第一章<エレオドラの虹> 第七場(1)
里菜がこの国に来てから、およそ一カ月がたった。
この国の暦は、『あっち』の世界とあまり変わらない。季節の推移も、おおよそ、あちらの北半球と同じようなものらしい。
この国では、一年は三百六十四日なのだというが、年の境である冬至の日は古い年にも新しい年にも数えないので、実際には『あっち』とおなじ三百六十五日というわけだ。
一年は、冬至を新年として十三の月にわけられ、一カ月はきっかり二十八日、つまり四週間。そう、この世界でも、一週間は七日なのだ。一週間は、創世神話にちなんで、『草木の日』に始まり『妖精の日』で終る。初級学校や商店の多くは『妖精の日』ごとに休業するというから、この日が日曜日に当たるらしい。
そんなこの国の暦では、今は『十一の月』の終わりだというが、里菜がやってきたのは秋分の頃だったから、『あっち』の数え方で言えば十月下旬頃に当たるはずだ。国の最南端である温暖なエレオドラ地方では、平地はまだ秋の盛りであるらしいが、高原のまきばには、早くも冬の足音が忍び寄りつつある。吹き渡る風は冷たく、霜に当たった草は茶色く枯れ始め、仰ぎ見るエレオドラ山の頂きには、新雪が白く輝いている。
里菜が初めて自分の『力』を押えることができたあの日から、さらに一週間が過ぎたが、里菜の生活には、いまのところ何の変化もない。
羊の放牧の季節も、もうすぐ終る。
ふいに吹きつけた風の冷たさに、里菜は自分の腕を抱いてちぢこまり、隣に座るアルファードとの間を少し詰めた。
「寒いか?」
「うん、ちょっと」
里菜は顔色をうかがうようにちらりとアルファードを見上げ、おずおずと彼に寄り添ってみた。
アルファードは、それをそっと押し戻しながら立ち上がると、黙ってそそくさと上着を脱いで、里菜をくるみ込むように掛けてくれた。
そして、こう言って背中を向けた。
「ちょっと、水を汲んでくる」
(アルファードってば、芸がない! 朴念仁もいいところ。せめて言い訳くらい、もうちょっとバリエーションをつければいいのに)
大股で遠ざかる後ろ姿を見送りながら、里菜は、かすかに残るアルファードのぬくもりを求めて、上着をかき寄せた。アルファードの匂いがする。
里菜は、毎日のように、こんなふうにしてアルファードに寄り添おうと試みる。アルファードはその度に、必ず、要りもしない水を汲みに立ち上がる。
最初は拒絶された気がして寂しく感じていた里菜も、繰り返すうちに、彼が毎回同じことを言うのが半分面白くなってしまったのである。
それに、里菜がこんなふうにそれなりに積極的に振る舞ってみせられるのも、実は、アルファードがこちらを上回るほど積極的に応じてくることは絶対にないとわかっているからなのだ。
(ドラゴン退治の英雄のくせに、いかにも勇ましそうに剣なんかを下げて歩いているくせに、たかが女の子からこんなふうに逃げまわったりして、おかしいわ)と、里菜は、こっそり一人笑いして、アルファードの置き忘れていった剣を見やった。
ただの羊飼いだとばかり思っていたアルファードが実はドラゴン退治の英雄であり全国武術大会の優勝経験者であるということを、里菜は、ローイから聞かされていた。
ローイの話によると、アルファードは、これまで、いつも、まきばで羊を見張りながら暇さえあれば剣の素振りをしていたのだという。
が、里菜は、アルファードのそんな姿を見たことがない。
アルファードは、里菜の前では、まず絶対に剣を抜かないのだ。
アルファードの剣の刀身を、里菜は、たった一度だけ、ちらっと見たことがある。ここへ来た最初の頃、夕食の後の居間で、彼が、黙って剣の手入れを始めようとしたのだ。
これといった装飾もない実用一辺倒の武骨な剣は、鞘に納めて無造作にそのへんに置かれていると、一見、ただの農具か何かと錯覚しそうな慎しさ、何気なさだが、手入れは行き届いていて、いったん抜き放てば、突如としてくすんだ日常性の仮面を脱ぎ捨て、ぎらりと光る。
それを見て里菜がぎくっとしたのに、アルファードは目聡く気づいたらしく、それ以来、里菜の前では決して剣を抜かないのである。
そんな彼が、里菜の傍らに剣を置き忘れていくなどというのは、珍しいことだ。
ローイの話では、これは、全国チャンピオンの愛剣としてはちょっと相応しくない、初心者が使うような安価な普及型の、なんの変哲もないありふれた剣なのだといい、サイズもごく標準的なものらしいのだが、堂々たる体躯のアルファードが持つと、体格との対比で、やけに細身に、少々貧弱にさえ見える。
実際、イルベッザの武術大会の一回戦で、無名のアルファードが初めて剣を構えた時、その、大きな身体に不釣り合いな小振りの剣に、観衆の間から失笑が漏れたという。
が、アルファードに言わせれば、剣は大きければ大きいほどいいというものでもなく、ドラゴンの心臓を貫くという用途にはこれくらいがちょうどよいのだそうだ。鱗の隙間をこじ開けるようにして突き入れるにはあまり肉厚だったり幅広だったりする剣は不向きだし、ドラゴンの体の下に潜り込むようにしての至近距離からの突きなので、あまり長い剣では却って動きが取りにくいのだという。
そんなふうに具体的な使い方を聞くと、たしかにこれは殺しの道具なのだと、あらためて何か冷たいものを感じるが、普段はもう、アルファードが剣を下げていることにすっかり慣れてしまって、何とも思わない。いつも鞘に入ったままで決して抜かれることのない剣は、羊追いの鞭や水入れの革袋と同じ、アルファードの日常の持ち物のひとつに過ぎない。
最初にアルファードの部屋で剣を見た時には、たしかに里菜は、あんな、どう見ても普通のつつましい農家のような家に、あたりまえのように剣が置いてあることに驚いた。ここはそんな、普通の人も剣を持っていなければならないほど危険な世界なのかと不安になりもした。
が、何しろ別の世界なんだからそんなこともあるのだろう、この世界は、まだ剣を下げた人たちが普通に歩き回っているような、そういう野蛮な時代なんだろうと思った。それが、最初のうち里菜がここを実際以上に昔風の、時代がかった世界だと思いこんでいだ原因のひとつだった。
後になって、この世界では確かにまだ剣が普通に使われており(どうやら鉄砲というものは発明されていないらしい)、都市の治安維持にあたる官憲だの、裕福な商人などに雇われる護衛の私兵などは当然のこととして剣を持ち歩くが、そういう特殊な職業でない一般市民がつね日ごろ剣をぶら下げて歩くということは、やはり、あまりないらしいのがわかった。といっても、剣の所有自体は別に珍しいことではなく、ことに田舎の旧家では、いざという時の備えや父祖から受け継いだ家財の一つとして剣を持っている家も多いが、普通はそういうものは、納屋にしまったり、先祖伝来の由緒あるものであれば居間に飾ったりして、特別な時以外は持ち歩かないものだそうだ。まあ、あたりまえといえばあたりまえのことだろう。
それなのになぜアルファードは牧場に行く時にまで剣を持ち歩くのかと里菜に尋ねられたローイは、
「まあ、要するに、ヤツは変わり者なんだよ」と、肩をすくめた。
一応、家畜泥棒や狼を寄せつけないためだの、牧場で暇があったら素振りをするためだのと理由をつけてはいるが、本当のところ、彼は、剣を持ってないと落ち着かないのだろうと言うのだ。
「きっと、あれはさ、赤ん坊がおっぱい臭いタオルの切れっぱしを持ち歩くのと同じなんだよ。ヤツは、あれを持ってなきゃ、不安で外を歩けないんだ」と言って、ローイは、ニヤニヤした。
ローイは、このあたりではあんな無粋な長剣を普段から持ち歩いているのはアルファードくらいのもので、これが他の人だったら時代錯誤の変わり者、かっこつけのひけらかし屋と笑い物になっていただろうがアルファードだから笑われないのだと話してくれた。彼が武術大会のチャンピオンであり、また実際にみんながドラゴン退治で彼の剣の世話になっているからだと。
その時に里菜は、アルファードが武術大会のチャンピオンであることや、自警団長としてドラゴン退治をしていることを、初めて知ったのだ。
それを言うと、ローイは、信じられない、という顔をして、
「なんだ、やっこさん、あんたに、そういうこと何も話してないわけ? それって、無口だとか謙遜だとか、そういう次元じゃねえよなあ」と呆れかえり、武術大会でのアルファードの栄光や、彼自身も加わってのドラゴン退治の様子について、身ぶり手ぶりを交え、微に入り細をうがった誇張たっぷりの熱弁を振るってくれたのだ