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序章

                    (――引用――)

 劫初ごうしょに、母なる『混沌』があった。

 母なる『混沌』は、父なる『時』の精を受け、二柱の兄妹神を産み落した。

 すなわち、昼と光、生命と成長とを司る女神エレオドリーナと、夜と闇、死と安息とを司る男神タナートである。

 光と闇、昼と夜が生じた時、母なる『混沌』は死んだ。

 そのなきがらは、三つに分かれ、天と地と、そして黄泉とになった。

 女神と男神は、その地をイルファーランと名づけ、そこに生命を住まわせることにし、一日目には草や木を、二日目には虫を、三日目には魚、四日目には鳥、五日目には獣、六日目には人間、そして最後の七日目には妖精族を創造した。

 すべての生命が、その内に死への定めを内包しているのは、それらが、ひとり生命の女神だけでなく、死の神と生命の女神の両者によって創りだされたものだからである。

 生命の創造を終えると、神々は地上を離れ、女神エレオドリーナは天に、男神タナートは黄泉に住いを定めたが、同時に、それぞれの住いと地上とを結ぶ場として、地上に聖地を定めた。

 女神エレオドリーナは、イルファーラン南部のエレオドラ山を聖地と定め、山頂に神殿を建てさせ、そこに降り立つときは、天とのあいだに虹の橋を架けた。

 男神タナートは、北部のシルドーリン丘陵地帯を聖地と定めた。

 シルドーリン丘陵では、最後に創造された種族である妖精たちが、山中を縦横に走る坑道のなかで、神代かみよの宝玉シルドライトを採掘し、金属を鍛えて暮らしていた。

 男神タナートは坑道の奥に黄泉との通路を開き、妖精たちを自らの眷属として選んだ。そして、彼らに<魂の癒しの力>を与え、神の<御使い>として、死せる魂を迎え、その魂が地上で受けたあらゆる傷を癒し、永遠の安息の地である黄泉に導く役割を課した。

 こうして、女神と男神は、天と黄泉にあって協力しあい、地上を正しく治めた。

 女神は一日に千の命が生まれるように計らい、男神は、各々の命の定めに従って、公平に一日九百九十九の魂を黄泉に導いたという。

 やがて神代の終焉が訪れ、神々は地上との往来を絶ち、それから何千年の時が流れた。 妖精族は滅び、人間との混血によって細々とその血が受け継がれるのみとなり、<魂の癒しの力>もまた、地上から失われた。

 いまや、エレオドラ山の頂きは、古い結界によって閉ざされ、死すべき人間には神殿を見ることすらかなわない。シルドーリンは荒れ果てた廃坑となって久しく、鉱脈は枯れ、黄泉への通路は見失われた。

 神代の物語は、あるものは半ば忘れ去られて黴くさい書物の中に埋もれ、あるものは単なる炉辺の昔語りとして語られるのみとなった。

 だが、神話は、決して、古臭いだけのものでも、役に立たない作り話でもない。

 神話は、この国の文化をかたち創ってきたものであり、この国の人々の精神をかたち創ってきたものである。神話を学ぶということは、この国の精神のありかたを知ることであり、ひいては、自らの精神のなりたちを探ることである。

 これから神話を学ぶ君達よ。

 神話学は、決して、過去を振り返るだけの無益な学問ではない。

 これは、未来への学問なのである。

 なぜなら、これは、この国の未来である君達が、自分自身について考えるための学問なのだから。


――『イルファーラン国立上級学校神話学教科書』(<賢人会議>長老・イルファーラン国立研究所名誉研究員 ユーリオン著, 統一暦百六十六年発行)序文より。




里菜りなは、水の中にいた。

 自分を包んで脈打つようにゆらめく水を、確かに感じていた。

 不思議と、冷たくはなかった。

 水は、里菜の回りで渦巻き、たゆたい、顔の回りに広がる長い髪を弄び、裸足のくるぶしをやさしく愛撫しては、ゆるやかに流れていく。

 流れに揺られてさわさわと素脚に纏わりついてくるものは、きっと制服のスカートだ。ごわごわした布地が膝の裏のやわらかいところに戯れかかって、ちょっとくすぐったい。

(あたし、水の中にいるのかしら……。でも、どうして?)

 ぼんやりと目覚め始めた里菜の意識が、そろそろと状況を探りだす。

 どうやら自分は、服を着たまま仰向けに水に浮かんでいるらしい。全身が水に包まれているように感じたけれど、きっと、それは錯覚で、顔は水面に出ているのだろう。

 ここは、どこだろう――?

 あたりを見回そうと思ったが、目を開けることは、まだ、できない。ちょうど、深い眠りからあまりに急に浮かび上がった時のように、意識は目覚めているはずなのに、身体を動かす方法が思い出せないのだ。

 目を閉じたまま、里菜は記憶をたどる。

 今は九月。高校二年の二学期の、ありふれた放課後。

 退屈な授業と退屈なホ−ムル−ムが終わり、教室の後ろに群がってにぎやかにおしゃべりしているクラスメイトたちの横を、里菜は、じゃあね、と呟きながら、ひっそりとすり抜けた。何人かがそれに気づいて顔を上げ、お義理の笑顔で軽く手を振って、それからすぐに里菜のことなど忘れて、おしゃべりの輪に戻っていった。そうして里菜は、いつものようにただひとり、文庫本片手に電車に乗って帰ってきた。

 そう、ここまでは、いつもと同じ。

 いつものように駅に降り、いつものように家に帰って……。

 そこから先は、思い出せない。きっとまだ、目が覚め切っていないからだ。

 だが、すぐに、そんなことはどうでもよくなってしまう。

 何もかもが、別の世界で起こった、自分とは関係のないことのように感じられる。

 心が、心地よいまどろみの中に引き戻されようとする。

 さっきまで、身体のどこかが激しく痛んでいたような気もする。が、それも今は、ぼんやりとした記憶に過ぎない。

 目を閉じて、全ての痛みが静かに癒されていくのを感じながら、里菜は水に抱かれている。おさな子に還って、母の胸に抱かれるように。

 里菜を包んで、水が揺れる。

 さわさわと、ゆらゆらと、ゆらめき、たゆたう、水のゆりかご。

(いい気持ち……。もしかしたら、ここは天国なのかなあ。だとしたら、あたしはもう、死んでいるのかしら)

 そう思っても、悲しくはない。

 生まれ出る前のまどろみにも似た穏やかな安らぎが、さざ波のように心を満たす。

 そしてそのまま、里菜の意識は、再び遠のいていった――。

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