第一章<エレオドラの虹> 第六場(1)
ひんやりとした高原の秋風が、ミュシカの毛並をそよがせてまきばを渡っていく。羊の群れが、のんびりと草をはんでいる。
里菜は、ミュシカのやわらかな毛並に顔を埋めた。犬の匂いがする。
きっと今、自分も、出会った時のアルファードと同じように犬と羊と汗の匂いがするのだろうと、里菜は思った。
そういえば、自分がこの世界に来てから今日までの半月の間に、数えるほどしか髪を洗っていない。
だが、不思議なことに、そう思っても別にさほど気にならない。
『あっち』にいたころの自分からは、信じられないことだ。あのころの彼女は、毎朝シャワーを浴び、髪を洗っていても、学校に着くころにはもう、髪に付いたタバコの臭いやほんの微かな自分の体臭が、耐えられないほど気になっていたというのに。
きっと里菜は、もう、この国の娘、リーナとして、生まれ変ったのだ。
新鮮な山の空気と、素朴だが不思議とおいしいこの国の料理、それと多分、ヴィーレがせっせと持ってきてくれる焼き菓子のお蔭で、たった半月のあいだに、里菜は早くも、少しはふっくらとして、娘らしくなってきた。青白かった顔も、もともと日に当たってもあまり焼けないたちなのであいかわらず色白ではあったが、頬はほのかなバラ色を帯び、ずっと健康そうな顔色になった。白い肌と黒い瞳、バラ色の頬には、ヴィーレが約束通り作ってきてくれた簡素なワンピースの深く鮮やかな青が、よく似合った。
(『あっち』では、なんであんなに少ししか食べられなかったのかしら)と、里菜は不思議に思う。あのころは、母親に小食と痩せ過ぎを心配されても、自分では、本当にそれでおなかがいっぱいなのだからしかたないと思ってきたが、ここでは、今までの分を取り戻すように、アルファードが驚くほどよく食べているのだ。
(きっと、ここではあたしは、半月前に生れたばかりの『おさな子』だから、急いで育たなくちゃならないから、だから、たくさん食べられるんだわ。早く、アルファードに子供扱いされないくらい大人になれるように……)
自分が、最初、アルファードからまるっきり子供だと思われていたらしいことを、里菜は、ちょっと気にしているのである。
小柄で童顔な里菜は、あちらの世界でも実年齢より幼く見られることに慣れていたが、アルファードの勘違いぶりは、いくらなんでもショックだった。彼が最初に里菜に年齢を尋ねたのは、初級学校への転入手続きが必要なのではないかと思い当たってのことだったらしいのだ。
この国には、ちゃんと、義務教育制度があって、通常十四才までは初級学校に通うことになっているのだという。ということは、里菜は十四歳以下に見られたのである。
その件について、一度、彼を問いつめてみたところ、
「あー、そのう、たぶん十四歳よりは上だろうと思ったが、でも、まんいち十四歳以下だったら学校にやらねばと思って、念の為に……」ということだったが、その取り繕うような答え方からして、本当は、たぶん、もっと年下だと思われていたに違いない。
が、その後知り合った、この村の同じ年頃の娘たちが全体にわりと大柄で、身体つきも女らしく、何から何まですっかり大人びていたことを考えると、それも無理もないかもしれない。
どうやら彼は、もともと、年端も行かぬみなしごを養女として引き取るというつもりで里菜を家に連れてきたらしく、はっきりと口に出しては言わぬまでも、今でも半ばそう思っているらしいのが、言葉や態度の端々に伺われる。かといって、今でも本気で里菜をまったくの小児だと思っているわけではなく、里菜がまがいなりにも恋愛対象になり得る年ごろの女性であるということはそれなりに理解した上で、あえてその現実に目をつむり、『自分は子供を引き取ったのだ』という自分の『つもり』を、頑固に押し通そうとしているらしい。
けれども、アルファードが、自分たちの年齢が五歳ほどしか違わないという事実をどんなに注意深く無視して自分たちが養父子であるかのように振る舞い続けようと、それは無駄なことだった。里菜のほうは、アルファードの養女の役になど甘んじる気はないのだ。
たぶん、水の中のまどろみから目覚めてこの世界で一番最初にアルファードの顔を見た時から、里菜は、自分でも気づかないうちに恋に落ちていたのだから。
それは、里菜にとっては、初恋だった。
里菜は、この年になるまで、恋をしたことがなかったのだ。
それがかなり『変わってる』ことなのは里菜にもわかっていが、別にわざと恋愛を避けていたわけではなく、これまで周囲に興味をもてるような男の子が全然いなかっただけなのだからしかたがない。
(きっとそれは、あたしがただ一人愛するべき運命の人、アルファードが、ここに、この別の世界にいたからなんだわ! だから『あっち』にはあたしの注意を引くような男の子がいなかったんだ。あたしは、ただひとりアルファードだけを愛するために、これまでそのへんの男の子なんかに目もくれず、初めての恋を大事にとってあったのね!)などと、かなり恥ずかしい物思いに浸ってしまった里菜は、はっと我に返って思わず赤面し、それを見られはしなかったかと、隣に座るアルファードを盗み見た。
アルファードはいつもの通り、里菜との間に不自然でない程度の微妙な距離を保って黙然と座り、羊の群れを見ている。
里菜の本当の年齢を聞いて以来、彼は、最初の日に里菜を寝台に座らせた時のように気軽に里菜を抱え上げたりすることは絶対になくなって、こうして並んで座る時も、必ず、注意深く、ちょっと距離を置くのだ。
里菜は思いきって、少しだけアルファードのほうに身を寄せ、おそるおそる、アルファードの肩にもたれてみた。振り向いたアルファードは、その暖かな暗褐色の目を和ませて里菜を見下ろし、ミュシカにするように里菜の頭をぽん、と、軽く叩いてくれたが、そのついでのように肩に手をかけて里菜の姿勢を真っ直ぐに直させ、自分は「ちょっと水を汲んでくる」と言って、すぐに立ち上がってしまった。
この国の人は誰でも、コップひとつあればそこに魔法で水を満たせるのだが、酒やお茶を呼び出すことは出来ないから、それらをいれるための水筒や皮袋というものはある。アルファードはそれを水入れに使っており、喉が乾くと、まきばを流れるエレオドラ川の支流の小川に水を汲みにいくのである。
だが、今は、水袋には十分な水が入っているはずだ。
(水なんて、今、いらないのに。逃げたんだわ。ちょっと甘えてみたかっただけなのに、アルファードって、いつも、こう。すっとかわして、逃げてばかりで、のれんに腕押しって感じ)
ミュシカを撫でながら、里菜はちょっとふくれた。
里菜としても、別にアルファードに恋人同士のような振る舞いを期待していたわけではなく、たぶん、そんなふうにされたら逆に困って自分が逃げ出してしまうのだろうが、せっかく思い切って接近してみたのを、そ知らぬふりでかわされてしまうのも寂しいものがある。じゃあアルファードにどうして欲しいのかというと、自分でもそれはわからない。これまで、たあいのない恋愛ごっこに右往左往する級友たちを醒めた目で眺めてきた里菜が初めて知る、恋のさなかの幸福な愚かしさである。
こんなふうに、彼らは、毎日、こうして、少し離れて、まきばに座り続けてきた。
アルファードの生活は何かにつけて信じられないほど原始的だったので、里菜は最初、この世界を、昔話の中のような古めかしい不便な世界だと思っていたのだが、このころには、この国の生活水準が思いのほか高いことがわかってきた。
ただ、アルファードは、貧しいうえに魔法が使えないので、彼ひとりだけが不便な生活をしていたのだ。
それは本当に大変なことで、例えていえば、他の家にはみな、ガスや水道がきているのに、アルファードの家だけそれがないようなものだ。
例えば火をつけるのにしても、この国には昔から魔法でそれをしていたので、逆に、これだけの生活水準なら当然普及しているはずの、マッチなり、せめて火打ち石なりといった文明の利器が、まったく発明されていないのだ。それどころか、どうも、木をこすって火を起こすという原始的な方法さえ、知られていなかったらしい。だから、アルファードは、火の起こし方を、まったく最初からひとりで工夫したという。
彼は今──普段はもちろん炉の中に火種を絶やさず埋めておくようにしているが、どうしても火を起こす必要があるときは──自分で考案した簡単な摩擦装置を使っている。この国では、魔法を使わずに火を起こすなど、それこそ魔法のような技であり、里菜が思うに、これは、たいした大発明なのが、その発明を利用する必要のあるのは、世界でただひとり、アルファード本人だけだ。
一方、魔法が使える普通の人の生活も、なんでも魔法で出来るというわけではないらしい。里菜が魔法で家事をすると聞いてイメージするのは、杖の一振りで料理が現われ、呪文ひとつで部屋中の散らかったものが浮き上がって一瞬のうちにあるべきところに収まるといったものだが、よく聞いてみると、ここの『普通の魔法』は決してそんな便利なものではなく、『普通の魔法』に出来ることは、どうやら、だいたい『あっち』の世界で文明の利器で出来るようなことばかりなのだ。
もちろん、まったく同じというわけではなく、魔法で出来て機械で出来ないこともあるし、その逆もある。
それでも、おおざっぱに全体を比べて見れば、この世界のほうがいろいろな面で不便らしいのだが、里菜は、この村の普通の人の生活を、その目で見たわけではない。アルファードやヴィーレたちから話に聞くばかりだ。
今でも里菜は、自分の特殊な力を制御出来ずにおり、村の生活の中には、入っていけないのだ。
でも、本当のことを言うと、里菜はこのままで構わないと思っている。そのおかげで、アルファードだけと、いつも一緒にいられるのだから。