第一章<エレオドラの虹> 第九場(2)
魔王の強い指が、里菜のか細い左手首をがっちりと掴んだ。
瞬間、めくるめく歓喜にも似たおののきが里菜を捕え、里菜は、ひと声、喘ぐように息を呑んだ。
魂が凍るような冷気が、手首から里菜の全身に流れ込んだ気がした。
だが本当は、その指は、冷たくはなかった。ただ、そこに何もないかのような、虚無の感触だった。冷たい、と、思ったのは、手首から、魔王の指を通して、里菜の身体の熱が虚空のかなたへと奪われていったからだろう。
魔王の指は、決してひどく手首を締め付けたわけではなかった。ただ、軽く掴んだだけだった。だが、里菜は二度とその手から逃れられないような気がした。
魔王は、力を入れる様子もなく、ふいに里菜の手首を掴んだ腕を身体に引き寄せた。魔王に触れられたとたん質量のない物質に変わってしまったかのような里菜の身体が、すっと引き上げられて宙に浮かび、馬の背の、魔王の乗った鞍の前に、ふわりと横座りに収まった。
魔王の黒いマントが、やさしくさえ思われる、一切の抵抗感のない空気のような感触で里菜を包み込んだ。里菜の身体から、すっと力が抜けた。同時に、体温もすべて奪われていった。そのまま眠り込みたいような気がした。
こんなに間近に身を寄せても、魔王にはあいかわらず肉体の気配がなかった。だが、確かに何か力場のようなものが自分に接して存在している気配はあった。例えていえば磁石の反発力のような、物質ではないが確かに感じられる、力の存在。
その力に、呑み込まれてしまいたいと思った。
このまま、その、黒衣の中の、あやめもわかたぬ永劫の闇の中に取り込まれて、何も見ず、何も聞かず、何も思わずに、永遠に眠り続けたい。この昏い力とひとつになりたい。
自分が消えていくことの快感。意識が闇に溶けていく、無上の悦楽──。
里菜は、眼を閉じた。馬が、ゆっくりと歩きだした。
薄れていく意識の中で、最後の気力を振り絞って、夢うつつの声で里菜は尋ねた。
「……どこへ、行くの?」
『まずは、私の版図、極光舞う北の荒野の古き城へ。だが、もしそこがそなたの心にかなわなければ、我等はどこでもそなたの望むところに城を構え、そこに住むことが出来よう。そなたは、かつてのように、この世界のすべての生命の女王として、この国の全土を統べるのだから。この世界はふたたび、死の王と、その伴侶たる生命の女王が、玉座を並べてしろしめす神代の楽土となるのだ。……エレオドリーナよ。失われていた、私の半身よ。私とともに、この世界に再生を、新たなる神代をもたらそう』
その言葉の意味するところが、消えかけた里菜の意識に届いて、ふいに警報を発しだした。忘れていた、アルファードの暖かなまなざしが、心によみがえった。里菜の中で、眠っていた十七才の少女が目覚めた。
里菜は眼を開けて、魔王を振り仰ぎ、キッと見つめた。
そのフードの奥の闇にふたたび引きずりこまれそうになる里菜の意識を、かろうじて引き止めたのは、アルファードのぬくもりの記憶だった。
初めて出会った時、里菜を抱いて運んでくれた、やさしく強い腕。ドラゴンから里菜をかばって跳びながら覆い被さってきた身体の躍動。汗の匂い。心臓の音。──無器用であたたかい、生命のぬくもり。
いま里菜を包み込む魔王の腕――あるいは腕のかたちをしたもの――には、ただ、無限の、絶対の力だけがあって、血肉をそなえたもののぬくもりも手ごたえもなかった。
そのとき初めて、里菜は、魔王のマントに纏わりつく、黴臭いような、淀んだ空気を嗅ぎつけた。
それは不自然に滞った長すぎる時の中で醸し出されていった死と滅びの匂い――、憎悪と絶望が歪めた邪な夢と、狂気の匂いだった。
──危険! このひとは、危険! 何か不自然なもの、よくないもの──
里菜の心の中で、警報が狂おしく高まって、激しく鳴り響きだした。
すべての体温を奪われていた里菜の身体に、思い出の中のアルファードの腕から、ゆっくりとぬくもりが注ぎ込まれた。里菜の理性が、冬眠から覚めた小動物のように、状況を見回し始めた。
「……伴侶って、どういうこと? なんであたしが、女王になんか、ならなきゃいけないの? あたし、別に、女王になんか、なりたくないわ。そんな面倒なもの」
その言葉に、魔王は、くつくつと、低い笑い声をあげた。耳に聞こえる声ではないが、確かに魔王は笑っていた。
『面倒だとな! 面白いことを言う小娘だ。……女王に、なるのではない。望むと望まないとに関わらず、そなたはもともと、女王なのだ。なぜならそなたは、エレオドリーナだからだ。すぐに、思い出す。私の花嫁よ』
「花嫁? あたしが、あなたの? ……悪いけど、あたし、あなたと結婚するつもりはないわ。あたし、他に好きな人がいるんだもの」
里菜の言葉に、魔王はますます笑い出した。あたりの空気が邪悪な哄笑となって里菜を脅かす。
『小娘だな! まったくの、小娘だ! なぜにそなたは、このようなちっぽけな小娘でいるのだろう! そなたはかつて、美しかった……。だが、この小娘も、悪くはないぞ。なかなかに興がある。これはこれで、愛らしいものだ。まったくそなたは、その諸相のいずれにあっても私を魅了する。例え老婆の時にあっても、乳飲み子であってさえも。だが、私の花嫁となるときは乳飲み子などでは困るゆえ、もとの姿にと思っていたが――いや、この、小娘の姿と思考をもつそなたを花嫁とするのも、一興かも知れぬな』
魔王の呪縛が破れ、理性を取り戻した里菜は、自分の中の、まだ魔王に惹かれている部分を突き放すように、冷たく言った。
「一体、何をおかしなこと言っているの? 赤ちゃんと結婚するとかしないとかって……。もしかしてロリコンじゃないの? それはあなたの勝手だけど、あたしは、自分より何千才も年上のおじいさんと結婚するなんて嫌よ! もっと自分の年令に相応の花嫁を見つければ!」
ぽっかりあいた洞穴のような、うつろな哄笑を響かせながら、魔王は答えた。
『まったく、面白い娘だ! 私の齢に相応の相手は、そなたしかいないものを。そなたと私は、世界の始まりの時に、ともに生まれ出たものなのだ』
「だって、それは、エレオドリーナという人でしょ? あたしは、違うわ」
『いや、そなたはエレオドリーナだ。例えいかなる姿と思考のかたちを持っていようと、そなたの魂は、永遠のエレオドリーナなのだ』
「それは、待ちすぎたあげくの人違いっていうものじゃないの? 気の毒だけれど、よくあることだわ」
勇気を振り絞って、ことさら冷淡に言い放った里菜に、魔王はわざとらしいため息をついてみせた──もちろん、音のない、慨嘆の気配だけのため息だったが。
『愚かなことだ。そなたにはもともと愚かな一面があったが……。自分が何者かさえ、わからぬとは。好きな人がいる、だと? 小娘じみたことを……。まったくそなたは、なぜそのように、同じ愚かな行ないを繰り返すのだ。そなたはまた、取るにたらない定命のものなどを愛でているのだな。そなたの、あの犬臭い羊飼いの、何がそなたを惹き付ける? 一体、私に無いどんなものを、あの薄汚れた、つまらん若者が持っているというのだ?』
それまで笑っていても感情の感じられなかった魔王の口調に、初めて、かすかな侮蔑と憎悪が忍び込んだ。
里菜の口が勝手に動いて、自分でもなぜそんなことを言うのかわからない答えを口にした。
「生命を、持っているわ。あのひとは、生きている」
『ハ! 生命を、とな? たしかに、あれは生きている。短く、くだらない、人間の一生をな! 古傷をなめながら羊の番をして終える無意味な人生が、あの負け犬には、ふさわしい』
馬の歩みが止まった。魔王の声が、憎悪に歪んだ。
『おしえてやろう。あれは、逃亡者だ。自分の戦いから逃げてきた臆病者だ。あれはどうせ、永遠に、そなたを受け入れることはないだろう。なぜなら、逃げ続けているかぎり、どこにいても、あれは逃亡者であり、逃亡者は、どこにも本当には属することができずに中途半端な客人として孤独で空しい生涯を送る定めなのだから。私は、あれを、よく知っている。そなたよりも、ずっとな』
「アルファードは臆病なんかじゃないわ! あなたがアルファードの何を知っているというの!」
『では、聞くが、そなたはあの若者の、何を知っている?』
「その、ぬくもりを。やさしい眼を」
『バカバカしい。そんなものは、犬でも持っているわ! ……あの羊飼いのことが知りたければ私のところに来い。私の城で、あれの正体を見せてやろう』
「見たくない、そんなもの! どうせ、なにか悪い魔法で、おかしなものを見せられるんだわ!」
里菜は、叫ぶなり、魔王の腕を抜け出そうと、もがき始めた。
手首を掴む魔王の指は、肉体を介さないゆえに限界を持たない、むき出しの力そのもので出来ていた。この力から永遠に逃れることは出来ないのではないかと思った里菜は、今度こそ、それまでの甘い陶酔とは違う正真正銘の恐慌に襲われて、悲鳴を上げた。
「あたし、降りる! 離して! 降ろしてよ!」
意外なことに、里菜がこう叫んだとたん、魔王は、あっさりと里菜の手首から指を離した。
そのとたん、里菜は、さっきの川の岸に、ふたたび立っていた。馬上の黒い姿は、何事もなかったように、初めと同じ川の向こうに立っていた。
魔王の声が魂に響いた。
『まあ、よい。この世界にいるかぎり、そなたはいずれ私の許へ来るだろう。そなたは、私のものだ。私は、待っている。北へ来い。北の涯、オーロラの荒野に、私はいる。そこは遠いが、しかし、そなたが来たいと思えば、いつでも来られるところだ。エレオドリーナ、私の妻となるべきものよ。……その、小娘の姿も、なかなか、よいぞ。なかなか、趣がある。花嫁姿が楽しみなことだ。その日まで、また、このように、そなたの眠りの中で、時折、逢うとしよう。せいぜい毎晩待ちわびて眠りに就くがいい』
そう言うと、魔王は、嗤いながら馬の首を巡らした。
その後ろ姿にむかって、里菜は、なけなしの強がりを掻き集めて叫んだ。
「誰が待ちわびたりするもんですか! 何度来たってムダよ。この、ロリコンの、人さらい! かってにどこかの赤ん坊とでも結婚して、その子を女王様にでもなんにでもしてあげればいいじゃない。あたしは、いやよ! あなたの妻になんか絶対ならない。それにあたし、アルファードの悪口言うひとは許さないんだから! ……あなたの本当の名前なんて、聞かなくてもわかるわ。どう見たって、死神に決まってるじゃない!」
魔王の哄笑が一層高くなったかと思うと、その後ろ姿が、ふっと掻き消えた。
高い窓から差し込む朝日の中で、里菜は目を覚ました。暖かな自分の寝台で寝ていたのに、まるで氷漬けになっていたかのように、身体が重苦しく、冷たく感じられた。
身体の隅々に潜んでいる悪夢の名残りを振り払うように、里菜は寝台の中で、強張った手足を思い切り伸ばしてみた。それから、だるい身体をそろそろと起こし、寝台の端に腰を掛けた。
朝の光が、なにか不思議なものに見えた。そこにあるのが奇跡のような、夢のようなものに。
朝日を受けた自分の身体もまた、そこにあるはずのない幻のような気がした。
まだぼんやりしたまま、ベッドに腰掛けて、里菜は悪夢を思い出していた。
あれはたしかに、死神に連れ去らそうになる夢だった。あの白馬の騎手の、黒い服に大鎌という風体は、あまり独創的とは言い難い、どこから見ても典型的な死神の姿だったではないか。どうして、夢の中では、そのことにすぐ気づかずに、なんだかうっとりとして死神なんかについていってしまったのだろう。だいたい、川の向こうから呼んでいたことからして、あまりに約束どおりだったのに。
(あれって、もしかして、すごーくよくある『臨死体験』のパターンよね。あのまま川の向こうにいったままだったら、あたし、死んでいたのかしら。アルファードの面影が、あたしを呼び戻してくれなかったら……。でも、あれは、ただの夢、よね?)
その川を、裸足で歩いて渡ったことを思い出した里菜は、ハッとして自分の足を見た。
足は、汚れていなかった。寝間着の裾も、濡れてはいない。
(よかった。やっぱりあれは、夢なんだわ)と、思いながらも、なんとなく不安な、どこかあやふやな感覚が消えなかった。
(なんであんな嫌な夢、見たのかしら。ゆうべ、ドラゴン退治の祝賀会で、騒ぎすぎて疲れたから? それとも、ドラゴンのせい? ドラゴンのあの不吉な叫びを聞いてしまったからとか、アルファードたちはドラゴンのためにお祈りをしてあげてたけど、あたしはしなかったから呪われちゃったとか?)
(……でも、もしかして、あの夢こそが真実で、今、自分がここにいることが夢だとしたら……。ドアを開けたら、そこはアルファードのいる隣の部屋ではなくて、そこにまた、あの、暗い川辺が広がっていたりしたら……)
里菜は、のろのろと着替えながら、楽しかったきのうの祝賀会のことなどを、無理やり思い返していた。そうすることによって、自分がドアを開けるまえに、あのドアの向こうに、昨日までのこの世界での楽しい生活の続きという、自分が思うとおりの現実を用意しておくことができるような気がして。そうしないと、ドアの向こうに、永遠に明けない闇の国を見てしまうような気がして。