしぶ頷いて、話題を変えた。

 そんなことで言い争うより、聞きたいことがあったのだ。

「うん、わかった……。もう、あんな無茶は絶対しないから。で、ね、アルファード。魔王、って、なんのこと?」

「ああ……。俺は、山賊やドラゴンからなら君を守れると思うが、魔物だけは、俺にはどうしようもないかも知れない。だからさっき、あんなに血相を変えてしまったんだが。少なくとも、この村にいるかぎり、当分は魔物や、ましてや魔王に出くわすことは、まずないはずだ……。とにかく今まで、この村に魔物が出没したことは、まだ一度もない。あまり心配せずに聞いてくれ」

「うん……」

「魔王というのは、今、この世界を脅かしていると言われている存在だ。それ以上のことは、俺にも、ほとんどわからない。いろいろと噂はあるんだが、どれも確かなことではない。何しろ、誰も魔王を見たものは、いないんだから。伝説によれば、魔王は北の荒野の古い城の塔に住んでいると言うが、そこへは、この世の人間は、誰も行くことができないんだ」

「どうして?」

「結界が張ってある」

「結界?」

「ああ。人間には入れないようにしてあるんだ」

「どうやって?」

「わからない。そうした事がらは神々の領分だ。普通の人間の理解の及ぶことではない。たぶん一種の魔法が働いているんだろう。その結界の近くまで行くと、その中へ入ろうとも思えなくなってしまう、そういう仕組みになっているらしい」

「ふうん……。でも、そんなところに隠れていて、いるのかいないのかも分からないようなものに、どうして世界が脅かされるの?」

「魔王そのものは、一度も人前に姿を現わさないが、魔王の手下だと言われている魔物たちが、最近特に活発に動き出して、大きな被害が出ているんだ」

「魔物って? ラドジールみたいな?」

「いや、あれはただの物語だが、この魔物は本当にいて、目で見たり手で触れたり──というか、触れられたり――できるんだ。魔物は、俺は見たことはないが、灰色のフードつきのマントを着た、やや小柄な人間の形をしており、見えるのは手だけなんだが、その手は白骨なんだそうだ。光に当たると消えてしまうので、夜にうろつき、人を襲う。といっても、とって食うとか、殺すとかいうわけじゃなく、ただ、触れるだけなんだ――」

「触わる?」

「そうだ。人間に忍び寄って、そっとその腕や手首、時には首などを、ただ掴んで、そのまま逃げて行く。ただそれだけのことなんだが、魔物に触れられたところは黒いあざになる。それが<魔王の刻印>だ。それを付けられた人間は、なぜか必ず、絶望に取りつかれて、その多くは、やがては死に致る。すぐに自死してしまうものも多いし、そうでなくても、絶望のあまり、無茶な生き方や無謀な行為をして犬死にするものも多い。そういうことが何もなくて普通の生活をしていても、次第に心も身体も弱って、廃人となって死んでいくものもいるという。俺がさっき、君の傷を見て驚いたのは、そのためだ」

「じゃあ、触られないように、長袖着て手袋をしていれば、魔物は怖くないの?」

「まさか。そんな対策で済むなら、みな、とっくにやっているだろう。実際、冬の北部では誰もが長袖を着ているはずだが、北部は特に魔物の被害がひどい。魔物は、北からこの国に侵入してきているらしいんだ。といっても、白昼堂々と軍隊を仕立てて進攻してくるわけではないから、そのへんも確かではないのだが、とにかく今、北部はひどいことになっているそうだ。村がまるまる魔物にやられたり、さらに、荒らした後の村に火が放たれることもあり、ただでさえ不作なのに加えて、畑も穀物倉も焼かれて、魔物と飢えの両方に怯える住民は続々とカザベル街道沿いの都市や、時には、はるばるイルベッザの都へ逃げのび、畑は耕す人影もなく荒れ果てているということだ」

「侵入って……。戦争なの?」

「戦争とは、違うだろう。何しろ、相手は魔物だ。別の国の人間が攻めて来たというのとは違う。だが、北部では、人々の生活が脅かされているという点では戦乱に巻き込まれたも同然だ。そして北部から大勢の難民が急に流れこんできたので、都でも食料が不足したり、治安が悪化したり、いろいろと不安が広がってきているそうだ。それに、最近では、都にも魔物が出没するそうだ……。魔物はずっと昔からこの世界にいたのだが、滅多に現われるものじゃなかった。現われるとしても、おもに北部の辺境の人里離れた街道の闇夜などに現われるだけだったから、普通の生活をしているものは、魔物など恐れる必要はなかった。ここ数年だ、特に魔物の跳梁が激しくなったのは。一昨年、俺が都へ行った時には、都はまだまだ平和だったように見えた」

「あたし、ちっとも気が付かなかった。この国が、そんな大変な時だったなんて。ただ、とても平和なところだと思ってた。食べ物だっていっぱい食べさせてもらってたし、甘いお菓子も食べられたし、楽しく宴会もやってたし……。ほんとはみんな大変だったのに、あたしだけ何にも知らずに、のんきにしていたの?」

「いや、そういうわけじゃない。さっきも言ったとおり、この村は、せいぜい山賊とドラゴンが出るくらいで今のところ平和だし、食べ物にも、さほど不自由はしていない。もともとこの辺は、国中で一番豊かな地方なんだ。ここ数年、どういうわけか国中が不作で困っているが、このあたりだけはそれほどでもないし。みんな、ここは聖地だから女神の御加護があるんだと言っている。もちろん、北部への援助の食料は供出しているし、商人も買い付けに来るが、何しろ輸送が不便だから、これ以上、俺たちにできることはあまりない。特に今は、さっき言った山賊のせいで、エレオドラ街道はほとんど通るものもない。だから、逆に、それが幸いして、このへんだけが平和でいられるのかもしれない」

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