第一章<エレオドラの虹> 第五場(2)
「それにね、これにはちょっと、理由があるのよ」と、ヴィーレは、ちょっと声を落して続けた。
「この子の前で、あたし、魔法が使えないの。この子、魔法を消してしまうの」
「えっ。そりゃ、どういう意味だ?」
「言ったとおりよ。これはまだ、ほかの人には言わないでほしいんだけど、どうも、この子は、魔法を消すっていう特別な力を持っているみたいなの。しかも、自分でそうしようと思ってするんじゃなくて、魔法を消さないようにしようと思ってても、自分でも知らないうちにいつのまにか消しちゃうらしいのよ。だから、この子は、ちゃんと寄り合いで話し合ってみんなに正式に紹介するまでは、うかつに外に連れ出さないほうがいいって、ファードが……。あたしもそう思うわ。だって、何の拍子にどんな騒ぎが起こらないとも限らないでしょ」
「ふうん。そりゃ、ずいぶんおおごとだなあ」
ちっともおおごとそうでない口調で、彼は言った。彼にとっては、里菜にどんな魔法の力だか反魔法の力だかがあろうと、たいしたことではないのである。彼にとって重要なのは、里菜がなかなかかわいらしい女の子だということだけだ。
「じゃあさ、村の中じゃなくて、山のほうならいいだろう。今度、俺とデートしようぜ!すっごく景色のいいとこ、知ってんだ! あ、木の実がいっぱいなってるとこも教えてやるぜ!」
元気よく言ってから、ローイは、何か気がついたらしく付け加える。
「……そのう、デートって言っても、子連れでってことになっちまうかもしれないけど」
「えっ? 子供って、あなたの……?」
「やめてくれよ! 俺、子持ちに見える? 兄貴や姉貴の子だよ。俺さ、十二を頭に十二人の甥っこ、姪っこがいるの! いやんなっちゃうよな。鬼の兄嫁には、しょっちゅう赤ん坊のお守りをいいつけられるし、三人の姉貴はみんなこの村のなかで嫁にいってて、村の中、五分も歩けば、必ずいつのまにか甥っこか姪っこが俺にくっついてるんだよ。なにしろ俺は、この通り、優しいもんで、ガキに好かれちまってよ。今日ここに来るのにガキが一人もついて来なかったのだって、めずらしいことなんだ」
ローイは五人姉弟の末っ子で、幼い頃に母を亡くし、年の離れた姉たちに育てられたために、今でも姉たちには「あんたを育ててやったのは誰?」などと言われて、頭があがらない。そのうえ、今、彼は、第四子で長男である兄夫婦と同居しているのだが、その兄嫁まで、ローイよりそれほど年上でもないのに彼をまるで自分の息子のように思っているらしく、子供たちとひとくくりにして良く面倒を見てくれる一方、遠慮会釈もなく用事をいいつけるのである。
「あなたが子守りをさせられるのは、畑仕事を手伝わずにブラブラしてるからでしょ!」
ヴィーレは、鬼呼ばわりされた兄嫁のために、正しい指摘をした。
「うるせえ、ヴィーレ、お前、ちょっと黙ってろ! 邪魔すんなよ」
「何の邪魔よ」
「リーナちゃんをデートに誘うののだよ。な、リーナちゃん」
なれなれしい男である。
「俺さあ、あんたに一目惚れしちゃったよ。なんたってその黒い瞳がいいや。最高だよ。それに、その……」
なにやらベラベラ言い立てようとするローイを無視して、ヴィーレが里菜に囁いた。
「リーナ、ローイに騙されちゃだめよ。女の子なら誰にだって、おんなじこと言うんだから」
ローイは、それを聞きつけて叫んだ。
「なんだと、失礼な! おんなじことなんて言うもんか。ちゃんと、相手やその時の状況によって、毎回、言うことは変えている! 女の子を口説くには、創意工夫ってものが必要なんだぞ!」
(ヘンなひと……。すっごく、ヘン!)
里菜は、もう、あっけにとられて二人の応酬を聞いていた。
(でも、このふたり、なんだか、楽しそう……。ヴィーレって、ただただやさしい女の子かと思ったけど、けっこうポンポン言うんだ。もしかしてこのふたりって、すごく仲がいいんじゃないかしら)
里菜がふたりの言いあいに圧倒されているうちに、里菜とローイとのデートの件については、彼らふたりのあいだで勝手に合意ができたらしい。
「じゃあさ、リーナちゃん、今日はとにかくあんたの健康に障っちゃいけないから、またあらためて誘いにくるよ。お偉いアルファード大人に、あんたを勝手に連れ出したって後で文句いわれてもつまんないしさ。今度来たときは、絶対、一緒に、山、行こうぜ! 誰にも教えたことのないキノコの穴場にも特別に案内してやるから!」
(キノコの穴場だって……。こんなハデなカッコしてて、嬉しそうにキノコ採りの話だなんて……。ヘンだけど、おもしろい人)
初対面の相手にはなかなか打ち解けない彼女だが、いつのまにか、この素っ頓狂な若者に好意をもちはじめたことに、気づいていた。
友達になりたい。そう、思った。
その気持を込めて、
「うん!」と答え、里菜は彼に笑いかけたのだった。
そうしながら、里菜は、自分で驚いていた。
(あたし、ここで、この世界でなら、こんなに自然に、あたりまえのように微笑むことができる)
それは、大きな発見だった。ここでは、自分は、こんなふうに、知らない人に笑いかけることができるのだ。友達になりたいと思えるのだ。この国にも嫌な人もいるのかもしれないけれど、少なくとも自分は、ここでは、自分の思うままに自然に微笑むことが許されるのだ――。
『あちら』では、すべてが里菜を傷つけた。息をするたびに、空気は火のように肺を焼き、歩くたびに、陸に上がった人魚姫のように、足は見えない血を流した。あらゆる人の言葉が刃物のように心を切り裂き、その痛みを隠すために、ゆがんだ薄笑いを仮面のように顔に貼りつかせて、里菜は、生きてきた。
(きっと、あたしは、醜かっただろうな)と、遠い痛みと新しい喜びを感じながら、里菜は思う。
(でも、ここでなら、あたし、きっと、ずっとほんとはなりたかったように、素直に、やさしくなれる――)
「や、はじめて、俺に笑ってくれた……」
彼は、ひどく眩しげに里菜を見て、さっきまでの軽薄な口調とは微妙に違う、はにかんだような、どこか朴訥でさえある調子で、そっと言った。
「うん、すっごく、いいよ。かわいいよ……」
それから、もとの口調にもどって、元気よく叫んだ。
「ホント、また近いうちにくるから、それまで、この、村一番の色男、ローイ様のことを忘れないでいてくれよな! じゃ!」
そして、里菜にむかって大げさな仕草で投げキッスをして(それがこの世界では普通の習慣というわけではないのはヴィーレのあきれ顔を見れば明らかだった)、極彩色のかかしは出ていったのである。
(ヘンよ、ヘン! やっぱり、絶対、ヘン! 信じらんない……)
呆れて見送る里菜の耳に、また、あのおかしな歌が聞こえてきた。
「おーれーはァ村中でェーいっちばーん、モボだーとー言っわれーたァおっとこォー」
それを聞いて、ヴィーレが、また、言った。
「いやあねえ、ほんと。ヘンな歌、大声で歌って歩いて。彼がいうには、彼のテーマソングなんですってよ。リーナ、この村の人がみんなあんなふうだなんて思わないでね。あれは、村で一番、ううん、たぶん、この国で一番、ヘンなやつなのよ!」
では、里菜は大声で歌う必要は無いのだ。
(ああ、よかった)と、里菜は胸を撫で下ろした。