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番外編『滅びゆく種族の歌』

一応、第二章第四場読了後推奨ですが、ネタバレは特にないので、本編未読でも大丈夫です。

 ――歌が、聴こえる。

 まだ明け初めぬ初冬の朝まだき、里菜はふと目覚めた。

 どこからか、歌が聴こえてくる。明け方の霧のように、木々の間を縫って、不思議なうつくしい旋律が流れてくる。

 言葉は聞き取れないけれど、高く透き通る清らかな歌声は、女性の――たぶん、まだ幼い少女の声だ。


 枯葉を寄せ集めた野営の床で、里菜は、横たわって目を閉じたまま、ぼんやりと歌に聞き入った。

 これは何の歌だろう。知らない言葉――きっと、外国語の歌だ。流れるような、さえずるような、綺麗な響き。どこの国の言葉だろう。英語じゃないし、良くは知らないけど、たぶんフランス語でもドイツ語でもなさそうだし……。

 ぼんやりと思ううちに、しだいに目が覚めてきて、ふと気づく。

 ここは異世界、イルファーランだ。ここには、アメリカもイギリスも、ドイツもフランスもないのだ。

 そして、ここは、古いエレオドラ街道沿いの森の中。

 歌ってるのは、だれ?


 里菜は目を開けて、マントを巻きつけた上体を起こし、辺りを見回す。

 まだ薄暗い、森の中の野営地。消えかけた焚き火の周囲には、それぞれマントにくるまって、アルファードとローイの大きな姿が横になっている。

 そして、思ったとおり、そこにもうひとつあるはずの小さな姿――昨夜、寝入った時には自分の傍らにぴったりと寄り添っていたはずの、キャテルニーカの姿が無い。


 里菜は、アルファードたちを起こさぬように、そっと立ち上がった。

 そして、マントをきつく身体に巻きつけ、寒さに震えながら、歌の聴こえる方角に歩き出した。

 枯れた下生えを注意深く踏んで、朝霧に沈む森をゆく。

 ほどなく、木々の間に、探していた姿を見つける。

 いつもと同じ薄い袖なしのワンピース一枚で、寒がる様子も無く静かに佇み、無心に歌っている、小さな、あどけない童女。


 キャテルニーカに声をかけようして、里菜は、ためらった。

 この素晴らしい歌を中断させるのが惜しかったせいもある。

 けれど、それだけではない。僅かに白み始めた暁の底、ただ独り無心に歌い続けるキャテルニーカの姿は、何か、この世の存在では無いもののように見えて、声をかけてはいけないような気がしたのだ。


 鳥たちも未だ目覚めぬ、静かな冬の森の中、キャテルニーカの小さな愛らしい唇から、不思議な歌が溢れ続ける。

 耳慣れぬ――けれどなぜか懐かしさと切なさを呼び覚ます独特の節回しは、どこか不安定なようでありながら、一音たりとも他の音に置き換えるわけにはいかないだろう至上の調和を湛えて、鳥のように舞い上がり、木の葉のように降りしきり、仔栗鼠のように気まぐれに駆け回り、夏の光のようにひととき煌いては、水のように辺りを満たして静かにたゆたう。

 その清冽な歌声は、確かに、ニーカの可愛い幼な声なのだけれど、普通に話しているときとは発声が違うらしく、まるで、人間の声ではなく、小鳥のさえずりや風の音であるかのように聴こえる。旋律と一緒に唇から流れ出す白い息まで、何か、不思議な魔法が生んだ幻影のよう。


 歌いながら、半ば伏せられていた瞼がふと上げられる。

 明るい若葉色の宝石ような瞳が、かすかに漂い始めた暁の薄明かりを集めて星のように輝く。

 僅かに仰のく動作につれて、耳元で、瞳と同じ色のシルドライトも小さく揺れて煌く。


 シルドライトの瞳、黄金の髪、漆黒の肌、若木のようにほっそりとした、しなやかなむきだしの腕、華奢な足首、そして、枯れ草に半ば埋もれた、何か小動物のそれを思わせる小さな黒い素足。

 簡素な薄衣を纏ったあどけないその姿は、透き通る蜻蛉の翅のように儚く、清らかで――


 ――ああ、森の妖精だ……。


 そう思ってから、里菜ははたと気づく。

 そう、ニーカは――ひとなつこく愛くるしいこの無邪気な少女は、本当に『妖精』なのだ。もちろん、里菜の世界の物語に出てくる『妖精』とは違うのだけれど、この世界で『妖精』と呼ばれる、古い種族の末裔だ。

 背中に翅こそ無いけれど、豪奢な黄金の巻き毛の両側からは、可愛らしく尖った黒い耳の先が、小さな角のようにちょこんと覗いている。


 里菜は、なんとなく息を呑んで立ち尽くした。

 ああ、なんて不思議な、不思議ないきもの……。そして、なんてきれいな、なんて謎めいた……。


 昨日、ニーカは、ただの可愛い子供だった。

 それは、たしかに、肌と髪や瞳の色の取り合わせが非常に珍しかったり、人並みはずれて美しい容姿を持った豪華な美少女であったりはするけれど、無邪気にお菓子を食べ、他愛のないおしゃべりをしながら人懐こく擦り寄って甘えてみたかと思うと興味の赴くままにするりと脇をすり抜けてあちこちの藪に顔を突っ込んでみたりと、足元に纏わりつく気まぐれな仔猫よろしく前に後ろにちょろちょろ動き回りながら自分たちについて歩くさまや、夕べの焚き火の傍らで首に抱き付いてきたぬくもりは、慈しむべき、守り育むべき幼な子そのものだった。


 でも、今、こうして知らない言葉で歌を歌っているニーカは、やっぱり、別の種族、別のいきものなのだ。

 こうして見ると、その姿は、あまりにも異質だ。


 それは、里菜の元いた世界にも、肌の黒い人や、髪が金色だったり目が緑だったりする人はいた。

 でも、その人たちは、ただ単に肌や髪の色や顔立ちの特徴が違うだけの、同じ人間だ。

 だけど、ニーカは違う――。

 少し釣り上った猫のような目にはほとんど白目の部分がなく、宝石のように透き通ってきらめくその瞳は、昼間の光の下では若草のような黄緑色だが、夜、野営の焚き火の傍らで見る時は、揺れる火影を映すかのように底の方にちらちらと深紅の光を宿す。

 滑らかな卵形の顔はあまりにもつるりとして陰影が浅く、信じられないほど大きな目に比して鼻や口が極端に小さい顔全体のバランスも、実は明らかに常軌を逸している。


 はじめてニーカを見た時、里菜は、『お人形さんみたい!』と思ったが、それは決して単に可愛らしさを表す比喩ではなく、実際、彼女はまるで、人形にそのまま血を通わせて動きの自由を与えたかのような姿をしているのだ。


 人形の顔というものは、多くの場合、人間の顔の中で可愛さや美しさを感じさせる要素を強調し、その逆の部分を省略し、あらゆる瑕疵や夾雑物を取り除いて作られる。だからこそ、本物の人間以上に、より純粋に、子供や少女の可愛らしさや美しさをまじりけなしに表現できるのであるが、だからといって、もし、そういう人形たちと本当に同じ顔をした人がいたら、その人は、決して、美しくも愛らしくもないだろう。むしろ、異形に違いない。

 キャテルニーカの美貌は、そういう、異形一歩手前の、どこか非人間的な、作り物めいた、異質な美貌なのだ。

 ただ、普段は、自然で生き生きとした表情や子供らしい活発な仕草が、彼女を『愛らしい子供』に見せているのだ。


 けれど、そういう、子供らしい表情や仕草が影を潜めている今――、彼女は、『異形』だった。

 美しすぎる異形。

 硬質な光を湛えて限りなく透んだその瞳は、まるで、どこか人間には見えない別の世界を――人間には見ることを許されない楽園の風景を見ているよう。

 里菜は、いつのまにか、魂を抜かれたような心地で、歌うキャテルニーカに呆然と見惚れ、また、その歌に聴き惚れていた。


 ああ、今、あたしは、妖精の歌を――滅びゆく種族の歌を、聴いている……。

 震えるような想いが胸を満たした。


 きっと、この言葉は、妖精たちの種族の古い言葉なのだろう。

 ローイが言っていた。妖精族は、かつて、独自の古い言葉を持っていたのだと。

 その言葉は、今ではもうほとんど失われ、日常生活の中で使われることはないが、古い歌や儀礼の祭文などの中には残っていて、子供の命名に使われることもあるという。

 キャテルニーカという名も、その古い言葉で、『癒し手』という意味なのだそうだ。


 異世界であるイルファーランの言葉が、どういう仕組みでか理解できる里菜だが、人の言葉よりも鳥のさえずりに似ているような気がするこの言葉は、全く理解できない。

 言葉の意味は理解できないけれど、歌に込められた想いは、分かる。

 これは、愛惜の歌、追慕の歌、想い出の歌、喪失の歌、望郷の歌――うしなったものを悼む、哀悼の調べだ……。


 脳裏に、美しい光景が広がる。

 なだらかな起伏を描く光明るい緑の丘に、黒い肌の美しい人々が群れ集い、今を盛りと花々が咲き乱れる中、楽しげに笑いさざめいている。

 軽やかな身のこなしで蝶のように行きかう小柄なその人々は、大人も子供も男も女も、誰もが、ほっそりとした優美な姿と、様々な色合いの豪華な巻き毛を持っている。光り輝く黄金の髪、炎のように燃えたつ緋色や朱赤の髪、光を弾くあかがね色の髪に、風の中で陽に透けるプラチナの髪――そして、つややかな黒絹の肌に映える翠の瞳、青い瞳、透き通る琥珀の瞳、神秘にけぶる紫の瞳――。その、豪華な色彩の乱舞は、緑の丘にきららかな宝石をばら撒いたよう。

 降り注ぐ陽光、輝く雲、揺れる野の花。花を摘む幼な子、寄り添う恋人たち。美しい人々、美しい自然――絵の中にしか存在しえないような、美しい、美しい世界。平和で、豊かで、愛に満ちた、楽園の光景――。


 けれども、そんなにも美しい、一点の曇りも無く満ち足りた光景を見ながら、胸に哀しみが広がるのは、その楽園が、遠い昔にすでに喪われてしまったことを知っているからだ。

 里菜の頬を、我知らず、涙が伝った。

 たぶん、これは、かつて妖精たちが平和な繁栄を謳歌していた神代の光景なのだ。

 この歌は、喪われた楽園への挽歌なのだ。


 と、いきなり、歌が止んだ。どうやら、一曲歌い終わったところらしい。

 キャテルニーカが、里菜がいたことなど最初から知っていたといわんばかりの落ち着いた様子で、にっこりと笑った。

「おねえちゃん、おはよう!」

 そして、元気よく木の根を飛び越えて里菜の元に駆け寄ってきた。

 そんなふうにしていると、キャテルニーカは、やっぱり、ゆうべ焚き火の傍で里菜にもたれかかってきた時と同じ、可愛い子供なのだった。


「おはよう、ニーカ。今の歌、素敵な歌ね」

「うん。古い、古い歌よ。弟がね、好きだった歌なの。そして、お母さんも、お祖母ちゃんも、ひいお祖母ちゃんも好きだった歌」

「ニーカには弟がいたの?」

「ううん、あたしの弟じゃない。お母さんの、弟」


 最初のうちはニーカのこういう混乱した物言いにいちいちめんくらい、この子はちょっと頭が弱いんじゃないかなどと思った里菜も、既に、だいぶ慣れてきている。


「……ってことは、あなたの叔父さんね?」

「叔父さんじゃないよ。お父さん。……でも、もう死んじゃった。お父さんも、お母さんも、お祖母ちゃんも、お友達も、みんな、みんな、ずっと前に死んじゃった。生きているのは、あたしだけ……」


 特に悲しそうでもない、歌うような口調だったけれど、だからこそ、そこに深い深い孤独が秘められているように思えて、里菜は胸をつかれた。

 この子は、少々要領を得ない本人の申告を信じるなら、両親をすでに亡くしているらしい。

 それが二人同時になのか、父が先立ったのか、いずれにせよ、父亡き後は母の弟である叔父に引き取られ、叔父を父と呼んで育ったのだろう。そして、どうやら、父親代わりのその叔父も、既に亡いのだ。

 たぶん、その他の親戚縁者も、北部を襲った災厄の中で、みな死んだか、あるいは離散して音信不通になっているのだろう。

 この子は本当にひとりぽっちなのだ――。


 里菜は衝動的にキャテルニーカの小さな身体を抱きしめた。

 キャテルニーカは屈託の無い笑い声を立てて、嬉しそうに里菜に身体を押し付けてきた。そんな仕草は、まるで仔猫のようだ。冷え込んだ身体に、子供の高い体温が嬉しい。


「さあ、みんなのところに戻って朝ごはんにしましょ」

「うん! おなか減ったね!」


 顔を見合わせて微笑みあうと、二人は手を繋いで野営地へと歩き出した。

 寒い早朝の森の中にずっと立っていたというのに、ニーカの小さな手は温かかった。

 森の朝は、いつのまにか、白々と明けはじめていた。



 (『イルファーラン物語』番外編『滅びゆく種族の歌』・完)

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