第一章<エレオドラの虹> 第六場(2)
ここへ来て最初の数日間、里菜は、まるでこっそりかくまわれているかのように、アルファードとヴィーレ以外のほとんど誰とも会わずに過ごした。
それは、里菜の力が混乱を招くことを恐れた村の世話役たちが打ち出した慎重な方針の結果だったらしいのだが、そんなことを知らない里菜は、まるでアルファードの家だけが世界のすべてであるかのように思いなして、アルファードとヴィーレに守られ、子供のように世話され、一種の囚われ人と言えなくもないその隔離された境遇を疑問に思うこともなく、ゆっくりと新しい世界に慣れていくことができた。村の世話役の長であるヴィーレの父自身でさえ、最初に一度だけアルファードの家に訪ねて来た後は、村を代表して里菜を見守るという自分の役割をすべて娘のヴィーレに委ねて、自分はしばらく顔を出さなかったのだ。
数日後、集会が開かれ、里菜は村の人々と正式に引き合わされたが、別段、里菜がティーティに『女神』と呼ばれた時に密かに思い浮かべてしまったような珍妙な事態が起こる気配は、まったくなかった。年配の村人たちの中には、何やら有難そうに、あるいは畏れるように里菜を見るものもないではなかったが、せいぜいその程度で、里菜は、少なくとも表向きはただ、新しく村に仲間入りした住人としてごく普通に紹介された。
といっても、近隣の村との婚姻以外での人の出入りはほとんどないというこの村では、新しい住民というもの自体が珍しかったから、里菜の仲間入りが村にちょっとした旋風を巻き起こしたことは確かだ。
ことに、同年代の娘たち、若者たちにとっては、里菜はちょうど、ずっと同じ顔ぶればかりだった田舎の学校に遠い町から風のようにやってきた季節はずれの転校生のようなものだったらしく、世話役からの紹介が終わったとたんにわっとばかりに里菜に群がった彼らの態度は、ほとんど、初めての休み時間を待ちかねて遠来の転校生を取り囲む小学生のそれと変わりなかった。
わけても若者たちにとっては、里菜は、<マレビト>であろうとなかろうと、見飽きた顔ばかりの村によそからやってきた年頃の娘という意味で非常に関心を引く存在だったらしいが、そういう意味では、里菜は彼らに少々期待外れの感を抱かせてしまったようだ。
里菜が初めてみんなの前に出ていった時、若者たちはいっせいにどよめいたが、中の一人がけっこう大きな声で、
「なんだ、全然、子供じゃん」と落胆の声を上げ、まわりの若者に、
「声がでけえよ」と小突かれていたのを、里菜はしっかり見ていたのだ。
声が大きかったのは一人だけだが、おおかたは大体同じようなことを思ったらしいのは一目瞭然で、すでにアルファード一筋を心に決めていた里菜は別に彼らにモテたいとも思わなかったが、だからといってああまであからさまにがっかりされるのも面白くない気がしたし、せっかくの期待を裏切ってしまってなんだか申し訳ないような気分にもなった。
娘たちは娘たちで、みな、里菜を奪いあわんばかりに競って親切にしてくれようとしたが、里菜と同年代のはずの彼女らは、見た目も言動もやたら大人っぽくて、とても対等に仲間入りできそうな感じではなく、もともと内弁慶で引っ込み思案な里菜はすっかり圧倒され、気後れしてしまって、個人的に親しくなれそうな相手を見つけるどころではなかった。
その後も、里菜は、村人たちとは、あまり接する機会がないままでいる。里菜は、その力のせいで、やたらと村の中を歩き回ったりできないし、そもそも、昼間はずっとアルファードとまきばにいるので、人に会う機会自体が少なかったのだ。
それでも、毎朝村の家々を回って羊を集めたり、夕方、羊を連れ帰った時など、村人たちと挨拶くらいはする機会もあったし、親切と好奇心の一石二鳥で料理や衣類を差し入れに来るものもいた。
だが、年配の村人たちの多くは、あまり里菜に近づいてこなかった。彼らは、身寄りのない里菜に温かい同情を寄せてくれてはいるが、同時に、彼女の力を少しばかり恐れてもいるらしい。彼女の前で魔法が使えないということがまるで自分の魔法の力そのものが彼女に消されてしまうように思えて、頭ではそうではないと思いながらもなんとなく近づく勇気がでないのだろうというのが、ローイの解説だ。
ローイは、初めて会った日以来、毎日のようにアルファードの家か、ふたりの仕事場である山のまきばに顔を出しては、里菜とアルファードと一緒に過していく。もともとアルファードの家には頻繁に出入りしていたらしいが、今は、ほとんど『入り浸っている』といったほうがいい状態だ。
ローイとヴィーレの他には、アルファードの家を訪れるものは、ほとんどいなかった。それでも里菜のお披露目が済んでしばらくの間は、アルファードの家の回りに、入れ替わり立ち替わり用もないのにあるふりをして里菜を偵察に来る若者たちが跡を絶たず、アルファードはそのつど苦笑しながら彼らを招じ入れ、里菜に引き合わせていたのだが、里菜にしてみれば、そろって日焼けして逞しく、気が良さそうではあるが少々粗野な印象を与える村の若者たちは誰も彼も同じように見えた上、汗臭くて身体も声も大きい彼らに群れをなして押し寄せられるのは訳もなく少し怖くて、なるべくアルファードの後ろに隠れるようにしていたから、彼らはみな、しだいに居心地悪そうな顔になって、長居はせずに帰ってゆき、その後は、それまではちょくちょく顔を出していたらしいアルファードの家にあまり寄りつかなくなった。
里菜はそれを、
(まるで、それまで気軽に家に上げてくれていた先輩が結婚してしまって、なんとなく遠慮して遊びに来づらくなったみたいだな)などと思って、自分が勝手に連想したそんな例え話に自分でちょっと喜んだりしたのだが、その点、ローイに遠慮はない。当然の権利のような顔をして、アルファードの家のつましい夕食のテーブルについていたりする。
が、彼になら、アルファードと二人でいるところを邪魔されても、別に迷惑だとは思わない。彼はいつも陽気で元気で上機嫌で、内気な里菜も、彼といると、なんだかのびのびした気持になれた。彼はすでに、里菜にとって、特別の、大切な友人になっていたのだ。
ローイが子供に好かれているというのはどうやら本当のことらしく、里菜はよく、まきばへの行き帰りの途中で、ローイが子供にまとわりつかれているのを見かけた。ローイのほうも、本人は否定しているが、実は子供好きらしい。だからこそ子供たちがなつくのだろうし、そのために子守として重宝されるはめになってもいるのだろう。
一度など、里菜は、彼が、なんと、赤ん坊を背負った姿で村の娘のひとりを口説いている現場を目撃したものだ。
どこかへでかける途中なのか、荷物を抱えてさっさと歩いてゆく娘の横で、ローイは長身をかがめ、彼女の顔を覗き込むようにしてなにやらしきりと話しかけながら、右に左にうろうろとつきまとっている。合間合間に背中の赤ん坊をあやしたりゆすりあげたりする様子はあまりにも堂に入りすぎていて、彼が父親でないのが信じられないくらいだった。娘は、どんな巧いことを言われているのか、満足げな笑顔を見せながら適当に受け流している様子だ。アルファードと里菜が歩いてくるのに気がついたローイは、くすくす笑っている里菜を見てバツが悪そうな顔をしてから、にやりと笑って片手を上げて挨拶したのだった。
それはたしか、里菜が来てすぐのころだったが、どうやらそれ以来、彼は、ぱったりと女の子を口説くのをやめてしまったらしい。自警団の用事でアルファードを訪ねて来た──というのは表向きで、実は里菜を偵察しに来たらしい──若者のひとりが、
「ローイのやつが、最近、妙におとなしくしてるらしいぜ。ここしばらく、誰もやつに口説かれてないってよ」などと、ウワサしていったのだ。
もっとも、彼は、里菜に対しては、あいかわらず、挨拶のように例の『ひとめぼれ』を繰り返している。里菜も、それを、挨拶のように受け流している。実際、その言葉がただの冗談のようなものなのは分かっている。アルファードもヴィーレも、それを聞いても笑っているだけだ。
だが、その、ふざけた挨拶の影にかくれて、ほんの少しづつ、言葉にならない本気の響きが忍び寄って来ているのを、里菜はうすうす感じてもいる。少なくとも彼が自分にそれなりの好意を持ってくれているのは確かだ。何しろ、彼は毎日のように自分に会いに来てくれるのだから──。
里菜がぼんやり回想にふけっているうちに、水を汲みにいったアルファードが戻ってきて、さっきまでより里菜からほんの少し離れて座り直した。
里菜は、ふと思い立って、
「ねえ、アルファード。ちょっと悩んでる事があるんだけど……」と、他に誰もいないのにわざわざ声を落とし、ないしょ話を口実にもう一度アルファードに近づいて、わざと困ったように、こう言ってみた。
「あのね、ローイは、あたしに気があるのかしら……」
するとアルファードは、なんだそんなことかと言うようにふっと破顔して、しごくあっさりと、こう答えた。
「まあ、そんなこともあるかも知れないが、真面目にとりあうまでもないだろう。新しいおもちゃをもらった子供がしばらくはそれに夢中になるようなものだ。今まで子供の頃からの知りあいばかりだった村に十何年ぶりに現われた新しい住人だから、みんな、君が珍しいのさ」
里菜は、上目づかいにアルファードを見て口をとがらせた。
(そんなこと、言われなくたって分かってるわ。転校生がモテやすいのと一緒だもん。だからって、そんな、あっさり本当のこと言わないで、ヤキモチ焼くふりくらいしてくれたっていいのに。あたしって、アルファードの何?)
アルファードは、そんな里菜の態度をどう受け取ったのか、彼女の頭を軽くぽんぽんとたたいて、ただ、笑っていた。
(これって、まるっきり、妹扱い……っていうか、娘扱い?)
彼はいつでも、そんな調子だったのだ。彼女の初恋も、前途多難かもしれない。
それでも、彼女は、この世界で、とても幸福だった。初めての恋をして、たとえ妹のようなものとしてでも、一日中、恋しい人のそばにいられて、食べ物はなんでもおいしく、誰もが親切で、見るもの聞くものすべてが珍しい。
アルファードとふたりで山のまきばで過ごす時間も、壁をへだててアルファードの近くで眠る静かな夜も、ヴィーレやローイがやって来て賑やかに語り合う雨の日や夕べも、里菜にとって、夢のような時だった。
遊び人のローイはともかく、一家の主婦の代役を勤めるヴィーレは、実は結構忙しいらしいのだが、世話役である父の代理として里菜に気を配るという大儀名分があったので前よりもしばしばアルファードの家を訪れることができ、ローイとはちあわせすることも多く、彼らはほとんど家族のように、しょっちゅう食事や団欒を共にしていたのだ。
父のような、頼もしい長兄のようなアルファードと、母のような姉のようなヴィーレ、それに、年上であることをちっとも感じさせない、気さくな次兄のようなローイ。それは、里菜にとって、一種の擬似家族であり、里菜はそこで、愛されて育まれる子供の無邪気な幸福を、もう一度味わっていた。
そんな幸せの中で、里菜があちらの世界を思い出すことは、もう、ほとんどなかった。いや、思い出さなかったわけではない。何かにつけて、あちらの世界とこの世界を比べて見はした。が、あちらの世界の記憶は、ただ、本の中で読んだ知識のように頭に残っているだけで、自分が本当にそこで生きていたのだという生々しい実感を欠いていた。それよりも、今、頬の産毛を撫ぜていくまきばの風が、膝に寄り添うミュシカの温もりが、ずっと確かなものだ。
里菜は、決して寄り添わせてくれないアルファードの代わりを求めるように、もう一度、ミュシカの背中に顔を埋めた。