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第一章<エレオドラの虹> 第十一場(1)

 (ひ、ひどい……。何、これ……)

 ドアを開けて、里菜は絶句した。

 そこに里菜が見たものは、宴の後の惨状だった。

 あちこちに転がる、倒れた椅子や酒袋。テーブルの上には、ひっくりかえった杯、汚れた皿、食べ散らかされたままの料理のかす。そして、究めつけは、死んだ魚のように床にごろごろ転がって眠りこけている、酔い潰れた若者たち。

(う……。臭い)

 里菜は手で口元を覆った。

 お酒と、料理の油と、二日酔いの人間の匂い。それでも、タバコの匂いが混じっていないだけ、まだマシだろう。そういえば、この国にはタバコを吸う習慣はないらしい。

 ゆうべ、里菜は、疲れていたので、どんちゃん騒ぎを聞きながら、あっという間に眠ってしまったのだが、この様子では、彼らはそのあとも、随分遅くまで呑み続けていたのだろう。里菜が寝た時は、部屋だってこれほど悲惨な状態にはなっていなかった。

(あーあ……。これ、あたしとアルファードが、片付けるのよね……?)

 思わず、溜息のひとつも、出てしまう。

 だが、こんな惨状でも、昨日の続きの光景がここにあるということが、里菜はうれしかった。

(よかった。これはやっぱり現実よね。だって、夢がこんなに臭いわけないもの)

 アルファードは、すでに起きていて、こちらに背を向けて流しで顔を洗っているところだった。

 そういえば、里菜は、アルファードと一緒に暮していても、彼の寝顔どころか、寝間着姿さえ見たことがない。彼はいつでも里菜が寝室に引き揚げてからでなければ寝ないし、里菜が起きた時には、必ず、もうすっかり身支度をすませているのだ。

 今朝のように、まだ顔を洗っているというのさえ、初めてのことかもしれない。

 もしも里菜ががんばって早起きしたとしても、彼はきっと、里菜が身支度をする微かな物音で、すぐに目を覚まし、里菜より早く身支度を済ませてしまうのだろう。

「ああ、リーナ。おはよう」

 アルファードは顔を拭きながら、タオルの下から里菜に声をかけた。

「おはよう、アルファード。みんな、帰らないで、ここで寝ちゃったんだ?」

「ああ、そのようだ。困った奴らだ。いいかげん、起こしてやらなければならないだろうな。悪いが、そっちの、ローイを起こしてやってくれ。俺はこのへんの連中を起こす」

 アルファードが示したほうを見ると、なぜか、アルファードの狭い寝台にローイが寝ている。

「やっだあ! アルファードってば、ローイと一緒に寝たのォ?」

 里菜の頓狂な声に、アルファードは、額に手を当てて溜息をついた。

「リーナ……。そういう妙なことを言わないでくれないか。力が抜ける。その狭い棚で、どうやって二人寝るんだ? ……夜中に、ローイに追い出されてしまったんだ。床で寝たんで、身体が痛い」

 アルファードは、コキコキと首を曲げながら、ぼやいた。

 ゆうべ、ローイを寝台の上から力まかせに払い落として、一人で先に寝てしまったアルファードは、やっと寝ついたところを、今度はローイに叩き起こされてしまったのだ。

「おい、アルファード、ろけ! 俺は、寝るろお! 寝台、貸せ」

「……そのへんで、勝手に寝ろ。ここは俺の寝台だ」

「いやら! 俺あ、そのへんれ寝ちまったそいつらと違って、繊細なんら。寝台れなけりゃあ、寝られないんら。あんた、そのへんれ、寝ろ!」

 そう言うなり、ローイは、酔っ払ってタガの外れたその意外なバカ力でアルファードを寝台から引きずり降ろし、自分がさっさと布団に潜り込んだと思ったら、次の瞬間には、もう大いびきをかいていたのだった。アルファードは、しかたなく、そのまま、寝台の足元のミュシカの敷き物の上で、ミュシカと並んで寝たのである。

 アルファードが、そのへんの若者たちを起こしにかかり、てこずっているあいだに、里菜はローイを起こしに寝台に近寄った。

 ローイは、大口を開け、掛け布団をはね除けて、大の字になって眠りこけている。長すぎる手足が寝台からハミ出しているのがおかしい。無防備な寝顔がちょっとかわいくて、なんとなくほのぼのしてしまう。

「ローイ、起きて。朝よ!」

 声を掛けても、うん、とも、すん、とも言わないので、揺すぶってみる。

「う、うーん……」と、目を開けたローイは、ぼんやりと里菜を見て、それから、いきなりガバッと上体を起こして、目をしばたいた。

「うえ? リーナちゃん? なんであんたが、ここにいるの? 夜這いに来たのかあ?」

「もう、寝惚けちゃって。ここ、どこか分かってる? アルファードの家でしょ?」

「うわっ! 大変だ! もう、朝? やべえ! 俺、鬼の兄嫁に、半殺しにされちまう!……でも、ラッキーだぜえ。リーナちゃんに、やっさしく起こして貰えるなんてよ。うーん、毎朝、あんたに、こうやって起こして貰いたいもんだなあ。ついでに、おはようのキスなんかもしてくれると、最高なんだけどなあ!」

「バカ! 調子に乗って!」

「お、いいなあ。俺、毎日あんたに、そんなふうに言われたいなあ」

「え? ローイ、『バカ』って言われるの、好きなの? へんなシュミ!」

「……こないだから思ってたんだが、あんた、ミョーなツッコミかたするよな。あのね、俺は別に、バカにされるのが好きなんじゃなくて、さっきみたいに、あんたに、愛を込めて優しーく、バカとか言われたいわけ!」

「あたし、別に、愛なんて込めてないもん!」

「あ、そ。そりゃあ、まことに残念だ」

「ローイ、どうでもいいけど、いつまでもバカなこと言ってないで、早く帰んなきゃ。ハンゴロシにされるんでしょ?」

「おお、そうだ、そうだ、こうしちゃいられない!」

 ローイはヒョイと寝台から飛び下りて、ドアのほうに突進しながらしゃべり続けた。

「じゃあな、リーナちゃん。夜遅くまで騒いでごめんな。いや、実は俺、なんにも覚えてないんだけど、どうせ大騒ぎして、うるさくしただろ? おい、アルファード、寝台借してくれて、ありがとよ。ありがとついでに、後片付け、頼むわ!」

 そう言いざま、ドアを開けて、走り出ていったと思ったら、いきなりよろめいて、頭を抱えながら悪態をついた。

「……おお、頭、痛てえ! クラクラする! 吐き気がする! ちっきしょうめ!」

 それからまた、立ち直って、駆けていく。

 アルファードがぞんざいに揺り起こしたほかの若者たちも、やはり同じように、ヤバイだの頭が痛いだのと口々にわめきながら、酒臭い空気と共にドタバタとドアからよろめき出ていった。

 しょうのない二日酔いの一団を笑いながら見送ってから、里菜とアルファードは、顔を見合わせて、同時に部屋の中を振り返り、溜息をついた。

「アルファード……。これ、全部あたしたちが、片付けるのよね?」

「いや、たぶん、あとで、ヴィーレとか、ほかに多少なりとも気のつくものがいれば、誰か手伝いに来てくれると思うが……。椅子とか、皿とか、ここのじゃないものもあるからな。だが、それまで、何もせずにほうっておくわけにもいかないだろう。とりあえず、片付けにかかろう。今日は、放牧は休むことになっているから、一日かけてゆっくり片付ければいい」

 こうして、ドラゴン退治の英雄と、その姫君は、今度は山のような汚れ物を退治しにかかったのだった。

 けれども里菜は、そんな仕事をすることさえ生きている証のようでうれしかった。

 料理の油やこぼれた酒でベトベトする床を、アルファードが川から汲んできた貴重な水を使って雑巾がけしながら、里菜は顔を上げて、砂で皿の汚れを落しているアルファードを見やった。

 この、お皿の下洗いに砂を使うというのも、アルファードの工夫のひとつで、こうすると、少しの水で皿洗いが済ませられるのである。もちろん、普通の人は、こんな原始的なことはしない。魔法が使えれば、水などいくらでもふんだんに出せるのだから。

 どんなことにも手を抜かないアルファードが真剣な面持ちで皿洗いに取り組んでいる姿を確認し、里菜は安心して、また雑巾がけに戻った。

 お皿の重みも、バケツの中の冷たい水の感触も、これが夢ではないことを里菜に教えてくれる、いとおしいものに思われて、ありふれた仕事にいそしみながら、不思議と充足した想いが里菜を満たしていた。

 そう、これが、現実なのだ。雑巾を持つ自分の手。水の感触。日常の仕事。アルファードとのささやかな暮し。……生きていること。

「アルファード、生きているって、すてきね!」

 妙にうれしそうに雑巾がけをしながら、突然そんなことを言い出した里菜に、アルファードはあっけにとられた。

「え? あ、ああ、そうだな……」

「ね。こんなふうに、雑巾がけなんかをしたりも、死んだらできないのよ。あたし、生きててよかった!」

「……君は、そんなに雑巾がけが好きなのか?」

「やだァ。別に、雑巾がけが好きなんじゃないわ。アルファードのそばで雑巾がけができるのが、うれしいの。好きなのは、雑巾がけじゃなくて、アルファードなの!」

 悪夢の反動でなんとなく浮かれた気分になって、つい勢いでそんなことを言ってしまった里菜も、言ってしまってから赤くなったが、アルファードのほうもたじろいだ。動きの止まった彼の手から、皿が一枚、床に落ち、ガチャンと割れた。

「そ、そうか、それは、その……、ありがとう……」

 アルファードは、しどろもどろに間の抜けたことをつぶやきながら屈み込んで、皿のかけらを拾い始めた。それを手伝おうとして近寄りながら、里菜は言い訳した。

「あたし、夢を見たの。怖い夢。夢の中で、あたし、死んでるみたいなの。それで、起きてからも、なんだか、しばらくは、あの夢のほうが現実で、これが夢じゃないかっていうような気がしてて……。だから、今、生きててよかったなって思ったの。こうしてアルファードのそばにいられるのが、とってもうれしいって思ったの」

 けれども里菜は、あの夢のくわしい内容を、アルファードに話す気にはなれなかった。 話せない、話してはいけないと、思った。

 夢の中で『魔王』がアルファードについて語ったことや、自分があの『魔王』を、たしかに自分の半身だと感じたこと、そして何よりも、夢の中で自分が感じた激しい陶酔、それらが、あの夢を、何かアルファードには話せない、後ろ暗いもののように思わせた。

 だが、一方、口に出さずに居ることで、あの夢が自分の中でどんどんふくらんで自分を満たしてしまうような気がして、怖かった。心細かった。

 だから、悪い夢を見た、ということだけを、アルファードに聞いてもらい、それはただの夢だ、何も恐れることはないと、力強く言って欲しかったのだ。

 だが、アルファードは、皿の破片を注意深く拾い集めながら、妙にゆっくりと言った。

「そうか、夢か……。俺も、時々、思うことがあるんだ……。今、俺がここにいるのは、ただの夢で、本当の俺はどこか別のところで夢を見ているのではないか、俺は本当は、この世界にいるべき人間ではないのではないか、と。そして、俺は、今ここにいる俺が誰かの見ている夢の中の人間に過ぎないかもしれないということではなく、もしそうだとしたら、どこかで夢を見ている本当の俺も、今の俺と同じように、無意味な人生を送っているのだろうということが、怖い。夢を見ている俺も、夢の中の俺も、どちらも、それぞれの世界に本当に属することなく、中途半端に生きているのではないかということが」

 里菜の心に、魔王の言葉が蘇った。

 ――『あれは、逃亡者だ……逃亡者は、どこにも本当には属することができずに中途半端な客人として孤独で空しい生涯を送る定めなのだ……』―― 

 ふいに自分の想いのなかに沈みこんでしまったアルファードが、なんだか遠くなって、ふっと薄れて消えてしまうような気して、里菜はぞっとして叫んだ。

「アルファード、そんなこと、言わないで! これは夢なんかじゃないでしょ? あたしたち、ここにいるでしょ? ほら、ちゃんと触れるでしょ?」

 里菜は、衝動にかられるままに、アルファードに手を差し伸べた。

 雑巾をかけるのに袖をまくっていた里菜の、細い左手首に止まったアルファードの目がふいに鋭く光った。

「リーナ! それは、どうした……?」

 言うなり、アルファードは、里菜の手首を荒々しく掴んで、自分の目の前に引寄せようとした。

 里菜は、思わず小さな悲鳴を上げ、おろおろと訊ねた。

「なに? 『それ』って?」

 アルファードは里菜の悲鳴にも困惑にも気づかぬふうで、食いいるように手首を見つめたまま鋭く囁く。

「手首だ。これは、この、傷跡は……?」

「え……? 手首? ……アルファード、痛い!」

 つい里菜の手を捻りあげるような形になっていたアルファードは、慌てて手を放した。

「ああ、すまない……。だが、君は、そんなところに、傷跡が、あったか?」

 言われて、アルファードが放した自分の左手首を見た里菜は、息を呑んだ。

 か細い手首の内側を、細長い傷跡が斜めに横切っていた。そこは、ちょうど、夢の中で魔王に掴まれたところだった。

 自分の立っている地面が、ふいに揺らいで、崩れ去っていくような気がした。

(夢じゃない。あれは、夢なんかじゃない……!)

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