第一章<エレオドラの虹> 第八場(2)
アルファードは、里菜を抱えて地面に倒れ込みながら、とっさに、自分の背中で里菜のなるべく全身を覆い隠そうとしていた。ドラゴンの炎をまともに全身に浴びたら、例えその場で死ななくても、後々の緩慢な死は免れない。
(だめだ、やられる……。たぶん、俺は死ぬ。だが、リーナだけは……!)
アルファードは、その身を盾にして、里菜のちっぽけな身体を庇いながら、背中にかかるドラゴンの炎を覚悟した。
瞬間、背中を舐めた熱さに、アルファードは声を殺して、
「うっ……」と、呻いた。
が、それは本当に、一瞬だった。
「キャーン!」という悲鳴と同時に、ドサリと音がした。
主人の危機を察したミュシカが、木立を飛び出してきて、ドラゴンが炎を吐きだした瞬間に、その首に体当たりしたのだ。炎は、最初の一陣でアルファードの背中を一瞬舐めた後、狙いを逸れ、牧場の草を焦がした。
ドラゴンは怒り狂って首を振り立て、邪魔者の姿を探った。
振り飛ばされたミュシカは、すばやく起き上がり、果敢にも再びドラゴンに挑んだ。
すでにアルファードのことを忘れ、新たな敵に注意を奪われたドラゴンは、背後に回り込んだミュシカを追って、長い首を巡らせた。
ドラゴンの牙が、ミュシカの毛並をかすめる。
「ワンワン! ワン!」
生意気に吠えたてながら走り回る小さな獣の喉笛に狙いを定めて、ドラゴンはもう一度首を伸ばした。
その首が、ピクリと跳ねて宙を仰いた。
ドラゴンの胸のひとところに、鱗の下から生えてきたもののように、アルファードの剣が深々と差し込まれていた。
赤い口から、断末魔の叫びが漏れた。
それは、聞いただけで災いに取りつかれるとでも言うような、根源的な恐怖を呼び覚ます、凶々《まがまが》しい魂の軋みだった。里菜は、草の上にへたりこんだまま耳をふさぎ、いやいやをするように頭を激しく横に振った。
アルファードは、落ち着いた、慣れた様子で、鱗をこじ開けるように剣を素早く左右に捩じってから引き抜くと、間髪を入れずに、ドラゴンの身体の下から飛び出した。
傷口から鮮血が噴き出し、ドラゴンの巨体が、ドサリと崩れ落ちた――。
無言の死闘が終った。永遠のように感じていたそれは、実際は、被った水も乾き切らぬ間の、ほんの短い時間の出来事だった。
アルファードは、巨体をまだ痙攣させているドラゴンの頭に注意深く近寄ると、ベルトに吊っていた短刀を抜いて眉間に突き立てた。ドラゴンは、微かにぴくりと震えて、口の端から新たな血を一筋溢れさせ、それきり動かなくなった。そうやってとどめを刺しておいて、瞳孔と呼吸を調べて完全に絶命していることを確かめると、アルファードは、ふと屈み込んで、血に濡れた剣を足下の草で拭った。
忠実なミュシカがアルファードに駆け寄って、主人の手に、茶色い頭を寄せた。
「よし、よし、よくやった、ミュシカ」
そう言って、アルファードは、怪我をしていないかどうか、すばやくミュシカの全身をあらためながら、耳の後ろや首の周りをがしがしと撫でてやった。幸い、背中の毛がわずかに焦げただけで、たいした怪我はしていないようだ。興奮に逆立った首筋の毛を逆毛に撫で上げてもらったミュシカは、満足げに目を細めて身震いした。
心の込もった短いねぎらいの後、アルファードに軽く合図されたミュシカは、何事もなかったように、また、羊のところに戻っていった。
それからアルファードは、おもむろに里菜に目を向けた。
里菜は、まだ強く耳をふさぎ、眼を固くつむって、草の上にぺったりと座り込んで震えていた。
「リーナ。もう、大丈夫だ。ドラゴンは、死んだ」
アルファードの静かな声に、恐る恐る目を上げた里菜は、息を呑んだ。
「アルファード……。血が……」
全身に血を浴びたアルファードは、ドラゴンにまけずおとらず凶々しい匂いを漂わせる危険な魔物のように見えた。
里菜はふいに、アルファードを、怖いと思った。
けれどアルファードの声は、あいかわらず静かだった。
「心配ない。ほとんどがドラゴンの血だ。……怪我は、無いか?」
「うん……」
「なら、いい。ところで、君に聞きたいことがある。俺はさっき、君に、薮に隠れていろと言わなかったか?」
里菜に歩み寄って、上腕をつかんで助け起こしながら、アルファードは抑えた声で尋ねた。
「えっ……」
「言わなかったか?」
アルファードの声は淡々として低かったが、その底に秘められた激しい怒りに、里菜は震え上がって、蚊の鳴くような声で答えた。
「言った……」
「なら、どうして出てきた。君が出てこなければ、俺はあのとき、ドラゴンを仕留めるところだったんだ。それに、俺が君をかばうのが一瞬遅かったら、君はドラゴンの炎を正面からまともに浴びるところだったんだぞ。……ドラゴンの炎は、普通の火じゃないんだ。前に話したはずだ。あの火を大量に浴びると、火傷自体は治っても、だんだん身体が弱って、死に至ることもあるんだ。君は、死ぬつもりだったのか」
「……ごめんなさい! あたし、ただ、アルファードが危ないと思って、あたしがドラゴンの注意を引いて、手伝おうと思って……」
それまで静かだったアルファードの声が、突然、激した。
「バカ! 自分の力を考えろ!」
アルファードの右手が、高く上がり、里菜に向かって振り下ろされかけた。が、アルファードは、自分の震える腕を押し止め、そのまま静かに身体の脇に降ろした。そのこぶしが、それでもまだ震えていた。
一瞬ビクっと目をつぶり、首をすくめた里菜は、目を開けて、そのこぶしを見つめた。アルファードの顔を見る勇気はなかった。里菜はうなだれて唇を噛んだ。
(そんなふうに、言わなくたって……。アルファードの役に立ちたかったのに。邪魔するつもりじゃなかったのに。アルファードは、なんの権利があってあたしにこんな口をきくの? ……ううん、権利なら、もちろんあるわ。あたしのせいでアルファードはよけい危険な目にあってしまったんだもの。自分の身体をはって、命を賭けてあたしを庇ってくれたんだもの。でも、だからって……)
うつむいた里菜の目から、涙がこぼれ、乾いた地面にポツリと落ちた。
(アルファードは、あんなに怪我をしているていうのに、今あたしが、叱られたくらいで泣くなんて、わがままだわ)と思いながらも、涙は止まらない。
アルファードは、また静かな声に戻って言った。
「リーナ、すまない。つい、きつく言い過ぎたようだ。だが、分かってくれ。自分の能力をわきまえない行動は、死につながる。二度とああいう無茶はするな」
「うん、分かった……。ごめんなさい」
子どものように手の甲で涙を拭いながら、里菜は頷いた。
「それさえ分かってくれればいいんだ。泣かないでくれ。悪いが、頼みがある。急いで村へ行って、誰かを呼んできてくれないか。治療を頼みたいんだ。俺は、たぶん、村まで歩けない。君が戻ってくるまで、そこの川のところで待っている」
里菜は驚いて顔を上げ、あらためてアルファードを見た。すでに背を向けて、小川のほうに歩き出している彼の背中を見て、里菜は叫んだ。
「アルファード! その火傷……!」
そのとき里菜は初めて、振り向いた彼が、額に汗を浮かべ、かすかに顔を歪めて苦痛に耐えていたことに気がついた。左足にもズボンごとザクっと切り裂かれた傷があり、わずかに足を引きずっている。
里菜は自分のうかつさを呪った。彼は、とほうもなく辛抱強い人なのだ。普通に口をきいているからといって、安心していてはいけなかった。ちゃんと彼の様子を見ていれば、わかったはずだ。
(それなのに、自分の感情にかまけて、彼がこんなにひどい怪我をしていることにも気づかずに、泣いたり拗ねたりしていたなんて。あたしは何て自己中心的で思いやりのない人間だったんだろう。アルファードもアルファードだわ。こんな大怪我をしているなら、人のことを心配したり叱ったりするよりさきに、痛いとか何とか言えばいいのに!)
里菜は後悔と心配で胸が痛んだ。
アルファードは、肉体の苦痛など一切感じさせない平静な声で答えた。
「大丈夫、ミュシカのおかげで、この程度ですんだ。これくらいなら、死にやしない。これから川で冷やせば、大丈夫だ」
アルファードは、痛みを堪えながら片頬を歪めて軽く笑った。
「俺もバカだな。君に説教をしているヒマがあったら、先に火傷を冷やせばよかったんだが」
(あの火傷は、さっきあたしをかばったときのものなんだわ。あたしが飛び出したりしたせいで……。どうしよう、どうしよう。アルファード、ごめんなさい!)
里菜は思わずアルファードの後を追いそうになったが、思い止まって、村に向かって駆け出した。
「アルファード、待っててね、すぐに戻って来るから!」
放牧に使う牧草地は何か所かあり、彼はそこを季節によって移動して羊に草を食べさせるのであるが、今いるのは、秋も終りということもあって、<シモの牧>と呼ばれる一番標高の低い牧場である。村にも近いし、途中の道も、羊が楽に歩けるくらいで、それほど険しくはない。それでも、里菜の足で村まで往復すれば、結構かかってしまうだろう。ぐずぐずしているヒマはない。今度こそ、自分のするべきことをわきまえなければならない。村の人は誰でも多かれ少なかれ癒しの魔法が使えるのにその力もなく、普通の応急手当さえろくに出来ない自分は、彼のそばにいても何もしてあげられないのだ──。
*
駆けていく里菜の足音を背後に聞きながら、アルファードは痛む足を無理に運んで小川へ向かった。
彼の心には、ドラゴンを倒した喜びや誇らしさではなく、罪悪感と自己嫌悪が広がっていた。肉体の痛みよりも、里菜を怒鳴ってしまったことへの後悔のほうが、もっと彼を苦しめた。
(リーナは、怯えていたな。ドラゴンにだけでなく、あのとき、俺を見て怯えていた。無理もない。いきなり、ドラゴン殺しや、こんな血まみれの姿を見せては……)
里菜の怯えた目を思うと、心が痛んだ。彼は、いままで、これまでいた世界では本物の剣など見たことがないという里菜に気を遣って、里菜の前では、剣を抜くところさえ見せずにきたのだ。自分の分身とも恃む愛剣を腰に帯びることだけはやめられなかったが、稽古をするときも、里菜に遠慮して、わざわざ彼女から見えない場所を選んでいたほどだ。
(しかも、ただでさえ怯えていた彼女を、俺は、やさしく労ってやるかわりに、いきなり怒鳴りつけたんだ。よりによって女の子に手を上げそうになるとは、最低だ。俺は、なんでまた、あんなに怒ってしまったんだろう。……リーナは、俺を許してくれるだろうか)
こんな時に、終ったばかりのドラゴンとの死闘のことでもなく、戦いで負った傷や火傷のことでもなく、あのちっぽけな少女のことばかり考えている自分に気付いて、その、慣れない感情に、彼は、理由のよくわからない戸惑いを感じた。
アルファードは服を着たまま、ちょっとした淵のようになっているところを選んで小川に入った。
淵といっても深さは腿までもなく、アルファードは、手ごろな倒木に頭と肩を預けるようにしながら、ゆっくりと背中を水に浸した。石灰分を溶かして、深いところでは青緑色を帯びるその水が、背中を洗い、火傷の痛みを癒していく。
聖地に源を持つ水の不思議な力が、ドラゴンの不浄の炎の毒まで流し去ってくれるような気がした。
アルファードは、首を仰向かせて、水の中から空を見上げた。
(こうしていると、<女神のおさな子>としてこの世界に生まれ出た、あの時のようだ)
アルファードは、眼を閉じて、身体の力を抜いた。
水はかなり冷たいはずなのだが、少しも寒いと思わなかった。まだ全身の筋肉の中でくすぶっていた、戦いの名残りの猛々しい熱と昂ぶりが、すっと鎮まっていく。彼の心と身体を、いっとき占領していた荒ぶる力が、水に溶けるように、穏やかになだめられて消えていく。
しだいに安らいでいく心の中に、ごく自然に、祈りの言葉が浮かんだ。
(女神よ、この小さき生命に祝福を……)
それは、本来は、こういう時に唱える祈りではなかった。これは出産の時の祈りで、実は見かけほど信心深いわけではない彼も、羊のお産に立ち会うたびに、この言葉だけは、必ず唱えていたのである。
祈りに答えるように、さざ波が光った。