第一章<エレオドラの虹> 第十場(3)
彼らの賑やかさに圧倒されていた里菜も、いつまでも一人でぽつねんとしていたわけではなかった。
彼女は今日の出来事のもう一人の主役でもあることだし、もともと、別の世界から来た娘ということで誰もが里菜に興味を持っていたのにこれまであまり言葉を交わす機会がなかったということもあって、すぐに里菜の回りにも、若者や娘たちが入れ替わり立ち替わりやってきては、話しかけはじめたのだ。
実をいうと、どこからともなく村にやってきて、『転校生効果』で一時期妙に若者たちの関心を集めてしまった里菜は、これまで、村の娘たちの多くから、嫉妬混じりに『ぶりっこ』『カマトト』などと言われて、あまり良い感情をもたれていなかった。
なにしろ、初対面の印象が悪かったのだ。みんな最初は、まだ見ぬ里菜を仲間に入れてあげよう、やさしく迎えてあげようと盛り上がっていたのに、やっと引き合わされた肝心の里菜は、アルファード以外の人間は目に入っていないらしく、自分たちのほうなどろくに見ようともせず、あんなに親切に話しかけてあげたにもかかわらず、まるで、何だか妙な動物の群れに放り込まれたとでもいうような居心地悪そうな様子で、終始、助けを求めるように、アルファードの姿を目で追ってばかりいる。回りに見えない壁を張りめぐらせて、自分たちを遮断したがっているように見える。どうも、この子は、<女神のおさな子>である自分がこんな卑しい村娘などと同席するのは不本意だ、とでも思っているのではないか──。
実は里菜は、ただ人見知りをしていただけなのだが、村の娘たちの目には、里菜は、なんだかお高く止まっているように映ってしまったのだ。
その上、今まで誰が誘っても一切なびかず堅物で知られてきた村の英雄アルファードをあっさりと独占してしまったことも、娘たちのあいだでの里菜の不評の理由のひとつだ。 アルファードは、これまで、誰のものにもならないがゆえに、それなりにみんなのものだったのだ。それを、突然割り込んで来た他所ものの娘が、たまたまアルファードに拾われたからといって、野良猫みたいにその家に居ついて抜け駆けをするなんて、というわけだ。
それも、アルファードと結婚してしまったとか、おおっぴらに恋人どうしになってしまったとかいうなら、それなりに祝福してあげてもいいが、ふたりの間にはどうみても『何もない』らしいのに、妹とも養女ともつかぬ中途半端な居候の彼女をアルファードが妙に大事にしているのが、どういうものか、よけいに腹立たしいのだ。
だが、若者たちのほとんどが里菜に興味を失い、里菜のほうもどうやら、あちこちの男に色目を使う気はないと分かった今、娘たちの里菜を見る目も、だいぶ穏やかになってきた。それに、アルファードと里菜の関係も、里菜は本気でアルファードが好きなのに、アルファードのほうが、例によって妹扱いしかしてやらないらしい。それなら自分たちと立場はあまり変わらない。
いや、一緒に住んでいながら妹扱いしかされないなどというのは、自分たち以上に絶望的に見込みのない状態かもしれない。
そもそも、アルファードの気を引こうとしていた娘たちのほとんどは、確かに彼の強さや頼もしさ、誠実さといったものに惹かれてはいたが、それよりも結局、本当のところは、誰にもなびかないアルファードを、それゆえに一種のアイドルのようなものに祭り上げて楽しんでいただけで、たいてい、本命は別にいたのである。ただ、なびかないとなると構ってみたくなるのが彼女らの習性だったというだけのことなのだ。
そうなると、彼女たちも別に意地が悪いわけでもないので、そろそろ、里菜を仲間に入れてあげたい、別の世界から来た珍しい娘と友達になってみたいという気運が、反感に打ち勝って高まってくる。
そこへもってきて、今回の事件では、里菜もなかなかただの『ぶりっこ』ではない一面を見せたということで、もともと好奇心の強い娘たちのこと、いっせいに里菜を取り囲み『あちら』の世界のことをあれこれを質問し始めた。
そこに、若者たちの一団から大声が上がった。
「おい、そういえば、今日は、ローイの歌をまだきいてないぞお!」
「そういえば、そうだ。ローイ、そろそろ、頃あいだろう。一曲やれよ!」
「おう、そろそろいくか! 酒の入り具合も、丁度だ。こうでなくちゃ声が出ねえや」というローイの声に、今までてんでに大騒ぎしていた連中が、いっせいにローイに向かってリクエストをしはじめた。
里菜は、意外そうに、たまたま隣にいた色の白い小柄な娘に尋ねた。村の娘たちの多くは大柄で大人っぽく、里菜にとってはちょっと気後れがする存在だったが、この娘は背丈も自分とあまり変わらず、年令も同じくらいと見えるし、どうやらあまり身体が丈夫でなさそうなところにもなんとなく親しみを感じて、話しかけやすかったのだ。
「ねえ、ドリー。ローイって、歌なんか得意なんだ?」
「そうよ。あなた、知らなかった? ローイとはけっこう親しくしてたんじゃないの? あ、でも、そういえば、宴会は初めてだもんね。ローイはね、あれで結構テレ屋なとこ、あるから、お酒が入らないと歌わないのよ。すっごくうまいんだから。声もいいし。歌っているのがかかしのローイだと思わなければ、うっとりしちゃうわよ」
「へえ、そうなんだ。あたし、なんだかヘンな歌を歩きながら歌ってるのしか、聞いたことなかったから。でも、そういえば、いい声だったし、歌も、うまかったかもしんない。……でも今、ああいうヘンな歌、歌うんじゃないんでしょ?」
「ああ、あの歌ね」と、ドリーは声をたてて笑った。「ああいうのならシラフでも歌うわよ。あ、始まるわ。とにかく、聞いてて。ほんと、いいんだから」
どこから取り出したのか、カマボコ板大の木片に弦を数本張ったような小さな単純な楽器を指で弾きながら、テーブルの端に腰掛けて、ローイが歌い出した。みんな、しんとして聞いている。
その歌が、普段のローイのふざけたようすからは想像も出来ないような愛らしいラヴソングだったので、里菜はびっくりした。それがまた、確かにうまい。しみじみと心にしみる美しい歌声である。ローイには意外な特技が実に多いらしいのは分かっていたが、この才能はハンパじゃないかも知れないと、里菜は呆然と聞き入った。
一曲を終えたローイは、喉を湿らすためと称して、一休みして酒をあおった。
ドリーが里菜の肘をつついて言った。
「どう、言った通りでしょ? 宴会の中盤には、やっぱりこれがなくっちゃね」
「うん、あたし、びっくりした。あのローイが、あんなきれいな歌を歌うなんて」
「じゃあ、もっとびっくりするかも知れないけど、あの詞、ローイが作ったのよ」
「ええーっつ! うそ!」
「ほんと、ほんと。ガラじゃないでしょ? 曲はこの辺の古い民謡なんだけど、それにローイが自分で詞をつけたの」
それは、里菜にとってますます信じられないことだった。そういえば、確かに拙い詞だったかも知れないが、それはとんでもなくロマンティックで、おセンチと言っていいほどの詞だった。あの、ガサツなローイが、まさか、である。
二曲目は、なんだかもの悲しい放浪の歌だった。これもまた、ローイには不似合いである。
「今のも、ローイの詞?」
「そうよ。彼が歌うのは、ほとんど、そう」
「でも、ローイって、ずっとこの村に住んでるんでしょ。それに、あんなに明るい人なのに。なんで、あんな悲しい歌をつくるの? 失われた故郷がどうたら、みたいな……」
「ああ、それはね……」
ドリーは、顔を曇らせた。
「きっと、ヴィーレのことを歌っているのよ。彼、恋の歌の時もそうだけど、あのテの歌を歌う時も、ヴィーレのほうだけは、絶対見ないもの。ヴィーレが、彼の失われた故郷なの。それに気付いてないのは、本人だけよ」
「ヴィーレ? ……何でヴィーレが出てくるの?」
「え? あら、あなた、知らなかったの? あたし、まずいこといっちゃったかしら? まさか、知らないなんて思わなかったから……。でも、これは村では誰でも知っていることなのよ。……ローイとヴィーレは、もと許婚だったの」
「え! そうだったの? あたし、ちっとも知らなかった。『もと』っていうと、今はもう、そうじゃないってこと?」
「うん、正式にはね。ずっと小さい頃からの許婚だったんだけど、何年も前に婚約解消しちゃったのよ。たぶん、何だかつまらない意地をはって、そういうことになっちゃったんじゃない? でも、今でもあの二人、本当は好き合っていると、あたしたちみんな思っているの。いつかきっと、あの二人、やっぱり結婚するわよ。ああ、ロマンチック!」
ドリーは祈るように両手を組み合わせ、目に星を浮かべてうっとりと中空を仰いで見せた。テレビの恋愛ドラマもロマンス小説も存在しないこの村の娘たちにとって、他人のロマンスは格好の娯楽の種である。
「へえ……。そうなんだ……」
意外な事実を知って、里菜は、初めて見るもののようにローイをまじまじと見直し、隅っこにいるヴィーレと見比べた。
(ふうん……。そうだったんだ……。たしかにローイとヴィーレって、とても仲がよさそうだとは思ってたんだけど、ただ幼馴染みだからかと思ってたわ。でも、ヴィーレって、もしかしてアルファードが好きなんじゃないのかと、ちょっと思ってたんだけど……)
その後、ローイは、何曲か歌を歌ったが、合間合間に酒をあおるので、しまいにはロレツが回らなくなり、それでも歌いつづけようとするのを、さっきとは逆に、みんなによってたかってテーブルから引きずり降ろされ、楽器を取り上げられてしまった。
これもいつもの展開で、みんながまだ酔っていない宴会の序盤にはローイのお話、程々に酔いが回った中盤にはローイの歌、そのあとはすっかり座が乱れて乱痴気騒ぎというのが、ここの宴会のパターンである。ローイは、宴会の段取りも得意だが、その上、多彩な特技で座を盛り上げる、宴会には欠かせない人材なのだ。
テーブルから引きずり降ろされたローイは、しばらく、その労をねぎらわれながら酒をどんどん飲まされていたが、そのうちふらふらと里菜たちのところへやってきた。
「おお、リーナちゃん。何、そんなとこでひそひそ話してるんら? あ、そうか、俺のファンクラブに入るにはどうすればいいかって、ドリーに聞いてたんらろう! なんたって俺はスターらもんな。宴会の星らぜ! イェーイ!」
すっかりロレツが回らないローイに、里菜は笑いながら応えた。
「ほんとね。ローイ、すっごく、歌、上手なんだ。びっくりしちゃった」
「おお、そうらぜ! 知らなかったかあ? 俺に、ますます惚れ直したろう!」
「もう、ローイってば。惚れ直せる訳ないじゃない。もともと、惚れてなんか、ないんだもん」
「あ、そ。惚れてなかったの。俺、知らなかったぜ。じゃあ、いまかられも、惚れてよ。そうそう、ファンクラブに入るには、入会料がいるんらぞ。今ならたったの、キス一回! ほら、ほっぺに、チュッ、ってさ」
なにやら調子のいいことを言いながら里菜の前に突き出されたローイのほっぺたを、平手でバチンと張ったのは、ドリーのほうだった。
「なあに寝惚けたこと言ってるのよ、この酔っ払い! かかし男!」
「痛ってェ! 何すんら! そのうえ、村の大スター様に対してかかしとはなんら!」
ぶつぶつ言いながら、ローイはそのまま、またふらふらと別の一団に加わりに行った。 その千鳥足に、里菜とドリーは、顔を見合わせて吹き出した。ともに小柄で色白という共通点を持つこのふたりは、どうやら気の合う友達になれそうな気配である




