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第四章<荒野の幻影>第八場(2)

 アルファードの呼び声を遠く聞きながら、里菜はもがき苦しみ続けた。

 手首の傷痕が、燃えるように熱い。身体中が、引き裂かれるように痛む。

 苦しい。もう、身体のどこが痛いのか、そもそも痛いのは心なのか身体なのかさえ区別もつかないほど膨れ上がった大きな苦痛が、全身を駆け回って里菜を苦しめたあげく、吐き気となって込み上げようとする。

 里菜の中に、今、魔王の――男神タナートの記憶が、想いが、奔流のように流れ込んでいた。

 決して触れ合うことの叶わぬ光に焦がれて呻吟し続けた男神タナートの苦しみ。アルファードの死を受け入れることを拒んで世界の秩序を裏切った女神エレオドリーナの古い罪。エレオドリーナの裏切りゆえに心を狂わせて<魔王>となったタナートの絶望と憎しみ――。

 遠い昔から地層のように幾層も積み重ねられて渾然と混ざり合い、タナートを苛み続けた永い痛みの記憶が、里菜の体内を、激しく吹き荒れる。

 今にも、この、古い古い悲しみの嵐が、身体を突き破って解き放たれてしまいそうだった。そうすれば、里菜の身うちから溢れ出た闇が、世界を覆い尽くしてしまうだろう。

 自分の中で、今、激しい戦いが起こっている。

 怖かった。どこへでもいいから、逃げ出してしまいたかった。誰かが押えていてくれないと、このまま世界の果てに向かってやみくもに駆け出して、暗い宇宙の深淵に身を投げてしまいそうだった。

 気がつくと、遠くで、ずっと、自分を呼ぶ声がしている。誰かの、暖かい強い腕が、自分の身体を抱き締めている。里菜は夢中で、その腕に、爪を立てるほどにすがりついた。そうしていないと、自分の身体が、精神が、ばらばらに砕け散ってしまうかと思われた。

 永遠に続くかに思われたその苦しみは、けれどもやがて、ゆっくりと収束に向かった。

 ぶつかりあっていたふたつの力がひとつになり、自分の中に、何か新しいものが生れ出ようとしている。里菜の意識が、宙の高みに漂っているように、それを外から眺めている。

 里菜は今、宇宙の始まりを、逆回しで見ていた。

 すべての光が、ひとところに収斂し、劫初の混沌の底知れぬ淵に吸い込まれていく。混沌が――あらゆる光を孕んだ永遠の闇が、里菜の中心に渦巻いている。

 その、混沌の渦の上に、ふたつの人影が浮び上がった。

 それは、手を携えあって立つ、女神エレオドリーナと男神タナートの、神代の頃の姿だった。

 タナートは、もはや、顔のない<魔王>ではなく、死と闇、夜と安息を司る、厳格にして公正なるもの――夜のような黒髪、黒い瞳、月光のように白い肌、端麗な面差しの、丈高く力強く美しい黒衣の男神という本来の姿に立ち返り、その黒衣には、幾千の星々がちりばめられて輝いていた。

 静謐な気配を纏った男神タナートが、里菜の胸の奥で、最後に囁いた。

『エレオドリーナ。これでまた、ひとつになれた……』

 それは、満ち足りた、穏やかな想いだった。

 里菜は今、<魔王>を――タナートを、そのうちに収めたのだ。

 光輝く青い衣を纏ってタナートの隣に立つ生命の女神エレオドリーナは、太陽のような、麦の穂のような黄金色の、ゆるやかに波打つ髪に、やわらかく澄んだ青空の色の夢見るような瞳を持ち、やはり丈高く力に満ちた、堂々たる女人の姿をしていた。花冠を戴き、麦の穂を手にした女神は、その美しい顔に母のような慈愛に溢れる微笑みを浮べて、里菜にやさしく頷きかけた。

 二柱の兄妹神は、顔を見合わせて穏やかに微笑みあい、手を取りあって、母なる混沌の中に還っていった――。


   *


 アルファードの腕の中で暴れていた里菜の身体が、急に動かなくなった。それまでこわばってひきつっていた手足が、ぐったりと垂れ、宙をさまよっていた瞳が閉ざされる。

「……リーナ?」

 突然の静寂に不安になったアルファードが里菜の顔を覗き込むと、里菜はぽっかりと目を開いて、穏やかに微笑んだ。

「アルファード……。ありがとう」

 アルファードは、里菜の額の汗を手で拭って微笑みを返し、里菜がふらふらと立ち上がろうとするのを助けた。

 アルファードの腕にすがって立ち上がった里菜は、塔が消えた後の荒野を見はるかしながら、静かに告げた。

「魔王は、あたしの中に還ってきたわ。そして、母なる混沌も、あたしの中に……」

「そうか……。リーナ。君は、勝ったんだね」

 アルファードはそっと里菜の左手を取って、不器用に身をかがめ、手首の傷痕に軽く唇を触れた。

 びっくりして目を丸くした里菜に向かって、アルファードは、照れたように笑んで短く説明した。

「封印だ」

「そっか、アルファード、もう、魔法が使えるのよね。さっきも魔法の結界であたしを助けてくれたでしょ。ありがとう」

「いや、礼を言うのは俺の方だ。君が、俺を救ってくれたんだ」

「アルファード、あなたも勝ったのね」

「ああ」

 里菜はアルファードにほほえみかけ、それから、ふと落とした視線をアルファードのからっぽの剣帯に留めて訊ねた。

「アルファード、剣は?」

「ああ、どうやら、魔王の城が消えた時、一緒に消えてしまったらしい。でも、別に、もう、いいんだ」

「えっ、でも……。あんなに大事にしてて、いつも持ち歩いてたのに……」

「いや、本当に、もういいんだ。もう、剣は要らない。戦いは終わったし、それに……」

 アルファードはちょっと言い淀んでから続けた。

「力は、もう、自分のうちに在るから」

 言ってしまってから、アルファードは、自分の言葉に照れて、ちょっと笑った。

 それからアルファードは剣帯を外して、地面に膝をつき、捧げ持った剣帯を、剣の身代わりに砂に横たえると、女神に祈る時にするように胸に手を当てて頭を垂れ、これまで自分の身を守り心を支えてくれてきた愛用の剣に、声に出さずに感謝の祈りを捧げた。

 無言の別れを済ませて立ち上がったアルファードがかたわらの里菜を振り返ると、里菜は、何千年分もの叡智を宿したような、奇妙に大人びたまなざしでやさしく彼を見上げ、不思議な微笑みを浮べた。

 それは、すべてを受け入れ、包み込む、女神の笑みだった。目の前のちっぽけな少女の後ろに、金色の光に包まれた丈高い女神の姿を、一瞬、見たような気がして、アルファードは目をしばたたいた。

 けれどもそれは、ほんとうに一瞬のことで、里菜はまた、小さなあどけない少女に戻って、はにかんだように顔を伏せた。

 ふたりはしばらく、無言で並び立って、それまで塔があったはずの場所を――草一本生えていない荒れ果てたむき出しの大地を、眺めていた。

「……寒い」

 しばらくして、里菜がぽつりと呟いた。

 ドラゴンの息と魔王の憎しみがもたらしていた熱が消えた今、荒野は急速に冷え込み始め、気温は、この土地の本来の気候にまで下がっていこうとしていた。

 ふたりが脱ぎ捨てたマントは、城が消えた時に、アルファードの剣や他の荷物と一緒に消えてしまっていた。里菜のワンピースは、赤ん坊ドラゴンから逃げ回った時に転んだりひっかけたり爪で裂かれたりして、裾がぼろぼろだったし、アルファードに至っては、上半身、裸だ。

 里菜はぶるっと震えて、両腕で我が身を抱きしめた。

 アルファードは、ふと微笑んで、おもむろに両手を上に向けて差し上げた。

 その掌の上に、しゃぼん球のような丸い結界に包まれた小さな炎が浮んだ。暖かにゆらめく炎の球を、アルファードはそっと両手に包んで、里菜に差し出した。

 両手で受け取った炎をためつすがめつ眺めながら、

「アルファード、こんなこともできるようになったんだ……。すごぉい」と、里菜が感心すると、アルファードは面映おもはゆそうに、

「ああ」と、頷いた。

 暖かな色合いの小さな炎は、掌の上に浮びながら静かに踊り、そのぬくもりが、すぐに里菜の全身に広がっていった。

 うっとりと炎を見つめている里菜の手の上から、アルファードが、そっと炎の球を掬いとって、頭上に浮べた。思わず目で炎を追って仰向いた里菜を、アルファードが引き寄せて、里菜の唇に、そっと唇を重ねた。

 軽く触れるような短いくちづけの後、里菜はうつむいて、アルファードの胸に顔を埋めた。顔を上げるのが恥ずかしかったし、何か言うのも恥ずかしかった。

 けれども、アルファードが何も言わないので、そのまま黙っているのも気まずい気がして、顔を伏せたまま、照れ隠しに囁いた。

「……アルファード。これも、何かの魔法なの?」

「そうかも知れない。人を愛することが、女神の魔法であるのなら」

 かすかに笑みを含んだ静かな声でアルファードは答え、里菜をふたたび仰向かせると、もう一度、静かに唇を重ねた。それは不器用で暖かい、生命のぬくもりだった。

 唇を離して、ふたりは一瞬、見つめあった。

「アルファード。生命の光、生命の闇……。あなたを、愛している」

 里菜が囁くと、アルファードは黙って里菜を強く抱き寄せた。ふたりの頭上で、丸い結界に包まれた小さな炎が、生命そのもののように、静かに暖かく燃え続けていた。

 しばらくして、また沈黙に耐えられなくなった里菜は、アルファードの腕の中で、小さく笑って呟いた。

「アルファード。水を汲みにいかないの?」

「ああ」と、アルファードも照れくさそうに笑って答えた。

「あの時は、逃げたりして済まなかった。その……。どうしていいか、分からなかったんだ。でも、今は、水を汲みに行く必要はなさそうだ。水なら、ほら……」

 そう言ってアルファードは、里菜の肩をやさしく押しやり、顔を上げた里菜に、片手を上げてかたわらを差し示した。

 その指の先を、ひとひらの雪が舞い落ちてゆくところだった。

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