第一章<エレオドラの虹> 第七場(5)
実は、彼は、もともとはヴィーレの子供のころからの許婚なのである。もと、というのは、今はそれが白紙に帰ってしまっているからなのだが、いくら当事者たちがそう言っても、村の人は、まだ、彼らを許婚同士と見なしている。
幼い頃、ふたりはとても仲が良かった。ふたごのようにいつも一緒に遊び、子供心に、大きくなったら自分たちは結婚するのだと素直に信じ、楽しみにしていた。ふたりの婚約は、結局は、ローイが次男坊でヴィーレは一人娘であるという両家の事情があっての話とはいえ、幼い二人がもとからいかにも仲が良かったからこそ出た話でもあるのだ。
ローイは知らないが、実は、ヴィーレは、いつか幼いローイがお嫁さんごっこの時に指輪にしてくれたスミレの花を押し花にして、今でも、ひそかに持っている。自分が愛しているのはアルファードただ一人だけれど、これはそういうのとは違う、ただの幼い日の思い出のかたみなのだと自分で自分に言い訳しながら、部屋の整理の度に捨てられず、小箱の底にしまい直すのだ。
あの日、風の吹き渡る丘の上で、春の日射しに包まれて白い花の冠をかぶったヴィーレに、ローイは、スミレの指輪と幼いくちづけを贈った。
「大きくなったら、僕はヴィーレに、本物の、見たこともないほど大きいシルドライトの指輪をあげる」と言ったローイの声は、今でもヴィーレの耳の奥に残っている。
だが、やがて思春期を迎えたふたりは、おたがいを恋愛の対象として見ることが出来なかった。親の決めた許婚者ということに対する反発も芽ばえていたし、幼い頃からあんまり近くにいすぎて、いまさら恋をするような相手ではなくなってしまっていたのだ。
そんなとき、ヴィーレのそばに、アルファードがいた。ヴィーレはアルファードを恋の対象に選んだ。
ヴィーレはその片思いを誰にも打ち明けはしなかったが、何も言わなくても、人の心の動きに聡いローイには、もちろん分かった。
それで、ローイも意地になって、ヴィーレとだけは絶対結婚しないと言い出した。
その頃にはローイの両親はすでに亡く、ヴィーレの両親は若いふたりの気持を尊重し、婚約の解消を承知した。反対すればローイがますますムキになるのは目に見えていたし、無理強いせずに本人たちに任せてそっと見守っていればいつかはもとのさやに収まるだろうと、内心期待していたのである。
なんといっても、二人はもともとあんなに仲が良かったのだし、婚約解消といっても、別に罵り合ってのけんか別れではない。母性的なヴィーレは、誰が見ても、世話を焼かれることなど必要としそうもない『大人』のアルファードより、根が甘えん坊のローイの方と相性がいいだろうし、ローイのようなだらしない極楽トンボにはヴィーレのようなしっかりものの奥さんがぜひとも必要だというのは、村人共通の見立てだ。
そんなふうにたかをくくって様子を見ているうちに、もう何年もたつが、一向に、ふたりがよりを戻す様子はない。ヴィーレはあいかわらずアルファードに片思いだし、ローイは村中の娘たちを、だれかれ構わず口説いてまわっている。たぶんローイは、ヴィーレ以外なら誰でもいいのだ。
誰もが、ローイとヴィーレは本当はまだ好きあっていると信じている。だが、人の出入りもほとんどない小さな村のなかで、アルファードも含めたこの三人の三角関係は、すっかり膠着状態に陥り、そのまま、生ぬるい友達関係に落ち着いてしまった。もともとローイとヴィーレはけんかのひとつもしたわけではないし、ふたりの婚約解消にアルファードが絡んでいることは、暗黙の了解ではあっても誰も口には出さなかったから、三人三様に口をつぐんでいれば、彼らは、何事もなかったように三人仲良く、友達でいられたのだ。
だから、その真ん中へ里菜が現れた時、ヴィーレの両親や、事情を知る回りの人達は、これはこの困った膠着状態を変えるきっかけになってくれるのでは、と、口には出さず、ひそかに期待したのだ。
実は、里菜がアルファードと一緒に住むことになった時、世話役たちの中では、「まあ<マレビト>どうしだから、よくはわからないが、それが当然なんだろう」という漠然とした肯定の空気の中にも、一応は、「未婚の若い男女が公然と一緒に暮らすのは問題があるのでは」という少数意見も出たのだ。とはいえ、そう言った本人も、内心は、「若い男女などといっても、一方はあのアルファードで、片方は聞くところによるとまだ幼く、彼自身も養女として引き取るという気持ちでいるらしいから、別に、変に勘ぐることもなかろうが」と思いながら年寄りの義務としてとりあえず建前を言ってみたまでなのだが、それを聞いた時に、「いや、でも、もし万一、ふたりの間に、将来、『間違い』でも起こって、そのまま<マレビト>どうしで一緒になってでもくれれば、それはそれで、実は四方八方に都合がいいんじゃないか……」と、ひそかに思ったものもいたのである。
里菜がアルファードの保護下に入ることが村の大人たちの公認を得たのには、そんな思惑も絡んでいたのだ。
が、若者たちの恋愛模様が大人の思惑どおりになどなるわけがなく、今度は、里菜を含めた四人の間に擬似家族的な四角関係が発生して、そのまますっかり安定してしまったわけなのだが、アルファードさえ誰かと片付いてしまえばヴィーレはいつかはローイと一緒になるだろう──そしてアルファードがヴィーレを選ぶことはいくら待ってもないだろう──と、今でも、誰もが思っているのだ。
そんな事情で、ローイは、今だに、村の娘たちからヴィーレの許婚と見なされている。
どうせ誰も彼を本当に手に入れることはできないのだと。
そのかわり彼は、遊び相手としてキープしておくには、都合のよい男だった。彼は本心ではまだヴィーレを好きなのだから本気で深みにはまる心配はないし、かといって、彼と遊ぶのにヴィーレに遠慮する必要もないというのが、娘たちの計算である。村中の娘たち共有の、手近で安全で気軽な遊び相手、それが彼だったのだ。
彼とて、いつもいつも、いなされてばかりいるわけではなく、よその村に遠征してまでこまめに女の子を口説いている甲斐あって、たまにはそれなりにいい目を見ることもあり、祭りの夜など、顔を売っておいた女の子の中の誰かから、ちょっとした火遊びの相手に選んでもらえることもある。彼はそれを『おっ、ラッキー!』という程度に受け止めて屈託なく楽しみ、後でその娘に対して相手が望む以上の厚かましい態度をとることもない。ただ、変わらずに親切な友達であり続ける。そんなところも、彼のそれなりの人気の理由だろう。彼にとって、恋はいつも、楽しいゲームだったのだ。
それなのに今度は、勝手が違う。楽しいというより、辛いのだ。ただ片思いだからだけではない。自分の中にある、里菜への想い自体が、何か痛みを伴うようなものなのだ。
(そうか、恋ってのは、辛いものだったんだなあ)と、彼は初めて合点がいった。
彼は、あちこちで顔を売った娘たちから、どういうわけか『人生相談』を持ちかけられることが多かった。彼が、意外と口が固く、しかも人畜無害な気のいい若者として知られているためばかりでなく、娘たちは、荒野で水を求める獣のように、本能的に、彼の、距離を保ったやさしさを嗅ぎつけるのだろう。
そして、彼女たちの相談ごとは大抵恋愛に関することで、彼女たちは大抵、その恋に苦しんでいるのである。
(それなら、やめちまえばいいのに)と、彼は思うのだが、彼女たちがそんな回答を期待していないのはわかっている。いや、そもそも、答など、求めてはいないのだろう。だから彼は、「やめちまえ」とは言わない。ただ、黙って話を聴いてやる。
彼女たちがローイのところに来るのは、解決を求めてではなく、ただ、自分の苦しみを語りたいだけなのだ。ローイに悩みを打ち明けた娘たちは、彼の、熱を持たない、水のようなやさしさに触れて、さらなる苦痛に耐える力を取り戻し、辛い恋のただなかに帰っていくのである。
けれど彼自身は、これまで、なぜ、多くの娘たちが、まるで苦しむのが好きだといわんばかりに、わざわざ辛い恋を選ぶのか、理解できなかった。それが、今、わかった。
彼女たちは、別に辛い恋を選んでいたのではなく、たぶん、本当に恋をすると、それはしばしば、辛いものになってしまうのだ。
(俺は、色恋にかけちゃ、ちょっと詳しいつもりでいたが、なんにもわかっちゃいなかったんだな。もしかして、これが、『本気』ってやつなのか……? ああ、なんてこった。いや、こんな顔してちゃダメだ。おい、エルドローイ、こんなシケた顔でリーナの前に出ちゃいけないぞ)
彼は、里菜の前では、相変わらず、常に陽気におちゃらけ続けているのだ。それは何も、素顔を偽って演技をしているわけではなく、彼はもともと陽気なお道化者で、それが彼の素顔なのだが、最近、彼は、里菜といると、時々、ガラにもなく妙に真面目な顔をしそうになってしまうのである。
(変だよなあ。俺って、全然そんなヤツじゃなかったはずなのに。本当に好きな相手の前では、自分が自分でなくなっちまうんだろうか。それが恋ってものなのか。だから辛いんだろうか……。あーあ、俺はどうしちまったんだ。ようし、いっちょ、景気づけに、歌でも歌って行くか! それ!)
ローイは突然大声をはりあげて歌い出した。
「おーれーはァ、村中でェーいっちばぁ……あ、ああ?」
歌声は、ふいにとぎれた。大口を開けたまま空を見上げたローイの目の中を、黒い影が通りすぎた。その後を追うように荒々しい風が地上を駆け抜けて、ローイの髪が舞った。
「う、うわあッ! 出た! ドラゴンだ。……こりゃあ、ヤバい。あっちは牧場だ。さて、どうする? 村に戻って自警団の連中を集めるが先か、とにかく山へ向かうが先か? この場所からなら、やっぱ、山だろうな。よし、いくぜ!」
山腹に向けて飛んで行くドラゴンの姿を追って、ローイは、その長い足で、脱兎のように駆け出した。