第一章<エレオドラの虹> 第五場(3)
ヴィーレは、夕食を作り終わると、自分は家で食べるからと言って帰っていった。
それとほとんど入れ違いに、こつこつと小さくドアを叩くものがあった。
この日、三人目の訪問者は、小さな花束を手に持った六才位の愛らしい女の子だった。ドアの外の夕映えを背にして、少女の赤味がかった銅色の髪が、燃え立つように輝いていた。
「ティーティじゃないか。どうした?」
ドアを開けたアルファードが驚いて尋ねると、少女は、はにかんだ笑みを浮かべ、
「こんにちは、アルファード。あのね、女神様に、お供えの花を持ってきたの」と答えながら、つかつかと部屋に入ってきて、手に持っていた花束をいきなり里菜に差し出した。
「これ、お姉ちゃんに」
「え? あたしに? だってこれ、女神様にお供えするお花じゃないの?」
「そう、女神様にさしあげるお花。だから、お姉ちゃんに。お姉ちゃんは女神様でしょう? おばあちゃんが、そう言っていたわ」
「あのう……。悪いけどそれって、何かの勘違いだと思うわ。ごめんなさいね」
「ううん。違わない。あたし、わかるもん」
突きつけられた花を前に里菜がためらっていると、アルファードが横から取り成した。
「リーナ、受け取ってやれ。ティーティは、きっと、君が<女神のおさな子>だってことを言っているのさ。ティーティは、せんだって亡くなった女神の司祭の孫なんだ。君を歓迎してくれているんだよ。な、ティーティ」
いきなり女神などと言われ、女神へのお供えの花を差し出されては、受け取るのを躊躇せざるをえないが、歓迎の花だと言われれば、拒む理由もない。なにしろ相手は、可愛らしい小さな子供なのだ。
「そっか、歓迎のお花ね? どうもありがとう、ティーティ」
里菜が屈み込んで目の高さを合わせ、花を受け取ると、少女はぱっと顔を輝かせ、誇らしそうにこう言った。
「お姉ちゃん、あたしね、さっき代替わりの儀式が全部終わって、潔斎も明けたから、新しく司祭になるの。あたしを祝福して」
里菜は困ってアルファードを見た。村の習慣で、何か特別な言葉やしぐさがあるのかと思ったのだ。だが、アルファードも分からないらしいので、里菜は少女に尋ねた。
「祝福って、どうやるの?」
「ただ、言ってくれればいいの。あたしを祝福するって」
「ふうん。分かったわ。ティーティ、あなたを、祝福します」
少女はぱっと顔を輝かせて、左手を胸に当てると、かわいらしい声でせいいっぱい厳かに、何やら意味不明の言葉を唱えた。
「ミタマノフユヲイヤマスマスニカガフラシメタマエ」
「へ?」
きょとんとした里菜の、空いているほうの手に、少女はさらに、
「これも、お姉ちゃんに。おいしいよ!」と言いながら持っていた木の実を押し込んだかと思うと、そのままきびすを返して、スキップでもしそうな足取りで、さっさと出て行ってしまった。
あっけにとられてその小さな後ろ姿を見送った里菜は、アルファードを振り返った。
「アルファード、今、あの子、何て言ったの?」
「さあ……。多分、司祭の家にだけ伝わる、古い祈りの言葉だろう。そういえば、祭りの時、司祭のばあさまが祠の前で、あんなようなことを言って祈っていたと思う」
「そのおばあさんっていうのが、亡くなって、あの子が跡を継いだわけ?」
「ああ、彼女の家は女神の司祭の家系なんだ。といっても、別に普通の家なんだが、昔から代々あの家の女性が祭りを司り、女神の祠の手入れやなんかをすることになっている。司祭のばあさまは、おとといの夜中に亡くなって、あの子の母親はあの子がまだ赤ん坊の時分に亡くなっているから、あの子が次の司祭なんだ」
「ふうん。さっき言ってたなんとかの儀式って、何?」
「さあ。俺も知らない。なんでも、ばあさまが亡くなってからこっち、なにやら、潔斎だとか儀式だとか言って、ずっと独りで部屋に籠って誰にも会わなかったそうなんだが、さっきの話によると、今、それが終わって出てきたところらしい。それにしても、あの子が君がここにいることを知っていたのは不思議だ」
「あの子、なんであたしに、あんなこと言うのかしら。女神がどうとか、祝福だとか。それに、おばあさんがあたしのことを何か言ってたって……。そのおばあさんって、おとといの夜に亡くなったんなら、あたしのこと、知らなかったはずよね。だって、あたしがここへ来たのは昨日だったんでしょ? きっと、子供のことだから、なにか勘違いしているのよね?」
里菜は、手の中の野の花を、途方に暮れて見つめた。
「いや、リーナ、司祭のばあさまは、君が来ることをあらかじめ知っていたのかもしれない。あのばあさまには、確かに多少、特別な力があったようだ。それはたぶん、彼女自身の力というより、司祭の地位に伴う力だったんだろう。そして、あの子は、幼くても司祭だ。だから、彼女が女神について語ることは、一見訳が分からなくても、何かの真実を隠していると、俺は思う。必ずしも言葉通りの意味ではなくても、何か象徴的な意味があるんだろう」
そう言ったアルファードの何やら厳粛で敬虔な声音に、里菜は少し驚いて、アルファードを見た。アルファードはその時すでに、里菜に村の信仰についても簡単に解説してくれていたのだが、その時の彼の淡々とした口ぶりや、一通りの説明を聞き終った里菜が、念の為、「それで女神様って本当にいるの?」と訊ねてみた時──なにしろ魔法が存在する世界だ、神様が実体となってそこらを歩き回るようなこともあるのかもしれないと思ったのだ──の彼の、まるで「サンタクロースって本当にいるの?」と聞かれたかのような反応から、里菜は、彼がてっきり自分と同じ現代人の宗教感覚しか持っていないと思っていたのだ。
が、里菜が驚いて自分を見ているのに気がついたアルファードは、笑って付け加えた。
「まあ、あまり大げさに考えずに、好きなように言わせておけばいい。俺は、十二年間、そうしてきた。彼女らには彼女らなりのものの見方があるんだ。他の者は、きっと、君を女神だなどとは言わないから、心配いらない。そんなことを言うのは司祭だけだから」
心配いらないと言われても、この時、里菜の頭の中には、鳥の羽だの何だので全身を飾りたてて『謎の古代文明』風に装った村人たちが里菜の前にずらりと並んでお祈りを唱えながら一斉にひれ伏したり、太鼓を叩きながら里菜の周りをぐるぐる踊り回るといった、古いB級SF映画にでもありそうな珍妙な光景が、思わず浮かんでしまったのだった。
(さっきまで、ここって、魔法が本当にあるっていうわりにはごく普通の近代社会のただの田舎の村で、明日からごく普通の田舎暮らしが待っているんだとばかり思ってたけど、もしかして、やっぱりちょっと違うのかもしれない……。お姫様や小人や妖精がいるようなおとぎ話みたいな世界に行ってみたいとは思ったけど、こんな一見普通のところで『謎の古代文明の女神様』にされるのは、ちょっとヤだなあ)と思ったとたん、里菜はアルファードにこう尋ねていた。
「ねえ、ここの人たちって、太鼓叩いて歌ったり踊ったりする?」
「えっ……。いや、この辺では、踊りの伴奏に太鼓を使うことは少ないな。地方によっては太鼓をメインにするらしいが。……リーナ、君は歌舞音曲に格別な関心があるのか?」
アルファードに大真面目に聞き返されて、里菜はぶんぶんと首を横に振った。
こうして、里菜のこの世界での最初の一日は、家から一歩も出ないうちに、ゆっくりと平和に過ぎていった。