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第一章<エレオドラの虹> 第九場(1)

 その夜。

 里菜は夢を見ていた。

 ……夢、なのだろう。里菜は、月の光を浴びて川のほとりに立っているのだが、自分がなぜそこにいるのか、どうやってそこまで来たのか、何もわからないのだ。

 里菜の寝ている部屋から外に出るには必ずアルファードの寝ている居間を通るしかないから、彼に気付かれずに家を出て来られる訳がない。だいたい、アルファードに黙って、こっそり夜中に外に出てくる理由など、無いはずだ。

 自分の姿を見下ろす。着ているものは、ヴィーレのお古の、ふくらはぎまである白い寝間着一枚だけ。この季節の深夜に戸外に出るには寒すぎる服装だ。なのに寒さを感じないのも、これが夢である証拠だろう。しかも、里菜は裸足なのだ。裸足で、湿った草の上に立っている。

 そこは、たぶん、村はずれを流れるエレオドラ川の岸だ。いつも近くを通る、見慣れた場所のはずである。

 だが、月の下では、すべてが普段と違って見える。空気はまるで溶けた透明プラスティックで満たされているかのようにてらりとした不思議な光沢を帯びているし、青白い光が降り注ぐ川の水は、宇宙空間を満たすというエーテルの流れのようだ。黒いシルエットとなった木々も、足の下の地面も、きっと、何か昼間とは違う物質で出来ている。たぶん、月の光が、世界の全てを変質させてしまったのだ。

 けれど、これが世界の本当のすがたなのかもしれない。昼間ここで見たもの、あったことは、すべてまやかしで、今のこの世界だけが真実なのかもしれない──。

 太陽が映し出していたかりそめの幻影が消えて、月の光が隠されていた世界の真実を暴き出す、そんな、不思議な、月の夜。

 白い寝間着を着た裸足の里菜もまた、昼間の、ささいなことで泣いたり笑ったりして生きてきた無力でちっぽけでありふれた十七才の少女というまやかしの現実を脱ぎ捨てて、何か、この世のものではない存在になったかのようだった。

 今さっきまで自分自身だったはずの少女の姿を、里菜は突然、映画でも見るように、どこか外側から見ているのだ。

 透き通るような光をまとって立つ、そのほっそりした姿は、今にも宙に浮き上がりそうに見える。それはまるで、すでに肉体を脱ぎ捨てて永遠に歳をとることもない、一切の係累けいるいを断たれた孤独な魂の姿を思わせた。

 その黒髪に、白いうなじに、細い肩に、しんしんと月光が降り積もる。

 寝間着の裾から覗く足首の頼りない細さと、華奢な素足の幻めいた白さに、ふと、淡い哀憐を覚えたが、その、ささやかな感情のさざ波は、すぐに、水のように心に満ちる奇妙な諦念の中に溶けて行く。

(あたしは、死んでいるのかしら)

 遠いところから自分の姿を眺めながら、里菜の意識がつぶやいた。

 と、何の前ぶれもなく、里菜の意識は、今まで外から見ていたその身体の中に、再び舞い戻る。けれど、いったん外から自分を見てしまった今となっては、それが本当に自分自身なのか、里菜にはもう、確信できない。

 その時、川の向こうに、ありもしない霧が晴れるように、ひとつの姿が、ふいに現われた。

 それは、白い馬に乗った、黒衣の騎手の姿だった。

 その姿は、川の向こうにあるのに、間になんの距離もないかのようにはっきり見えた。

 が、すっぽりと全身を覆う黒いフード付きのマントにつつまれて、その顔も身体も、生身の部分は一切見えなかった。

 そもそも、その姿には、肉体というものが感じられない。たしかに人間の形をしてはいるが、そこに人間の肉体はないのではないか──ただ、闇が人間の形に凝り固まったものなのではないか──そんなふうに思える。そう、あれはきっと、人間の形をした虚無──あるいは、人間の形を纏った死なのだ。

 それは、けれど、たよりない幻ではなく、確かな存在感を持って、そこにいた。

 肉体を持たない、むきだしの力。くらく、底知れぬ、原初からの存在。

 その、純白の馬は、あまりにも純粋な白さのために、月の下で、青褪めてさえ見えた。

 黒衣の騎手の背には、三日月型の鋭い刃をあらわにした長柄の大鎌が、斜めに背負われていた。

 それは、鎌といっても、決して生活の匂いのする農具などではなかったし、血腥い武具でもなかった。切っ先に光のしずくを集めて、きららかに透き通るそのやいばは、何か宗教的な厳かさを漂わせた祭祀の道具、一度も汚れたことがない、神聖にして至高の芸術品のように見えた。

 騎手は、背から外したその大鎌を重さのないもののように高く降り上げ、威嚇とも表敬とも、祝福とも呪いとも取れる、ゆったりした儀礼的な動作で、招くように一振りした。

 ゆるやかな白刃の動きにつれて、一瞬の光跡が、浮かんで消える。光のしずくが、シャリンと音を立てんばかりに、あたりに降りこぼれる。

 月光を吸ったその刃物の、冷たい氷の輝きに、里菜は我を忘れた。

――あの、やいばの下に、身を投げ出したい――

 それは、魂を突き動かす、理不尽な衝動だった。

 鎌を再び背に収めて月の下に立つのその姿は、黒い衣に包まれていることのほかは何ひとつ定かには見えないが、なぜか蠱惑的に美しく、里菜を夢心地にさせた。

 その黒い姿が、自分をじっと見つめているのがわかった。黒いフードの下に、その顔は見えなかったが、あたりの空気が、暗い凝視のかたちをとっていた。

 足の力が抜けるような気がした。

(あたしは、この、黒い姿を、待っていた……。ずっと、待ち焦がれていた……)

 恐怖に凍りつくような、甘美なあこがれに溶けていくような、眩暈めまいのするような陶酔に襲われて、里菜は、我知らず、川に向かって足を踏み出した。

 ふわふわとおぼつかない足取りで水際まで来ると、里菜は足を止めて、魅入られたように白馬の騎手を見つめた。

 ふいに、魂の奥底に、声が響いた。

 それは、男の声だった。──いや、たぶん、男の声だったのだろう。少なくとも、女の声ではない。だが、もしかすると、男の声でも女の声でもなかったのかもしれない。男でもなく女でもなく、若くもないが決して年老いることもない、肉体を持たないものの声。

 昏く、深々とした、なめらかで美しい響き。

 幾千の星をちりばめた宇宙の常闇とこやみを越えて、はるかに渡ってきた、異界の、風の音。

 声は、まるで、とろりと深い極上の黒びろうどがむき出しの素肌にいきなり触れてきたかのような、甘やかに心をたじろがせる感触で、耳にではなく、魂に直接、語りかけて来たのだ。

『待っていた……。そなたを、待っていたぞ、エレオドリーナ。何千年もの孤独な時を、私はそなたを待ち続けて、今、やっと、そなたは、そこにいる……』

 その声が心の奥底から呼び覚ます奇妙な懐かしさ、慕わしさに、里菜は慄いた。

(あたしは、この声を知っている……。何年も前から、遠いところであたしを呼んでいた声。あの、『あちら』での、平凡で退屈だった生活の中で、どこからか、あたしの心に呼びかけ続け、あたしをいざない続けていた声。生れる前から知っていたような、死んだ後で巡り逢うような、あたしの、失われた半身の声。そう、あの、廃墟の白昼夢のなかであたしに語りかけていた、人間ではないものの声)

 黒衣の騎手は、こちらに向かって手を差し伸べた。

『来るが良い。そなたの定めの場所へ、私のもとへ。私は、待っていた……』

 里菜の全身を、ふたたび、恐怖にも似た陶酔が駆け巡る。

 行きたかった。魂が焦がれるほど、その、大きな黒い姿の許へ行きたかった。

 けれど、わずかに残る意識が里菜を引き止めた。

(行ってはいけない。帰れなくなる)

(でも、行きたい。帰れなくてもいい。すべてを投げ捨てて、この誘惑に身を投じたい)

(でも、これは誰? あたし、ここを離れて、どこへ行くの? ここがあたしの、ふるさとなのに? エレオドリーナって、誰? あたしのことじゃないわ──)

 水際に立ち尽くし、里菜は、身体の奥底から湧き上る理不尽な憧れに、必死で抗っていた。

 黒い男は、ふたたび語りかけた。その、深い、強い、魂の声で。

 『エレオドリーナ。そなたをこの世界に呼んだのは、私だ。そなたはもともと私のところへ来るはずだった。そなたが今、その川のそちら側にいるのは、あの小賢しいおいぼれ司祭の妨害のせいだ。たかが定命じょうみょうの人間の分際で、自分のしていることが何もわからずにこのようなことに手を出し、命を落した愚かものよ! 愚かな盲信は、その愚かしさゆえにしばしば予測もつかないほどの力を発揮するということを、私は見落としていたのだ。だが、もういい。私とそなたは、定めに従い、再び巡り会ったのだから。私とともに来い。さあ、その川を越えて……』

(そうか、あたしがここにいるのは、何かの手違いなんだ。あたしは本当は、あの黒い姿のそばに行くべきなんだ。それが、正しい定めなんだわ……)

 なぜか疑うこともなくそう思うと、はかない抵抗が誘惑の前に崩れ去り、里菜は川の向こうを見つめたまま、さらに足を踏み出した。雲を踏んで歩いているような、あやふやで心もとない感覚が、心に妖しいたかぶりを呼び覚ます。

 どうやって川を渡ったのか、わからなかった。

 自分の足が水に触れたのも、里菜は感じなかった。寝間着の裾も、濡れてはいない。

 だが、気が付くと、里菜は川を越えていた。

 見上げると、すぐ目の前に、白い馬と黒い男の姿があった。

 下から見上げても、フードの中は完全な闇でしかなく、そこに人間の顔は無かった。

「……あなたは、誰?」

 陶酔の中へと転落していこうとする意識を必死で繋ぎとめ、里菜は、フードの中の闇を探った。見えない闇の中で、男が、すっと眼を細めた気配があった。

『私は今、魔王、と呼ばれている。が、それは私の本当の名ではない。そなたは私の本当の名を知っているはずだ。そして私が、このように呼ばれる存在になった理由も』

 闇が、ゆっくりと、冷たい薄笑いのかたちに歪んだ。

「知らない……。あたし、そんなこと……」

『ならば、話してやろう。私と、来るのだ』

 魔王と名乗った黒い騎手は、馬上から里菜に片手を差し出した。

 それは、初めて見た、魔王の身体の一部だった。だが、はっきりと手そのものを眼で見たわけではない気がする。ただ、そこに手があるということだけが、ぼんやりとわかった。たぶん、それは、必要に応じてかりそめに作り出された一種の幻影──たった今、里菜に差し出されるためにだけ作り出された、手のかたちをした誘惑なのだ。

 里菜の手が、なにかに操られているように、のろのろと上がった。

 大鎌の魔力に捕らわれた里菜の心は、『魔王』という名の持つ不吉な響きにさえ、気がつかなかった。ただ、妖しい幻惑に身を任せて、里菜は魔王にあえかな腕を差し伸べた。

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