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第四章<荒野の幻影>第六場(1)

 魔王の腕の中で、里菜は、脳裏の闇に映るアルファードの姿を見つめていた。

 全身に傷を負って、捨てられたボロきれのように地面に倒れ伏すアルファードは、まるで死んでいるかに見えたが、よく見れば、その身体は、ときおり、引き攣ったようにぴくりと動く。じっと見ていると、熟睡している獣がよくそうなるように、あちこちの筋肉がときおり小刻みに痙攣しているのもわかる。

(アルファードは、生きている……)

 かすかな安堵と、新たな不安が生まれる。

 アルファードは、意識を失っているのだろうか。それとも、意識があってももう身動きできないほど衰弱しきっているのだろうか。

 よく見れば、服は真っ赤に染まっていても身体の下に血溜まりはなく、肌を切り裂いて縦横に走る傷も、むごたらしく痛々しくはあるが、どれもそれほど深くはないようだ。が、この角度からは見えないところに、動くこともできないほどの深手を負っているのかもしれない……。

 里菜は、今にもドラゴンが傷ついたアルファードに襲い掛り、引き裂こうとするのではないかと怯えたが、ドラゴンの九本の首は、それぞれ、満足げな薄笑いとしか見えない邪な表情を浮かべて、いつまでもゆらゆらとくねりながらアルファードを取り巻いているだけだ。それはまるで、彼に何か語りかけているようにも見える。そういえばあのドラゴンは口がきけるのだから、ここからは向こうの音を聞けないだけで、もしかすると実際に何か言っているのかもしれない。

(アルファード……。アルファード、目を覚まして!)

 里菜は、さっきまで自分にあんなに圧倒的な支配力を及ぼしていた魔王の存在さえ忘れかけるほど懸命に祈り、声にならない声でアルファードに呼びかけた。

 ふいにアルファードが、かすかに身じろぎして、腕の間から、床に額を押しつけた横顔が覗いた。その、固く閉ざされたまぶたから、涙がとめどなく溢れ出して地面を濡らしていることに、里菜は気づいた。

『呼んでも無駄だ。今のあの男には、どんな叫びも届きはしない。ただ、ドラゴンが聞かせる自らの魂の昏い声の他には……』

 里菜の背後で、魔王が笑いながら囁いた。

 けれど里菜は、ただ、夢中でアルファードに呼びかけ続けた。

(アルファード! アルファード!)

 アルファードは起き上がらず、ただ、涙を流し続けていた。まるで、今までの人生で泣かずに過ごした分のすべての涙を、今、一度に流しているようだった。

 魔王の掌の下でうつろに開いたままの里菜の目からも、涙が零れて頬を伝った。

 その時、里菜の胸の奥に、アルファードの声が届いた。けれどそれは、里菜の呼びかけに応えるものではなかった。それは、彼の生命の暗い奥底から漏れてくる、苦渋に満ちた魂の呻きだった。

(そう、誰も俺を愛さない。世界は俺を必要としない。俺を受け入れはしない。俺は、罪人だ。愚かで弱い男だ。誰にも愛される価値のない、誰にも必要とされない、要らない人間だ……)

 アルファードの絶望が、里菜の胸を締めつけた。

「違う、アルファード! そんなことない!」

 気がつくと里菜は、声を出して叫んでいた。魔王の呪縛が、破れかけている。

『呼んでも無駄だ』

 魔王の冷たい言葉に、かすかな苛立ちとあせりが忍び込んだ。

 魔王の掌の下で、里菜の瞳に輝きが戻り始めた。

 里菜は魔王の腕を振り解こうともがきながら、涙を流してアルファードを呼び続けた。

「アルファード、あなたは要らなくなんか、ない! もしも世界の他の人が誰もあなたを必要としなくても、少なくともあたしには、あなたが必要なの。あなたがいないと嫌なの。信じて、アルファード、愛してる! あなたを、愛してる!」

 けれど、魔王の呪縛が緩むと同時に、魔王が里菜に見せていたアルファードの映像が薄れ始めた。里菜は、霞んで消えていこうとするアルファードの映像に呼びかけ続けた。

 魔王が里菜の目から手を離した。映像は消えた。けれど里菜は、まだ、脳裏に残るアルファードの残像に向かって叫び続けた。

『無駄だと言っておろう!』

 暴れて駆け出そうとする里菜を背後から引き止めながら、魔王は、今や明らかに苛立ちを見せ始めていた。

『暴れるな。そなたに手荒なことはしたくない。なぜ、そなたは、あんな取るに足らぬ無様な男を、そうまで心にかけるのだ!』

 魔王の言葉は、もう、里菜の心に届かず、里菜は魔王の腕の中で激しくもがき、涙を流して叫び続けた。

「アルファード! 聞いて! あなたを、愛してる」

 ふいに魔王が、あきらめたように、暴れる里菜から手を離した。勢い余った里菜は、つんのめるように床に倒れ込んだ。それでも、床に手をついて半身を起こすと、そのまま、叫び続けた。

「アルファード、眼を覚まして! ここへ来て!」

 魔王は何も言わず、昏い怒りの気配を纏って、里菜を見下ろしていた。


  *  


 子守歌を聞きながら、アルファードは、半ば夢心地で、緩慢な死を待っていた。

 忍び寄る死は、もはや苦痛でも恐怖でもなかった。

 幼いころ、彼が熱を出すたびに、母が食事をベッドまで持ってきて、スプーンで一口づつ食べさせてくれた。彼は、ベッドの中で、ドアに近づいてくる足音に聞き耳をたてながら、寝たふりをして母を待った。それは、甘美な期待に満ちたひとときだった。

 今にして思えば、もしかすると母はそれを、愛情からではなく、良い母というものはそうするものだと言う義務感からしていたのかもしれない。それでも、跡取り息子として常にしっかりした大人びた振る舞いを求められ続け、その期待に応え続けていた彼が、年相応の甘えた顔を母に見せられるのは、たぶん、そんな時くらいだったのだ。その時だけは、母は彼に、『しっかりした優等生』ではなく『可哀想な病気の子供』の役割を求めているのだということ、今なら甘えても許してもらえるのだということを、彼は、子供心にちゃんと理解していたから。

 少し大きくなってからも、彼が、どこも悪くないのにしばしば体調を崩していたのは、もしかすると、幼い日の、そんな思い出が忘れられなかったからかもなのかもしれない。伏せっていれば、もう一度、あんな夢のような時間が訪れるのではないかと、自分でも気づかないうちに、密かに期待していたのかもしれない。彼にとって、母に甘えることができた病床の時間は、それほど甘美な思い出だったのだ。

 今、近づいてくる死の足音を待っているのは、まるで、そんな幼い日の思い出の中の母の足音を待っているような気持ちだった。

(ああ、俺は、ここで死ぬのか。けれど、もしかすると、俺がずっと本当に求めていたのは、この瞬間ではなかったか――)

 彼は、ぼんやりと思った。

(俺は、これまで、いつも最善を尽くしてきた。けれど、たぶん、本当はもうずっと前から、戦い続けることに疲れていたんじゃないか。けれど、全力も尽くさず、理由もなく途中で努力を放棄することを自分で許せなかったから――、だから、心のどこかで、いつも、最善を尽くしても勝てない時が来るのを待ち望んでいたんじゃなかったか。

 そして、今、俺は、戦って死ぬための正当な理由を得て、その上で、ついに、死力を尽くしても勝てない強大な敵と巡り合った。今、俺は、それが誰かは思い出せないけれど大切な『誰か』を守るために、全力で戦った末に死ぬことができる。だから、そのご褒美に、こんな甘美な死が与えられることになったのではないか。こうして、母の胸に還るように死んでゆくことが出来るのではないか。これこそが、俺がずっと本当に望んでいたことではなかったか――。

 そうだ、俺は、ずっと、死に場所を探していたのだ。そして、今、やっと、それが与えられた――)

 その時、うずくまるアルファードの胸に、かすかな声が響いた。

『……いしてる。愛してる。アルファード、愛してる!』

(……リーナ?)

 誰のことか分からないひとつの名前を、彼の心が、ぼんやりと呟いた。

 アルファードの意識に、わずかな光が差し込み、その指が、かすかに動いた。

『アルファード! あなたは悪くない! あなたは何も悪くなんかない! 弱くたって、愚かだって、いいじゃない。弱くたって愚かだって、あたしはあなたが好きよ!』

 遠くから呼びかける声が、乾いた地面に水が沁みこむようにひっそりと、彼の中に沁み込んで来る。 一滴づつ滴り落ちる雫が時間をかけてやがて虚ろな器を満たすように、彼を満たしてゆく。

 そして、ついに満たされた器から、はじめて一滴の水が溢れ出した時、かすかな意識の中で、彼は、呆然と思った。

(そうか、俺は、悪くなかったんだ……)

 そうだ、幼いあの日、母が彼を棄てていったのは、何一つ、彼のせいではなかった。彼が弱く、劣っていたからなどではなかった。父と母の間がうまくいっていなかったことも、母の結婚生活が不本意なものであり母が不幸だったことも、何一つ、幼かった彼の関知するところではない。ましてや、彼が父親に似ていたことなどが、彼のとがであったはずもない。彼は、何も悪くなかったのだ。

 母に棄てられたことで、自分を責める必要はなかった。それなのに、幼い彼は、自分を責め続けた。自分を責めることで、母を庇ってきた。悪いのは、自分を棄てた母ではなく、母の期待に添えなかった自分であると。だから自分は母に見限られ、棄てられたのだと。

(なぜ、そんな風に思い込んできたのだろう。俺は、悪くなかったんだ――)

 そんな、彼のおぼろな思考を、どこかで、そっと、肯定してくれている気配がある。そうよ、その通りよ、と、誰かが、そっと寄り添うように、背中をさするように、やさしく囁いてくれている。

 ああ、誰かが、俺を肯定してくれるのだ。醜く怒り、惨めに惑い、時に獣のように荒れ狂う、未熟で荒々しい俺を、それでも受け入れてくれる人がいるのだ。長いこと、嘆きを、憎悪を、悲しみを、自分でも気づかぬように心の奥にしまったまま生きてきたけれど、胸の奥底に見知らぬ黒い獣のようにうずくまる、その、秘めた怒りごと自分を愛してくれるだろう人を、俺は、やっと見つけたのだ。今、どこからか俺に呼びかけてくれている、その人を。

 そうだ、その人は、いつも近くにいて、抱き上げてもらうのを待っている仔犬のような、わけもなく気が咎めてくるほどに信じきった、真っ直ぐな目で俺を見上げてくれていたんじゃなかったか? 己の未熟さゆえに身勝手にその人を振り回してきた俺を、それでも信じ、慕って、どこまでもついてきてくれていたんじゃなかったか? いつもそばにいてくれたはずのその人は、今、どこに……? そもそも、ここは、どこなのだ? 俺は今、何をしているんだ? ……俺は、ドラゴンと戦っていたのではなかったか!?

 急速に意識がはっきりしはじめ、自分の置かれている状況を思い出しかけたアルファードは、うずくまった姿勢のまま、かっと目を開けた。

「リーナ! どこにいる?」

『アルファード、あたしはここよ! 立って! 顔を上げて! ここまで来て!』

 脳裏に響く声に導かれて顔を上げたアルファードは、自分が、少年時代の悪夢の中ではなく、ドラゴンの洞窟にいることに気がついた。子守歌を歌っているのは母ではなく、自分を取りまいているのはあの日の夢の黒い影たちではなく、ただ、ドラゴンの九本の首が彼を取り囲んで揺れていることに。

 ドラゴンは、自分の術が破れたことを悟るや、まだ夢から覚め切らないあやふやな表情で顔を上げ、周囲を見渡すアルファードに、九本の首で、いっせいに襲い掛ってきた。

『アルファード、危ない!』

 胸に響く里菜の声に、アルファードは我に返って、ばねのように立ち上がった。今や完全に理性を取り戻し、事態を把握したアルファードは、ドラゴンの攻撃をよけながら、足元に落ちていた剣を素早く拾いあげた。

 アルファードはもう、里菜が近くで叫んでいるのではないことに、気づいていた。

 里菜は、たぶん、この城のどこかで、自分がドラゴンの邪悪な罠に陥ったことを知って、悪夢の中から自分を呼び戻してくれたのだ。

(そうか、リーナは、生きていて、そして、どこかで俺を呼んでいるんだ。俺を、待っているんだ。そう、リーナは、俺を必要としてくれている。俺を――、俺を、愛してくれているんだ!)

 そう思った時、アルファードの傷ついた身体の奥で、いったんは消えかけていた生命の炎が、ふたたび燃え上がった。

 ついさっき、ドラゴンの毒に侵された心の中で、彼女は、良心の呵責を感じずに死に屈するための言い訳だった。でも、自分が本当に探していたのは、もう、死に場所じゃなかった。最初は、もしかすると本当にそうだったのかもしれない。けれど、いつのまにか、別のものを探していた。

 探していたのは、求めていたのは、彼女と共に生きられる未来だ――。

(そうだ、俺は、リーナと約束したじゃないか! 必ず後から君のもとへ行くと……。リーナ、待っていてくれ!)

 アルファードはぎりっと奥歯を噛み締め、闘気を漲らせて剣を振り上げた。

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