第一章<エレオドラの虹> 第八場(3)
「キャ!」と叫んで、里菜は尻もちをついた。
息せききって駆け出した里菜は、いくらも行かないうちに、角を曲がりざま、何か、固くてまっすぐで細長いものに頭からぶつかって、はね飛ばされたのだ。
てっきり電信柱か立木に正面衝突当したのだと思いながら、痛むお尻をさすってもたもたと起き上がろうとした里菜は、自力で立ち上がるより早く、頭上から伸びてきた誰かの手で、ひょい、と持ち上げられ、すとんと地面に立たされた。
驚いて顔を上げると、聞き慣れたローイの声が頭上から降ってきた。
「おおっと、リーナちゃん! やっと、俺の胸に飛び込んできてくれる気になったのか。それにしても、ちょっと性急すぎやしないか? あわてなくても、俺はいつでも待ってるぜ!」
その、あまりに能天気な言葉に、緊張の糸が一気に解けた里菜は、そのままへたへたと再び地面に坐り込んだ。
ローイだって、ドラゴンを見て駆けつけてきたのだから、今が冗談をいっている時でないのは分かっているのだが、つい条件反射でおちゃらけてしまうあたりが彼である。
もっとも、彼は、今しがたのドラゴンの断末魔の声を聞いて、少なくともアルファードが生きていることは、もう、確信していた。それで、里菜の元気な姿を見たとたん、それならば最悪の事態だけはまぬがれたのだと悟り、ほっとしたとたん冗談が出てしまったのだ。
「ローイ……! よかった、いいところに……」
安堵のあまり地面にへたりこんだまま、里菜は思わずローイのズボンの裾をつかんで、ぜいぜいいう息の下から切れ切れに言葉を絞り出した。ここしばらく体調が良かったので忘れていたが、里菜は昔から、激しく動くと軽い喘息を起こすことがあるのだ。
「アルファードが、怪我を……。治療を、おねがい……」
ローイはたちまち、おちゃらけを引っ込め、意外と強い力で里菜を再び引っ張り上げて立たせながら、短く尋ねた。
「どこにいる? <シモの牧>か?」
「う、うん」
「わかった。すぐ行く。あんたはあとからゆっくり来るといい」
ここまで走ってきた疲れも見せず、たちまち風のように消えていったローイの後を、里菜は息をきらしながら追い掛けて、牧場へ戻っていった。
*
「うわあ、こりゃあ、すげえ。アルファードが一人でやったのかあ? 人間ワザじゃないよなあ……」
ドラゴンの死体の横を、ついつい足音を忍ばせるようにして迂回しながら、ローイはぶつぶつと呟いた。
アルファードは、その先の小川の岸で、脱いだシャツを敷いた上にうつぶせに寝ころがっていた。
「ローイか……。ありがたい。リーナに会ったのか?」
「おっと、そのまま、そのまま。動かなくていい。うん、リーナには、会ったよ。後から戻って来ると思う。待ってな、いま治療すっから」
頭を上げようとするアルファードを制して、ローイは彼の身体の横に膝をつき、背中に手をかざして顔をしかめた。
「この火傷、ドラゴンの火か……。毒の方は、このくらいなら、解毒で何とかなるだろうが、こりゃあ、跡が残るな。まあ、男はそのくらい気にすんな。これで、村の誇るドラゴン退治の勇者様に、ますますハクがつくってもんだ。たったひとりでドラゴンを倒した時の傷だっていやあ、孫にまで見せびらかして自慢ができらあ」
「いや、ひとりじゃない。ミュシカが助けてくれた」
「ミュシカが? そりゃあ、すげえや。猟犬にだって、普通、ドラゴンに立ち向かうなんて出来ないのに、あいつはただの牧羊犬だぜ?」
「ミュシカは『ただの牧羊犬』じゃない。『最高の牧羊犬』だ」
「ああ、まったくだ。あんた、口のほうは無事みたいだから、治療しているあいだに、話を聞かせてくれよな。あれ、どうやってやったんだ。あんたは、団長として、ドラゴン退治の顛末を、今後の参考のために団員に報告する義務があるぜ。あんたの話はつまんねえから、俺が代わってみんなに話してやるからさ」
「お前が話すと、大袈裟になる」
「いいじゃないか、少しくらい。あんたにゃサービス精神ってものが分かってないよ。まあ、とにかく話せよ。まったく前代未聞だよな、ひとりと一匹でドラゴン退治なんてよ」
アルファードの怪我がすぐに命に関わるようなものではないとわかってほっとしたローイは、忙しくあちこちの傷を調べたり治療のために手をかざしたりしながら、アルファードから、ことの顛末をあれこれと聞き出し始めた。
里菜がドラゴンの前に飛び出したくだりになると、ローイはヒュウと口笛を吹いて、感心したように言った。
「そりゃまた、勇ましいことだなあ。ありゃあ、アルファード、あんたが思ってたような仔猫ちゃんなんかじゃなくて、きっと、ちっちゃな雌ライオンだぜ。俺の見込んでた通りだ。な、リーナ?」
ちょうどそこに、やっとたどり着いた里菜は、いきなり話を振られてきょとんとした。
「えっ、なあに? なんの話?」
「いや、な、アルファードはあんたを、仔猫ちゃんのつもりで拾って来たんだろうが、俺は、『これは足が太いからでっかくなるぞ』って、思ってたのさ」
「え? ……あたしの足は、太くなんか、ないわ!」
訳がわからず真顔で抗議した里菜に、ローイはケラケラと笑いだした。
その様子に、とりあえずアルファードの怪我はそうひどくないらしいと、里菜は少し安心した。
脱いであったアルファードのシャツを引き裂いて包帯にし、応急手当をすませたローイは、アルファードに向かって言った。
「あとですぐ、ヴィーレの母さんか誰か、癒しの魔法の得意な人に、もういちど診てもらえよ。包帯も薬草もないし、とりあえず、応急処置だからさ」
「ああ、ありがとう、おかげで、これなら村まで歩ける」
「じゃあ、あんたたちは、今日はもう帰れよ。羊連れてさ。肩、貸すから。ドラゴンは、誰か自警団のものを何人か寄越して処理させればいい。俺が連絡をとるから。そうそう、今晩、あんたんとこで、宴会な! 今日の勝利を祝っての祝賀会に、ほら、リーナの歓迎会をまだやってなかったから、ちょうどいい機会だから、それも兼ねて、とにかくパッとやろうや。なあに、ちっとくらい怪我してたって、酒は呑めらあ。かえって痛み止めになっていいってくらいだ。きっと、血に入ったバイ菌も消毒できるし、なにしろ女神様の祝福を受けた酒だから、ドラゴンの毒にも効くかもしれないぜ。それに、どうせ、あんた、その傷じゃ、あしたは放牧に出られないだろ? 夜通し宴会したって大丈夫だ。な、副団長の権限で招集かけるぜ!」
そう、彼は、自警団の副団長なのである。そういうと聞こえがいいが、その実態は、ようするに宴会係だ。宴会の段取りをやらせたら、彼にかなうものはいない。
宴会を開くと勝手に決めつけたとたん、もう宴会のことしか頭になくなったローイは、それでもアルファードに肩を貸して、ドラゴンのところに戻ると、持っていた小刀で、その爪を一本剥ぎ取ってアルファードに渡した。こうして、証拠となる戦利品を持ち帰るのが、ドラゴンを殺した時の習慣である。
それから、ローイは、もう一本切り取った爪を、里菜のほうに差し出して言った。
「ほれ、リーナ、あんたも取りな」
「えっ……?」
血と泥にまみれたドラゴンの爪を差し出されて、里菜は思わず後退った。
ローイは構わず、手にした爪を里菜の目の前につきつけ続ける。
「あんただって、今日はドラゴン退治に参加したんだ。爪を取る権利があるぜ。ほれ」
「えっ、あたし、いらない……」
「だって、これは、滅多にないような、すごい名誉なんだぜ? 遠慮するなよ」
「違う、違う、ほんとに欲しくないの!」
里菜は思わず両手を後ろに回して、一生懸命首を横に振った。もしも血がついていなくても、そんなものには、手も触れたくなかった。
頑なに拒まれて、ローイも、それ以上無理に勧めようとはしなかった。
「あ、そ。もしかして怖いの? 生きたドラゴンには素手で立ち向かったって言うのに。まあ、いいや。じゃあ、これはミュシカにな。あいつも立派に今日の功労者だからな。アルファード、これ、後で紐つけて、ミュシカの首にかけてやれよ、な」
それからアルファードは、剣を抜いて足下の土の上に横たえると、頭を垂れて短い祈りを唱えた。
「黄泉の大君よ、定めによりて死せる魂を、御許に安らわせ給え」
ローイも、めずらしく神妙に唱和する。
例えどんな不信心者でも、この国の人間である以上、出産や死と言った特別な儀礼に際しては、祈りのひとつも唱えるのである。特に、ドラゴンを殺した時は、きちんと礼を尽くさないと呪われると信じられているのだ。
その間、里菜は、血溜まりに横たわるドラゴンの屍を、おそるおそる観察していた。普通なら死体など見たくもないが、生きていようと死んでいようと、何しろドラゴンだ。
生きて、翼を広げ、首をもたげている時は小山のように大きく見えたドラゴンも、こうして死んでいるのを見ると、たしかに、首の長さを除けば『馬より少し大きい』という説明通りの大きさのようだった。だらりと広がる捻じれた翼だけが、やはり思いがけず大きいだけだ。
けれど、里菜には、このドラゴンが、アルファードの言うように、ただ大きすぎるだけの罪のない野生動物だとは思えなかった。死せるドラゴンは、間違いなく何かもっと邪悪な、不吉な気配を漂わせていて、屍となってなお、凶々しく、恐ろしかった。
銀の鱗に覆われたその亡骸は、どこか、血に塗れた銀のナイフを思わせて、そう思ったとたん、里菜は、なんとなく、ふと、気が遠くなりかけた。
が、それは一瞬だった。ドラゴンの屍に近づき過ぎて何か毒気にあてられでもしたか、あるいは血の臭いで気分が悪くなったのだと思った里菜は、死体など、わざわざ見るからいけないのだと眉をひそめて目をそらした。
「アルファード、このドラゴン、どうするの?」と尋ねた里菜に、アルファードは、剣を納めながら淡々と答えた。
「後で自警団の連中に、皮を剥いでから、火葬にしてもらう」
ローイが横から解説した。
「ドラゴンは、火葬にしないと生き返って復讐にくると言われているんだ。まあ、迷信なんだけどさ」
皮を剥ぐと聞いて、里菜はぞっとして尋ねた。
「ねえ、アルファード、どうして皮を剥ぐの?」
「使うんだ」
「え? 何に?」
ローイが横から答えた。
「防具を作んだよ。ドラゴンの皮はな、鱗が固くて、しかも火に強いから、ドラゴン退治の時に使う防具にはドラゴンの皮が一番なんだ。火事の時にも使えるんだぜ」
アルファードがローイを振りかえって言った。
「今度の皮はミナトの分だ。ドラゴンの処理にはミナトをやってくれ」
「わかった。そうか、ついにあんたもミナトをドラゴン退治に出す気になったわけだ。しかし、すげえよな。ドラゴン退治に出るもの全員にドラゴンの防具が行き渡ってる自警団なんて、きっと国中さがしても、ほかには無いぜ!」
各地の自警団は、それぞれ自分たちの倒したドラゴンの皮で自分たちの防具をつくっており、強い自警団はそれだけ多くのドラゴンの防具を揃えてますます強くなるのである。
アルファードは、里菜が気味悪そうに聞いているのに気がついて、付け加えた。
「リーナ、ドラゴンは危険な生き物だが、一旦殺してしまえば、役に立つ。それならば、できるだけ役に立てるのが、殺した命への礼儀だ」
里菜は、アルファードがケガをしていて、今ここで皮を剥ぐところを見ずに済むことにほっとした。
羊たちは、すでにミュシカがひとところに集めて、草を食ませていた。
(ミュシカって、ただものじゃないわ。ぜったい、人間の言葉が全部わかってるんだわ)
里菜はあらためて感心して、ミュシカを眺めた。
ふだん、アルファードは、ミュシカに口笛や短い号令で指示を与えているのだが、たぶんミュシカには、本当は、そんなものは必要ないのだ。まったく、並の犬ではない。あるいは、アルファードに、ミュシカと交信する秘密の魔法の力でもあるのかも知れないとさえ思えてくる。まきばに座る彼らの並んだ後ろ姿はいかにもしっくり納まっていて、まるで長年連れ添った老夫婦ででもあるかのような穏やかな連帯感が漂い、里菜は時々、彼らの間に、とても自分などが割り込めない強い絆を感じて、嫉妬すら覚えるのだ。
(ミュシカとアルファードって、心が通い合っちゃってるわよね……。あたしがここに来る前からずっといっしょに暮して、何年もの夏のあいだ中、ふたりきりでまきばに座り続けてきたんだものね。ああ、情けない。なんで犬にやきもちなんてやかなきゃいけないの。それって、あんまり、情けなさすぎる……)と、もとからただでさえ情けなく思っていたのに、今また、ミュシカはアルファードの命を助け、自分はそれを危険に曝したことを思うと、ますます、つくづく、自分が情けない。アルファードに謝りたい。
だが、ローイの手前もあり、なんとなく言い出せないまま、彼らは、アルファードの上着や水袋を拾い、羊を数えて、家路についた。