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第四章<荒野の幻影>第六場(2)

 石の床に倒れて、腕をついて上体だけを起こした姿勢のまま、里菜はアルファードに呼びかけ続けていた。その里菜の胸の奥に、ついに、アルファードの応えが届いた。それは、はっきりと言葉になったものではなかったが、里菜は、自分の思いがアルファードに通じたことを確信した。

(もう大丈夫。アルファードは生きている、戦っている……)

 里菜は涙を拭いてぺたんと床に座り直し、かすかな微笑みを浮かべた。

(それなら、アルファードは、きっと、ここまで来てくれる。だって、約束したもの。必ず後から来てくれるって……)

 そんな里菜を冷ややかに見下ろしていた魔王が、つかつかと歩み寄り、里菜の腕を取って立ち上がらせた。

 自分の腕を掴んだ魔王のその手が、いつのまにか、はっきりと実体のあるものに変わっているのに、里菜は気づかなかった。

 完璧な造形を持つ、その美しい白い手は、たしかに実在するのだが、それでもあいかわらず、不思議と肉体の気配がなかった。

「エレオドリーナよ。今のそなたに、そのような力があるとは思ってもみなかった。そしてあの羊飼いも、思ったより手強かったようだ。そなたらは、ふたりして、私のドラゴンの術を破ってしまった。あの男は、ドラゴンを斃すだろう。まさかこんなことになるとは思わなかったが、まあ、よい。どのみち彼女は、死ぬつもりだったのだ……」

 こう語りかける魔王の言葉が、今や、それまでのように魂に直接響くだけではなく、耳に聞こえる音を持っていることにも、里菜は気づかなかった。うっかりと魔王の言葉を聞き、フードの下の闇に見つめられているうちに、里菜はいつのまにか、また、魔王に呪縛されてしまっていたのだ。

 魔王の背中の大鎌が、氷のような輝きを増す。

 耳に聞こえる魔王の声は、やはり、それまでのものと同様に、昏く、深く、美しく、里菜の心を揺さぶった。

 再び里菜を手中に収めた魔王は、つと腕を伸ばして、その形の良い長い指を里菜の頬にそっと滑らせ、やさしいとさえ感じられる動作で涙の跡を拭ってやりながら語り続けた。

「彼女はすでに、長い生に飽いていた。さっき孵った卵たちは、彼女の最後の卵だったのだ」

(でも、全部、雄だったわ……)

 里菜は、また声を失っていたが、そのことに気づきもせずに胸の内で呟いた。

「そうだ」と、魔王は答えた。

「だが、そなたは気づかなかっただろうが、ひとつだけ孵らなかった卵が残っていた。それが、雌ドラゴン――新しい女王の卵のはずだったのだ。しかし、新しい女王は、生まれなかった。おそらくドラゴンの種族自体が、すでにその寿命を終えようとしているのだろう。私はこの地上で最も完成された生き物を創り出そうとしたのだが、どうやら、完成などというものは、この地上では望めないものなのだな。あまりにも個体の知能が高すぎ、寿命が長すぎる生物は、種族としての生命力を長くは維持できないらしい。生命の女王たるそなたの手を煩わせずに新しい種族を創造するのは、やはり、無理だったようだ。愛しい妹よ、やはり我等は、手を携えてゆかねばならぬのだよ……」

 魔王の冷たい指が、里菜の髪を撫で、耳たぶの形をそっとなぞった。

「妹よ、双子の妹よ、私の半身よ。我等は、その誕生の時から、分かち難く結び付いている。私を拒むのは間違っている。我等は、同じ母から生れた一つの存在のふたつの側面、もとは一体だったものの片割れ同士だ。だから、こうして、互いに呼びあい、求めあうのだ。……いや、否定しても無駄だ。言葉など、上面だけのもの。心の底で、そなたは、間違いなく、私に惹かれている。私を、求めている。我等ふたりが遠く離れて存在することは、不自然なのだ……」

 魔王の言葉は、しだいに昏い熱を帯びて妖しく燃え上がり、秘めやかな愛撫のように、拒み難く里菜の心に忍び込んでゆく。

「妹よ、かつて我等は、ひとつだった。母なる混沌の胎内で、我等は境い目もなく溶けあって、まどろんでいた。そなたも心の底では、私と同じように、あの至福の時を忘れられずにいるはずだ。もう一度、我等の母を呼び戻し、あの美しい永遠の眠りを取り戻そう。もう一度、ひとつになろう……」

 魔王はふうわりと包み込むように里菜を抱き寄せて、静かな囁きを甘い毒のように耳朶に注ぎ込んだ。

 魔王に抱き寄せられながら、かすかに残った意識の中で、里菜は思った。

 今、自分を抱き寄せているこの人は、たしかに、ちゃんと人間の形をした身体を持っている。前はそうではなかった気がするのだけれど、そう思ったのは、あれは夢だったのかしら……。

 力強い腕に引き寄せられ、広い胸に身をあずけながら、ふと、気づく。否応無しに頬を押し付けられるほど身を寄せているその胸が、そんなに間近にあって、確かな感触を備えていながらも、肌のぬくもりを、心臓の鼓動を、一切伝えてこないことに。

 こんなに、抗うことも出来ないくらい強くしっかりと抱きしめられて、まるで大きな繭の中に閉じ込められているみたいに誰かの衣の中に全身をすっぽりと包み込まれているのに、どうして、ちっとも温かくないんだろう……。ああ、そうか、今、自分を包むこの腕には体温がなく、今、なすすべもなく顔を埋めている黒衣の下の胸には、心臓の鼓動がないんだ……。

 いつだったか、誰か別の人に、こんな風に抱き寄せられたことがある。誰か、こんな風に抱きしめてくれた人がいる。その人の胸は、温かった。心臓が脈打っていた。あれは、誰だったんだろう――。まるで、目が覚めた後の夢のよう。さっきまで覚えていたはずなのに、思い出せない。

 忘れたくないのに。ずっと繋ぎ止めておきたい大切な夢だったはずなのに……。

 淡い悲しみが心をよぎった。

 けれど、それは一瞬だった。次の瞬間、里菜の意識は魔王の囁きに絡め取られていた。

 心が、眩い闇の底へと堕ちてゆく。

 里菜のうつろな瞳に、陶酔の色が、ゆっくりと広がっていった。

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