第五章<水底の夢>第四場(1)
祭りの晴れ着に身を包んだ村人たちの行列が、笑いさざめきながら、女神の淵に続くゆるい坂道をゆっくりと登っていく。ちょうど一年前、アルファードが、気を失っているびしょぬれの里菜を抱いて下った道だ。
麦の穂と花冠を手に行列の先頭を行くのは、銅色の髪の小さな司祭ティーティ。その後ろに里菜とアルファード、ユーリオン、キャテルニーカ、そして、女神に供える果物と野菜のカゴを捧げた世話役が続く。
その後ろには、思い思いに着飾った娘たち、若者たち、楽しげに言葉を交わしながら歩く大人たち、老人たち、そのまわりを跳び回る子供たち。みんな、手に手に、ごちそうの入った鍋やカゴ、皿や紙包み、酒の入った壷や皮袋などを持っている。
祭りの二日目の、よく晴れた秋の朝。
彼らはこれから、女神の祠での祭りの儀式に参列し、そのまま場所を移して、羊が草を食べ尽くした後で今は休ませてある山のまきばでの宴会に入る。会場は、自警団の若者たちが、すでに朝早くから出掛けてしつらえてきてある。
去年は司祭の死によって中止され、喪の宴になりかわってしまった、<女神の見送り>の宴会である。ただでさえ、みな、今年こそ何時にも増して賑やかに宴を催さずには置くものかと意気盛んだったところに、アルファードと里菜が祭りに間に合うように帰還する――しかも<長老>ユーリオンが一緒である――という知らせを受けて、これはもう今までにないほど盛大な宴会を開く他はないと、村人たちは何日も前から張り切って準備を進めていたのだ。
宴の後、里菜とアルファードは、そこからそのまま、エレオドラ山に登る。
彼らが結界を越えて、二度と戻って来ないことを、みんな、もう知っているから、この行列には、祭りのうきうきした空気と一緒に一抹の寂しさも漂っている。今年の祭りは、いつもの収穫の祭りであるだけでなく、里菜たちの送別の宴でもあるのだ。けれども誰もそのことを口には出さず、それを忘れるように、ことさらにはしゃいでいる。
里菜たち一行が村についたのは、前日の午後のことだった。
むろん、到着のおおよそのころあいは事前に手紙で知らせてあり、村では何日も前からそわそわと、自分たちの英雄の帰還を心待ちにしていたし、到着の直前にはローイが馬を飛ばして先触れとして村に入っていたので、彼らが村にたどり着いた時には、世話役たちを始め、多くの村人たちが村の入口にずらりとならんで出迎えてくれた。
ヴィーレもいた。ティーティもいた。自警団の若者たちもいた。パン屋のおかみさんもいたし、あのオード老もいた。
その日は折しも祭りの一日目、<女神のお迎え>の饗宴の宵である。今年はそれにアルファードと里菜の凱旋祝賀会と、ユーリオンの歓迎会が重なったわけだ。一行は、そのまま広場に案内され、祭りの宴を兼ねた歓迎の饗応を受けることになった。村の入口で出迎えてくれた村人たちは、広場までぞろぞろと後をついてきたし、道々、付近の家から続々と村人が出てきて、行列に加わった。ちょうど、去年の冬の初めに里菜とアルファードが村を出た時と同じことが、道筋を逆にして起こっているかのようだった。
静かな村は、この日、前代未聞の興奮に沸き返っていた。一年前に見送ったふたりの、国家的な英雄となっての帰郷はもちろん大事件だったし、その上、ユーリオンが<長老>になったことは事前の手紙で知らされていたので、こんなひなびた村の祭りのために<長老>がじきじきに来て下さるとは、と、世話役たちは大感激で、下へも置かぬ恭しいもてなしぶりだ。しかも、同行の、目を見張るような美少女が、妖精の女王の直系であり<魂の癒し手>であると聞いて、その有難さにみんなすっかり舞い上がり、ほんの子供を相手に、滑稽なほどのかしこまりぶりである。
それに、ユーリオンについては、<長老>であろうとなかろうと、どっちみち、彼が来るというだけで村は大騒ぎになっただろう。村の若い主婦たちは、今でも、かつて自分が娘だったころに村を訪れた彼の思い出を、半ば伝説のように共通して胸に抱いていて、世話役が彼に手紙を出して以来、彼女たちの井戸端会議は、ひさびさに持ち出されたユーリオンの話題で持ち切りだったのだ。
里菜は、一行の行く先々で、今では母となった当時の乙女たちが、あるいは赤ん坊を背負い、あるいは何人もの子供の手を引いて、自分たちの若き日のあこがれの王子様の再来を一目見ようと見物に立ち並んでいるのを見て、唖然とした。彼が以前にも村を訪れていたことや、その時に村の娘たちの人気を独り占めしたことはアルファードから聞いていたが、彼の来訪が村の主婦たちの間にこれほどの波紋を広げるとは想像もできなかったのだ。
「アルファード、リオン様の若いころって、そんなにカッコよかったの?」
里菜がひそひそ囁くと、アルファードは笑って答えた。
「ああ、俺は遠くからちらりと見ただけだったが、確かに、遠目に見てもぱっと目立つようなすらっとした美青年だったし、なにしろ村の男はたいがいが野暮ったい武骨者ばかりだから、彼の垢抜けぶりがなおさら目だったらしい」
「うーん、なるほどね……」
里菜も何人かは顔を見知っている、日頃はたくましく堅実な主婦たちが、すっかり夢見る少女の顔に戻って瞳を輝かせ、頬を染めてユーリオンにうっとりとしたまなざしを注ぐのを、里菜は不思議なものを見るように眺め渡した。
広場について、世話役の挨拶が終わるやいなや、里菜とアルファードの回りには自警団の若者や娘たちがわっと群がってきて、ふたりを誉めたたえると同時に、お留守番の上首尾を親にほめてもらいたがる子供のように、アルファードがいない間の自分たちの働きぶりを口々に報告しはじめた。
「あんたがいない間、こっちも結構大変だったんだぜ。ドラゴンはやたらと飛んでくるしさあ」
「でも、俺たち、ちゃんと役目を果たしたぜ」
「ミナトがさあ、ミナトが、すごかったんだよ!」
「そうそう! あんたがいなくなってから、ミナトが仕留め役やってさ、もう、三匹もドラゴンをやっつけたんだ」
「何しろ、女の子がドラゴンをビシバシ退治してるとあって、これはもう、アルファードよか話題性あるから、近隣じゃ大評判だ。女の子たちなんか、みんなキャーキャーいってさ、この近辺の自警団じゃ、どこも女の入団が急に増えたらしいぞ。ローイ、お前、帰って来たからには、ミナトの活躍を讃える歌でも作ってやってくれよ」
「おう、『ドラゴン退治のミナト』ってな! まかしとけ! 俺がイルベッザにまで届くほど、その名を広めてやるぜ」と、ローイが叫ぶと、
「やだあ、そんな、恥ずかしい」と、ミナトは、頬に手を当てて羞らうそぶりをみせながらも、「でも、どうせなら、タイトルは『美わしのミナト』のほうがいいわ!」と、ちゃっかり付け加えたので、若者たちは、どっと笑った。
「おお、そりゃあ素晴らしい! それでいこう、それで!」
「でも、ほんと、ミナトって、そういえば、よく見ると結構美人だよな」
「そうよ、ミナトは美人よ。あんた、今頃、気がついたの?」
「おい、カーデ、今から惚れても、もう遅いぞ! ミナトはもう婚約したんだからな!」
「そうなのよ、アルファード! ミナトとフィードは婚約したの! 嫁入り道具にドラゴンの爪を持っていく女の子なんて、他にいないわよ。ねっ、ミナト」
フィードというのは、いつか宴会でミナトに抱き付かれていた、あのおとなしそうな若者だった。若者たちが、後ろのほうにいた彼を前に引っ張り出し、娘たちはミナトを引っ張ってきて、ふたりを並ばせ、みんなして、真っ赤になっているふたりを両側から押してむりやりくっつけながら、口々にはやしたてたのだった。
<女神のお迎え>の宴会は、例年通り徹夜で続いたらしいが、長旅に疲れた旅人たちは――宴会となればいつでも元気いっぱいのローイを除いて――適当な時間に席を辞した。ユーリオンとキャテルニーカは世話役の家に滞在してもてなしを受けることになっていたが、里菜たちは、もちろん、なつかしいあの家に戻った。ふたりは、元の世界に帰る前に短い時間でも自分たちの家で過ごしたかったのだ。
家に引き揚げる時、ふたりは、ヴィーレを誘った。村に帰ってくるなり、身近な人たちだけでしみじみ再開を喜び合ったりする暇もなく宴会に入り、その宴会でもふたりは賓客扱いで上座に座らされ、一方のヴィーレは接待側に回って忙しく立ち働いていて、ろくに顔も合わせられなかったのである。里菜とアルファードは、ずっと、なんとかヴィーレと語り合う機会を作りたいと思っていたのだ。幸いヴィーレも、一緒に抜け出してくることができた。
といって、彼らに、ヴィーレに何を話そうという心積もりがあったわけでもなかった。ただ、かつてのように、ヴィーレと三人で、しばらく静かな時を過ごしたかったのだ。ふたりが今はもう恋人同士だということは、すでにローイが彼女に話しているはずだった。が、そのことについて、ヴィーレに何を言っていいか、ふたりとも、見当がつかなかった。でも、きっとヴィーレは、別に何も言わなくても解ってくれるだろうと、解ってくれた上でひととき一緒に穏やかな時を過ごしてくれるだろうと、ふたりは信じていた。
アルファードの家は、ふたりが旅立った時のまま、少しも変わっていなかった。いや、むしろ、前より少しきれいになっていたかもしれない。ヴィーレは、アルファードの家をきちんと整頓して風を通し、寝具も整えて、いつでも使えるようにしてくれていたのだ。
彼らは、以前によくそうしたように、三人で食後のお茶を飲んだ。そうしていると、まるでこの一年の出来事はみんな夢で、去年に戻ったような気がした。前と違うのは、ミュシカがいないことくらいだ。ミュシカは新しい飼い主のシャーノ少年にもよくなつき、村になくてはならぬ優秀な牧羊犬として大切にされ、活躍しているということだ。
アルファードとミュシカは、昼間、村の広場で再会を果たした。ミュシカはもちろんアルファードを覚えていた。が、別の世界に帰るアルファードは、すぐにまた、ミュシカと別れなければならない。アルファードはしばらく屈み込み、ミュシカの首のあたりや耳の後ろを無言でごしごしと掻き続けていた。けれど後でアルファードは里菜にこう言った。
「俺とミュシカは、絶対、また会えると思うんだ。そんな気がする。今は別々の世界に別れても、いつか、きっと、また会える」
お茶の間中、里菜とアルファードは、旅の途中や都での、たあいのない出来事だけを話し、ヴィーレはふたりがいないあいだの村の出来事のあれこれを話した。
ヴィーレは、ふたりが思っていたとおり、里菜とアルファードの関係については何も問わなかった。彼女のほうでも、そのことについて何を言ったらいいか、わからなかったのだ。彼らが互いの気持ちを確かめ合ったことはローイから聞いていたが、ふたりが明日、別の世界に行ってしまうことも、そうするとたぶん別々になってしまって二度と巡り会えないかもしれないこともローイに聞いて知っていたから、ヴィーレは、何も言えなかった。
しばらく他愛のない話だけをして、ヴィーレは帰ってゆき、里菜とアルファードは、なつかしい思い出がつまった小さな家で、この世界での最後の夜を、祭りのざわめきを遠く聞きながら二人きりで過ごした。
そして一夜が明けた黄金色の秋の朝。
村は早くから目覚めて、祭りの熱気に包まれていた。誰もが忙しく立ち働き、あちこちの家から、前日の分と合わせて何日も前から用意を始めていた祭りのごちそうの最後の仕上げのいい匂いが漂い、実際には仕事をしていないものまで何だかあわただしげに走り回り、人々のざわめきにつられて犬たちまで興奮して吠えたてる。
そんな騒ぎの後、祭りの行列は、女神の淵へと出発したのだった。