第一章<エレオドラの虹> 第四場(1)
暖かなベッドの中で薄目を開けて、里菜は、ぼんやりとあたりを見まわした。
もう眠くなんかないと思っていたのに、昼食の後でアルファードに昼寝するように言われた里菜は、しぶしぶ目を閉じたとたんにたちまち眠ってしまい、今また、目を覚ましたところなのだ。やはりまだ完全に体調を回復していたわけではなかったらしい。
目が覚めたのは、たぶん、隣室から漏れてくる静かな話し声のせいだ。
隣室との境のドアは細く開いていて、その隙間から、穏やかなオレンジ色の光に包まれてテーブルにつく二つの人影が見えた。
一方は、そう、もちろん、この家の主、アルファードだ。もう一人は……。
(そっか、ヴィーレが来たんだわ)
里菜はそっと微笑んだ。思い出し笑いである。
さっき、里菜の年齢を聞いて凍りついたアルファードが、しばらくしてやっと口を開いた時、その口から出てきたのは、それまでの落ち着き払いぶりはどこへやら、うろたえてしどろもどろの、別にしなくてもいいような弁解だったのだ。
「その……、君の服なんだが、着替えさせたのは俺じゃない。ヴィーレという隣の家の娘がちょうど来合わせて、それで……。だから俺は断じて一切、そのう……。ああ、ヴィーレはただの幼なじみで、俺とは別に何でもない……というか、妹のようなものではあるんだがそれだけで……いや、そんなことは余計な話で、別にどうでもいいんだが……」
本当に余計なこの釈明で、アルファードとの間柄がちょっと気になっていた娘の正体がわかって嬉しくなったのと、そんな余計なことまでなぜか弁明してしまうアルファードの狼狽ぶりのおかしさに、里菜が思わずくすりと笑うと、アルファードは急に咳払いをして、
「ああ、とにかく、その……、後でヴィーレが君にちゃんとした服を持って来てくれる約束になっているから、それまで君は、まだ寝ていろ」と一方的に言い渡して、今度こそ引き止める間も与えずに、そそくさと部屋を出ていってしまったのである。
里菜が起き出していくと、ヴィーレが親しげな微笑みで迎えてくれた。
「あら、リーナ、起きたのね。アルファードから聞いたと思うけど、あたし、マルヴィーレよ。ヴィーレって呼んで。よろしくね。あなたに、服を持ってきたの」
里菜が挨拶をする間もなく、ヴィーレは足元の包みの中からあれこれ取り出し始めた。
「これ、お古で悪いんだけど……」
と、言いながら、ヴィーレは取り出した服を里菜の肩に当ててみた。それは簡素な茶色の膝下丈のワンピースだった。
「あら、やっぱりこれでちょうどよかったわ。あたしが子供のころに着てたのだから、スカートはちょっと短めだけど、これくらいなら、まあ、いいわよね。他のじゃ、きっと、ブカブカだもの。ちょっと子供っぽいかなとは思ったんだけど、あなた、かわいらしいから、きっと似合うわよ」
向かい合って立つと、ヴィーレは、里菜よりかなり背が高い。身体つきもふくよかで、彼女のお古だと、確かに、ずいぶん前のものでないと里菜には大きすぎるだろう。
「ありがとう」と、里菜はヴィーレに笑顔を返し、ごく自然にそれができた自分に、ちょっと驚いた。『あちら』にいたころ、里菜は、内気で人見知りの強い少女だった。けれどヴィーレの笑顔はあまりにやさしく、その態度があたりまえのように親しげなので、里菜もつられて、自分と彼女がすでにとても親しいような気分になってしまったのだ。
もしかすると、それは、里菜が、この世界ではっきりと意識を取り戻す前の赤子のようなまどろみの中で、すでに彼女と出会っていたからかもしれない。
ヴィーレは、里菜と服をにこにこと見比べながら続けた。
「これも似合うと思うけど、どっちみち一枚じゃ足りないから、今度、あたし、あなたに新しい服を作ってあげるわ。すぐ出来るわよ。あたし、そういうの、得意なの。そう、青がいいわね。あなたには、きっと青が似合うわ。もともと着ていた服も、紺色だったし……それに、あなたは<女神のおさな子>だもの。青は、女神さまのお好きな色なのよ。そういえば、あなたの着ていた服、洗ってきたんだけど……」と、ヴィーレは、なにか不吉なものを見るように、テーブルに畳んで置いた里菜の制服を見やってから、続けた。
「これ、着ないで、どこかにしまっておいたら? ここでは、少し、その……、奇妙に見えるかもしれないから。それからね、靴と寝巻と、髪を結ぶリボンも持ってきたわ。それでね、お湯を使ったらどうかしら。顔なんかは昨日あたしが一応拭いたけど、髪も洗いたいでしょ? じゃあ、あたしとアルファードは、支度をしたらそっちの部屋にいくから。着替えはここに一式置いとくわね。あ、タオルはここね」
話しながらも、ヴィーレはテキパキと動き回り、暖炉の前に敷物を広げ、タライをとりだし、石鹸やらタオルやらを並べている。
どうやら、風呂場ではなくこの部屋で、タライで行水することになるらしい。
(うわあ、お湯、こぼしたらどうしよう)と、里菜がちょっと心配になって見ていると、ヴィーレはその気持を察したかのように、
「あ、この敷物、防水だから、少しくらい水こぼしても、平気よ」と言った。
それにしても、この人は、なんだかこの家の中のことにすごく詳しいみたいだ。ただの隣りの娘にしては、まるで自分の家のように振る舞っている。どういうことだろうか。ただの幼なじみと言われていたが、これは、やっぱりちょっと気になるかもしれない──。 あれこれ考えながら、ヴィーレの動きを漠然と追っていた里菜の目が、ふいに、大きく見開かれた。
タライの脇に膝を付いたヴィーレが、ごく何気ないようすで上に向けたてのひらを、水を掬うように合わせてタライの上で傾けると、突然そこから水があふれて、流れ落ち出したのだ。ちょうど、合わせた手の中に、水道の蛇口が出現したかのように。
(えっ、うそ、なにこれ、なに?)
里菜は、一瞬目を疑っていたが、次の瞬間、自分が見たものをはっきりと認識し、そのとたん、思わず叫んでいた。
「うそ! なにそれ!」
同時に、水の流れが止まった。ヴィーレが、驚いてまじまじと里菜を見た。
「リーナ、あなた……」
「ヴィーレ、今の何? なんなの、それ! うそでしょ?」
「何って……お湯を入れただけよ」
「だって、何もないところからお湯が出なかった?」
「そりゃあ魔法だもの……」
「なに、それ! 魔法って……、あなた魔法使いなの? うそでしょ……。なに、それ……」
里菜は呆然と繰り返した。
*
タライに張られたお湯にタオルを浸して身体を拭きながら、里菜は上の空でそわそわしていた。手だけは機械的に動いているけれど、心は全然違うことを考えている。
なにしろ、魔法である──。
いっそ、この世界のことを何も知らないうちに魔法を使うところを見せられていれば、魔法の存在を簡単に受け入れられていたかもしれない。だって、何しろ、異世界だ。そんなこともあるだろう。
だいたい、物語の中などで異世界に行ってしまった人がいれば、行った先は、過去か未来でなければ、まず例外なく、魔法が存在するおとぎ話のような世界ということになっている。当然、自分がやって来たのもそういう世界だろうと、里菜も最初は漠然と予測していた。というより、期待していた。
が、アルファードの話を聞いて、実はそうではなく、ここはただの近代社会の田舎の村なのだと納得し、拍子抜けしていた矢先に、いきなり魔法である──。それも、あんな、ごく当たり前の、慣れた様子で、何の不思議も神秘もなく、蛇口をひねるような何気なさで、日常生活の中で魔法が使われるなんて──。
(うそぉ、何、これ……)
タオルをゆすぎながら、また、ぼんやりする。なんとなく、お湯をぴちゃぴちゃやってみる。このお湯も、魔法で出したものなのだ──。
さっき、自分がお湯を出したのを見て里菜に驚かれたヴィーレは、当惑して、助けを求めるように里菜からアルファードに視線を移した。アルファードも当惑したようにヴィーレと里菜を見比べ、肩をすくめて小さくかぶりを振った。
ヴィーレは里菜に向き直って、用心深い口調になって言った。
「あたしは別に、魔法使いじゃないわ。あたしのは、ただの<普通の魔法>だもの。リーナ、もしかして、あなたのいた世界では、こういう<普通の魔法>も、珍しい――めったにないようなものなの?」
「めったにどころか、ぜんっぜん、ないわ!」
力いっぱい言う里菜を見て、ヴィーレとアルファードは顔を見合わせた。
「じゃあ、君は、魔法が使えないんだな? そして、君のいた世界では、みんながそうだと言うんだな?」と言ったアルファードの静かな声には、押し殺した昂ぶりのようなものが抑えがたく滲んでいたが、里菜はそんなことに気づくどころではなかった。
「あたりまえじゃない! ねえ、どういうこと? ここではみんな魔法が使えるの? ヴィーレが魔法使いじゃないって、どういう意味? <普通の魔法>って? 普通じゃない魔法っていうのもあるの? アルファードも魔法が使えるの?」
せき込むように質問を浴びせかけながら、里菜は我知らずアルファードに詰め寄っていた。そんな里菜の肩を、落ち着け、というように大きな手でそっと押し止めて、アルファードは穏やかに言った。
「いや、俺は、魔法は使えない」
一見さらりと言われたその言葉に潜む、苦いものを噛み締めるような響きに、魔法をまのあたりにしてすっかり興奮していた里菜は、気がつかなかった。
「そうか、君は、魔法について、なにも知らないのか」と、アルファードは続けた。「とにかく、まず風呂に入ってしまうといい。あとで、ゆっくり、全部話してあげよう」
里菜は、もうお風呂どころではない気分なのだが、アルファードの言葉に、ものやわらかな中にも有無を言わせないものを感じ、あきらめて頷いた。
どうも、このアルファードという人は、物言いはあくまで穏やかで、別段威張っていたり偉そうにしたりはしていないのだが、それにもかかわらず、一言のもとに人を従えずにはおられないような何かを持っているらしい。その言葉は、決して命令調だったり居丈高だったりするわけでなくても、なにかしら逆らい難いものがあるのだ。
というわけで、今、里菜は、魔法の存在する異世界で、魔法で出してもらったお湯で、それどころではないはずなのにあたりまえのように入浴中なのである。
タオルをしぼっては身体を拭くことを、ぼんやりと繰り返す。暖炉の真ん前なので、寒くはない。小さな、ほっそりした白い身体を、揺れる炎が橙色に照らしだす。揺れる火明かりも、そのなめらかな肌の上に、濃い陰影を生むことはない。まだ女らしい起伏に乏しい、セルロイドの人形のようにすべらかで無機的な、清潔だが子供っぽい裸身である。
こんなふうに、部屋の中でタライで行水だなんて、考えてみればそれはそれでずいぶん珍しい体験なのだが、今はそんなことを面白がっているどころではない。
タライの隣には、小さな桶に、指し湯用の熱いお湯が入っている。
これもヴィーレが魔法で出してくれたものだ。
が、これを出す時は、ちょっと大変だったのだ。
里菜に魔法が使えないと知ったヴィーレは、気をきかせて、お湯が冷めた時のための熱い湯を用意しておいてくれようとしたのだが、なぜか、今度は魔法でお湯が出せなかったのである。
その時のヴィーレの当惑を思うと、魔法の存在に興奮して舞い上がっていた心が少し重くなる。
ヴィーレがお湯を出せなかったのは、里菜が見ていたからなのだ。
どうやら、里菜には、どういうわけか、見ているだけで他人が魔法を使うのを妨げてしまうという特殊な性質があるらしいのである。
それに気づいたのはアルファードだった。
アルファードは、ヴィーレがお湯を出そうとしている時に、里菜に後ろを向くように命じた。すると、普通にお湯が出せた。
それから、里菜は、アルファードに言われるままに、目の前に立ったヴィーレがあれこれと不思議な動作をするのを、ただ見ていた。
ヴィーレは、里菜の見ている前では、二度と魔法を使えなかった。
アルファードは、しばらく、難しい顔で考え込んだ挙げ句、ゆっくりと噛み締めるように、こう言った。
「……俺は、君には、『魔法を消す』という特別な力があるんだと思う。これは本当に特別な、ものすごく特殊な力だ。これまで、この世界に、そういう力の持ち主は、現れたことがないはずだ──少なくとも、人間の中には。が、<マレビト>の力については、何もわかっていない。この世界の基準では測れない力なのだから、今までたまたまそういう力を持つものが居なかったからといって、そういう力があり得ないとは言えないだろう」
ならば、なぜ、さっきはヴィーレは魔法を使えたのかというと、アルファードは、それは里菜が魔法を魔法と認識する前に不意打ちで行われてしまったからだろうという。あまりに予想外のことで、里菜が魔法を魔法と認識する暇がなかったからだろう──つまり、里菜の存在自体が魔法を排除するのではなく、里菜の意識が魔法を排除するのだと。
そう考えると、ヴィーレが、ゆうべは里菜のそばでも魔法が普通に使えたのも、里菜が眠っていたためということで説明がつくと言うのだ。
アルファードの言うことは、里菜には、よくわからない。ヴィーレには、もっと解っていないらしい。ヴィーレは、アルファードが突然聞いたことのない異国の言葉を話し出したとでも言うように、ぽかんとしていた。
里菜は複雑な気持だった。何の取りえも特技もないと思っていた自分が、ここでは実は何やらすごく特別な力を持っているだなんて、何かすごいことのような気もするが、そのせいで自分は、見たくてたまらない魔法を、この目で見ることはできないらしいのだ。
だとしたら、何か、とっても損なことのような気もする。
それに、さっき、里菜の目の前で魔法が使えないとわかった時、ヴィーレは、ほんの一瞬ではあったが、わずかに身を引くようにして、何か不吉なものを見るような目で里菜を見たのだ。
それは、ほんの一瞬のことで、ヴィーレはすぐに、後悔したように、やさしい笑顔を里菜にむけてくれたのだが。
ヴィーレにとって魔法はあるのが当り前の慣れ親しんだ日常的な行為なのだとすれば、それが使えなくなるということが彼女に取ってひどく不自然なことなのだというのは、里菜にも想像できた。
(これって、きっと、ヴィーレにとっては、誰かに見られたら声が出なくなっちゃうとか金縛りみたいになって動けなくなっちゃうとか、そういうのと同じことなのよね。あたしだって、そんなふうになったら、その誰かを気味悪いと思うに違いないわ)
そんなふうに魔法のことばかり考えながら、上の空で身体を拭き清め終え、ヴィーレのお古のワンピースを手にとったとき、里菜の心に、初めて別のことが浮かんだ。たぶん子供服なのだろう、ヴィーレが今着ているものよりどことなく子供っぽいデザインのその服と、自分のちっぽけな痩せた身体を見比べて、里菜は思ったのだ。
ふくよかで女らしいヴィーレが長身で逞しいアルファードと並んだところは、背の高さも釣り合いがとれていて、いかにも似合いの恋人同士のように見える。なのに、ちびでやせっぽちの自分は、アルファードと並ぶと、遠目に見たら、たぶん、大人と子供の組み合わせにしか見えないだろう。いや、近くで見ても子供連れに見えるかもしれない。
(もっと大人になりたい!)
それは、彼女が、もう何年も前から忘れていた気持ちだった。そういえば、小さいころは里菜だって、早く大人になりたかった。大人になどなっても別にたいして良いことはなさそうだと気づいてしまったのは、いつごろのことだったろう。
でも、ここでは、きっと、大人になると良いことがあるのだ。なにしろ、アルファードと並んで立って釣り合う女性になれる、それだけで充分、すてきなことではないか──。
(よし! いっぱい食べて大きくなるぞ、なんてね。背は、もうあんまり伸びないかもしれないけど、せめてもうちょっと肉がつけば、胸も少しは大きくなって、ヴィーレみたいに女らしくなれるかもしれない……)
そんなことを思いながら、ヴィーレのお古の服を着てみたら、子供服なのに、胸のあたりがブカブカなのである。いくらなんでも、これはあんまりだ。里菜は、余った胸元の生地をつまんで溜め息をついた。