第一章<エレオドラの虹> 第八場(1)
猛獣のように突進してきたアルファードは、里菜を押し退けるようにして、置いてあった剣をひっつかみながら、押し殺した声で言った。
「リーナ。君は、ミュシカと一緒に、羊たちを連れてあっちの木立の陰に逃げろ。あとはミュシカに羊をまかせて、薮の中に隠れているんだ。ドラゴンは、木立のあるところには降り立たない。だが、万一ドラゴンがそっちへ行って羊をさらおうとしても、君は絶対、出てくるな。俺がもういいと言うまで隠れているんだ。いいな! 行け!」
早口ではあったが、その声は、動作の素早さとはうらはらにあくまでも冷静だった。
アルファードに短く指示を与えられたミュシカは、瞬時に弾丸のように駆け出して羊の群れに向かった。里菜もその後を追うべきだとはわかっていたが、身体が動かなかった。
頭上では、一旦通りすぎたドラゴンが、羊の群れを見付けたらしく、急旋回してこちらに向かっていた。鱗が、秋の陽を受けて銀に輝く。
長い首と尾がまっすぐに伸びて、ドラゴンは、不思議な、軋むような声で、一声、高く鳴いた。
遠い過去の彼方から、あるいは心の奥底の、古い血塗られた夢の中から聞こえてくるようなその声に、里菜の血は凍り付き、全身がそそけ立った。心が悪夢の中に引き込まれ、一切の抵抗の気力が萎えるような気がして、里菜は声もなく立ちすくんだ。
「なにしてるんだ! リーナ、逃げろ! 羊を頼む」
アルファードは、目をひたとドラゴンに据えたまま鋭く囁いて、自分が羊を追うのに使っている鞭代わりの木の枝を里菜の手に押し込んだ。
頬を打つかのようなその声と、掌に押しつけられた木の枝の感触で、一瞬沈み込みかけた悪夢の中からあやうく立ち戻った里菜は、はっとしてアルファードを見上げた。
「でも、アルファードは?」
「俺は、ドラゴンを引き付ける。心配するな。隠れていろ」
「でも……」
「バカ! いいから行け!」
そう叫びざまに里菜を突き飛ばしたアルファードは、水袋を頭上に差し上げて中身を全部ぶちまけ、頭から水を被った。そして、着ていた皮の胴着を引き剥すように脱いで片手に掲げると、もう里菜のほうを向こうともせず、服や髪から水をしたたらせながらドラゴンの影を追って走り出した。
里菜のほうは、突き飛ばされたいきおいで、ころげるように羊の群れに向かって駆け出した。
行く手では羊たちが怯えて鳴き騒ぎ、押し合いへしあいして動きが取れなくなったり、意味もなく駆け回って群れからはみ出したりするのを、ミュシカが、なんとかきちんと一か所に集めて木立の方向に追い込もうと、稲妻のようにめまぐるしく駆け回っている。
ちらりと後ろを振り返ると、アルファードが右手に抜き身の剣を構え、左手で盾のように胴着をかざして、頭上のドラゴンを挑発しているのが見えた。
(アルファード!)
里菜の足は、また、すくんで動かなくなりそうになった。が、アルファードに羊たちを託されたのだという責任感が、駆け戻りそうになる里菜の気持ちをなんとか抑えた。里菜は、託された責任の象徴である木の枝をぐっと握り締め、羊の群れを追って木立に駆け込んだ。
*
アルファードは、前髪からしたたり落ちる水滴を払うこともなく剣を構え、急降下してくるドラゴンを、冷静な目で見据えていた。
(なんとか、こちらに引き付けることが出来そうだ。すでに羊を目にしている飢えたドラゴンを、追い払うことはまず出来ないだろう。俺が、倒すしかない。盾も防具もないが、しかたがない。せめて、今、被った水が、いくばくかの役に立つといいが。水が乾くまえに、素早くカタをつけなければならないな)
ドラゴンは、アルファードの目の前に、激しい突風と土煙を起こしてドスンと降り立った。銀の翼が、バサリと一回、地を打って止まる。
アルファードは、まっすぐにドラゴンと対峙していた。
ドラゴンの、伸ばした首の先の頭は、見上げるような高さにあったが、これは、そう大きなドラゴンではない。これくらいのものなら、彼はもう何頭も退治している。
ただし、その時は、ひとりではなく、息のあった自警団の連中が一緒だったのだが。
ドラゴンは威嚇するように翼を広げ、ふたたびあの、錆びた機械の軋むような、奇妙に心を波立たせる不快な声をあげた。そして、ゆっくりと下げた首をかすかにひねって、トカゲに似た顔を横を向け、瞳孔の縦に細い、感情のない金色の眼の片方にアルファードの姿を映し出した。
アルファードは剣を構えて、慎重に間合いを取った。
ドラゴンは、ふいに、アルファードの存在を忘れたかのように首を上げ、空を仰いだ。だが、アルファードは、それが攻撃の準備であることを知っていた。
ドラゴンが、はるか上から長い首を振り下ろし、真下にいるアルファードに向かって、炎を吐いた!
けれど、その瞬間、アルファードの姿はドラゴンの前から消えていた。
水を吸った皮の胴着を盾代わりに掲げて炎を避けながら、後方へではなく、まっすぐにドラゴンに向かって跳躍し、迫り来る首の下をかい潜って、その身体の横に回り込んだのだ。
剣が一閃して、黒ずんだ銀の翼を切り裂く。
と、思うと、もうアルファードは、ドラゴンの巨体から、獣のようなしなやかさで飛びすさって離れていた。
怒りに狂ったドラゴンの首が、ヘビのようにくねりながら敵の姿を探る。
不思議な金の瞳がアルファードの姿を捕らえ、ドラゴンは、敵に向かって突進した。
アルファードはドラゴンの首をかわして胸元に飛び込もうとしたが、まだ弱っていないドラゴンの動きは素早かった。ドラゴンの前足に薙ぎ払われ、アルファードは地面に叩き付けられた。
そのまま踏み付けてこようとする足をよけて、アルファードは地面を転がり、ドラゴンの身体の下から逃れ出る。ドラゴンの爪がかすった腕から、つっと血が流れた。
拭う間もなく、彼はドラゴンに打ちかかる。
ドラゴンの首や爪による攻撃をかい潜って目まぐるしく飛び回りながら、彼は、その身体のあちこちの鱗の合せ目を正確に剣で貫いてはすぐに飛びすさることを繰り返し、また、その横腹や、下げた首などに、幾度か力まかせに剣の平を打ち降ろした。剣は弾かれ、腕がしびれる。しかし、鱗の下で、柔らかい肉が砕け、骨がきしむ手ごたえがある。固い鱗につつまれたドラゴンに、打撲は致命傷とはならないが、強い力で繰り返せば徐々にダメージが大きくなるのだ。
が、この攻撃は、大きな危険を伴っている。剣にかかる負担が大き過ぎるのだ。
彼の剣は、戦乱の時代に重装の騎兵たちが鎧の上から相手を叩いてダメージを与える目的で使っていたような重さのある剣ではなく、農民出身の軽装の歩兵たちに支給されることが多かった、生身の相手を切るための白兵戦用の剣の流れを汲むものである。戦後、農民兵たちの帰郷に伴って各地に普及したそうした型の剣とそれに適した剣術が、現在スポーツとして行われている剣術の原型になったから、現代の剣術では、そうした比較的軽い剣の使用こそが正統であり、主流であり、そして彼はまさにその現代剣術をあくまで基本通りに正しく極めつくした、まさに正統的なチャンピオンなのだ。
今でも、ある程度の上級者になると、より自分に合った剣をと模索した結果、あえて他人と違う形状の剣を選び取ってみたり、力自慢のものであればことさら巨大な剣を選んでみたりして、それに適した剣法を極めようとするものもいないではないが、彼は、これまで終始一貫して、初心者が最初に使うような、ごく一般的な形で標準的なサイズの剣を使い続け、そしてそれをそのままドラゴン退治にも用いてきた。
しかし、剣はもともと、決してドラゴン退治に適した武器ではない。
集団でドラゴンを弱らせる時に腕力の強いものが、重さで叩き切るタイプの分厚い大剣を鈍器がわりに使うことはあっても、こんなふうに、生身の人間同士が切り合うのに使うような刃の薄い剣でドラゴンに立ち向かうものは、彼の他にはいない。そんなことができるのは、歌物語やお芝居の中の英雄たちだけのはずだった。
それでも彼がこれまでドラゴン退治にこの使い慣れた剣を用い続けてきたのは、それが集団戦におけるとどめの一撃専用だったからである。
仲間たちが、槍や戦斧やこん棒など、他の武器で弱らせたドラゴンの胸元に飛び込んで、一瞬のチャンスを捉えた渾身の一突きで素早くとどめを刺すという、彼ならではの瞬間的な速攻戦法においてこそ、この剣の手ごろなサイズや切れ味の良さという特徴を生かすことができたのだ。
だから、普段、この剣でドラゴンに何度も切りつけるなどということは無いのである。うまくいけばただ一突き、失敗しても、せいぜい数回だ。そうでなければ、彼とても、他の、もっと頑丈な武器を選んでいただろう。こんな華奢な剣でドラゴンの固い鱗に幾度も切りつけるなど、正気の沙汰ではない。下手をすれば、途中で剣が折れる。そうなっては、そこで終わりだ。
とはいえ、今は、気心の知れた自警団の仲間は、ここにはいない。他に選べる武器もない。それに、一人で一度に操れる武器はどのみちひとつだ。それならば、手の中にある自分の剣でできる範囲で戦うしかない。
ドラゴンの巨体に比べるとあまりにちっぽけな愛剣と、あとは自分の素早さだけを武器に、アルファードは、ドラゴンの周囲を跳び回って、素早い一突きを繰り出し続ける。
傷ついたドラゴンは、我を忘れて、やみくもに暴れ出した。
その、くすんだ銀色の身体は、あちこちが黒っぽい血でまだらに染まっている。
アルファードのほうも、無傷ではない。
ドラゴンの尾に跳ね飛ばされ、翼に打たれて、シャツは裂け、あちこちに浅い傷を負っている。
だが、彼の眼は、相変わらず冷静にドラゴンの動きを読もうとしていた。
本物のドラゴンを見たことのない都人などは、ドラゴンは終始ぼうぼうと火を吹いているものだと思っているようだが、実際には、そんなことはない。一度火を吐いたら次までにはしばらく間が開くし、また、火を吐くにはそれなりの準備動作が必要で、注意深く動きを追っていれば、必ずその前兆が見てとれるのだ。
何度目かに炎を吐こうとしたドラゴンの、一瞬の準備動作を見逃さず、彼は盾代わりの胴着を掲げて横飛びに炎から逃れた。
炎に煽られて、胴着もシャツも、半ば乾きかけている。水が乾いた分、返り血を吸ってはいたが、それも、間近で熱風を受ける度に、すぐにごわごわに乾いてしまう。彼の黒い髪の一房が焦げ、服が破れてところどころ剥き出しになった肌に火の粉がふりかかる。
(もう一度火を吐かれたら、終りだ。そろそろ一気にケリをつける時だ)
汗をしたたらせ、荒い息をついて、アルファードはふたたびドラゴンの正面に仁王立ちになった。
*
羊の群れの後ろから木立に駆け込んだ里菜は、ミュシカが羊たちをまとめるのを横目で確認しながら、はぐれた羊が取り残されていないかと、後ろを振り返った。
そのとたん、里菜はぞっとした。
(うそっ、アルファードが!)
向こうを向いて立っているアルファードの背中は、あちこちシャツが裂け、血が付いていた。
苦しげに肩を上下させている後ろ姿のその向こうに、小山のようなドラゴンが立ちはだかっている。
平穏な日常の中に唐突に降り立った異形の怪物は、話に聞いて想像していたより、ずっと大きく見えた。
見慣れた、いつもの牧場で、傷だらけのアルファードが物語の中の英雄のように剣を掲げてドラゴンと対峙しているその光景は、どこか現実味を欠いて、さながら神話の一場面を描いた絵画のように見えた。
やけにリアルなその絵画の題材は、これから死にゆく悲劇の英雄の、最後の勇姿――。
そう思ったとたん、里菜は、羊のことも、薮に隠れろと言われたことも、何もかも忘れた。頭の中が真っ白になった。ただひとつの言葉だけが、その中ではじけた。
(いやっ! アルファード、死んじゃいや!)
からっぽになった里菜の頭の中に、ふいに、ドラゴン退治の手順を淡々と説明するアルファードの声がよみがえった。
――『ドラゴンにとどめを刺す時は、撹乱役やほかの攻撃役がドラゴンの注意を引いてドラゴンが横を向いた隙に、胸元に飛び込むんだ』――
(アルファード、今、行くわ! あたしが手伝う!)
里菜は、握り締めていた羊追いの鞭を意味もなく振りかざしながら、木立から飛びだした。
*
痛みに平静を失って、すでに殆ど何も見ていなかったドラゴンは、真正面に立ち塞がったアルファードをかすんだ眼で認めて、力をふり絞り、今一度炎を吐こうと首を上げた。
(今だ! 貰った!)
アルファードは剣を上向きに構え、全身の力を矯めて、ドラゴンの胸元に飛び込もうと地を蹴った。
そのとき。
背後で、か細い叫び声があがった。
「アルファード! あたしが、あたしがドラゴンの……」
里菜の必死の言葉は、そこで途切れた。
すばやく振り向いたアルファードが、駆け戻りざまに、ものを言う間もなく、左腕に里菜の身体を抱いて、宙に跳んだのだ。
その瞬間、里菜はアルファードの肩ごしに、ドラゴンの凶々しい顔がこちらに巡らされるのを見た。その赤い口が、大きく開かれ……。
そこで、里菜の視界は閉ざされた。アルファードの大きな身体が里菜に覆いかぶさり、視界を遮ったのだ。
里菜の背中が、アルファードの左腕に庇われながら地面に叩き付けられた。




