08
スレンヴェール王都、アスタリテ城上層階にて。
「アルヴィン様ぁ、会いに来ていただけないから、ルーナ寂しかったですわぁ」
飽和直前の砂糖水のような甘い声が、豪奢でありながら上品なインテリアの室内に響く。
花のような薄紅色の髪に、透き通るような白い肌。目の大きな小動物のように愛らしい顔。公爵令嬢にふさわしい、贅を凝らしたドレス。
ルーナと自らを呼んだ娘は、潤んだ目をして自らの前で手を組んだ。まるで神に祈るように。
「ああ、すまなかったね。執務が忙しかったものだから」
彼女に相対しているのは、まるで童話に語られるような美男子だ。
輝くような金色の髪に、春の空のような青い瞳。
事実、彼はこの国の王子だった。それもいつか王位を継ぐことが定められた、継承権第一位の王太子。
品行方正で姿がよく、なおかつ大貴族のリュミエール公爵家を味方につけた彼は、既に向かうところ敵なしだと言われていた。
「もう、アルヴィン様はいつもそればかり。ルーナは悲しゅうございます」
「本当に、申し訳ないと思っているんだ。今度時間ができたら、一緒にピクニックに行こうか」
「本当ですか!? ルーナ、楽しみにしておりますわ」
目に見えて表情をやわらげた少女は、満面の笑みで王子の執務室から出て行った。
顔に鉄壁の笑顔を張り付けていたアルヴィンは、扉の閉まる音を確認したのち執務机に崩れ落ちる。
「はあ……あんな能無しが俺の婚約者だって? ありえない。ありえないぞ」
先ほどの優雅さはどこへ行ったのか、アルヴィンは地獄の底から響くような低音で自らの境遇を嘆く。
「失礼ですが、殿下が自らお決めになった婚約者ではございませんか。先に婚約者と決まっていた彼女の姉を、わざわざその地位から退けてまで」
近侍の平坦な声に、王子は乱れた髪のままで顔を上げた。
その顔には肉食獣のような険しさと、そして少しのバツの悪さが絶妙なバランスで同居している。
「責めているのか?」
「なにが、とお聞きしても? わたくしは真実を述べたのみでございます」
眼鏡をかけた若い侍従は、王子が唯一心を許せる相手だった。
だからこそ、アルヴィンが何に怒り何をやましく思っているのか、彼は的確に指摘することができた。
「仕方ないだろう。まさか婚約者を外されたことで公爵家の姫が竜の花嫁に立候補するなど、思いもしなかったのだ」
どこか拗ねたようなアルヴィンの声は、まるで幼い子供のそれだ。
彼を知るものがこの光景を見たら、きっと驚いて目をむいたに違いない。
そう。アルヴィンは、王太子という地位を得るために優秀な王子という仮面をかぶり、常に自らを欺いて生きてきた。
すべては腹違いの弟、第二王子であるステファンに勝つため。
国王の第一子でありステファンよりも年長でありながらも、アルヴィンにはどうしても安心できない理由があった。
それは母の出自の差。
ステファンの母は王の第一妃であり、リュミエール公爵家と双璧をなすグランスフィール公爵家の姫。
対してアルヴィンの母は、グランスフィール家よりも家格の劣る伯爵家の出身であった。
アルヴィンがどれほど己の行動を律して王太子にふさわしい行動をとったとしても、ステファンを次期国王にという声が城内から消えることはない。
なので彼が無事王位を継ぐためには、どうしてもグランスフィール家と同等かそれ以上の家から妻を迎える必要があった。
アルヴィンはそうした数少ない候補の中から最も王妃にふさわしいと思われるエリアナを選び、そしてリュミエール公爵の願いにより彼女を婚約者の座から突き落としたのだ。
しかしここにきて、アルヴィンは己の決断を後悔し始めていた。
それは婚約者であったエリアナが、生きて帰ることのない竜の花嫁になったからではない。
リュミエール公爵がぜひにと差し出してきた下の姫が、あまりにも己の分を弁えない奔放な姫であったからだ。
(そもそも、エリアナを婚約者に選んだのは高い家格もさることながらつつましいその性格があったからだ。なのに、エリアナの妹がまさかあんなにも奔放で身勝手な令嬢だったとは)
事前の調査で、ある程度の覚悟はしていた。
親しい侍従からもあの令嬢は辞めるべきだという進言を受けてはいたが、将来妻の実家の言いなりにならないため公爵家に恩を売っておきたいと考えたアルヴィンは、リスクを承知でルーナを新しい婚約者として迎え入れたのだった。
しかしこのルーナは、愛らしい容姿だけではカバーしきれないほどの我儘な娘だった。
忙しいアルヴィンのもとをたびたび訪れては、今のように自分のための時間を割くよう要求してくる。
そしてそれだけに留まらず、あちこちの夜会で他の貴族と問題を起こし、ちゃくちゃくとリュミエール公爵家の敵を増やしているのだった。
姉妹ならばそう変わらないだろうというアルヴィンの予想は、最悪の方向で裏切られたのだ。
「欲をかかずに、おとなしくエリアナを婚約者にしておけばよかったというのか……。だが、もうどうにもならん。あの女は死んだのだ。もう後戻りはできん!」
アルヴィンの追い詰められた声が、執務室としては広い室内に響く。
賢明な侍従は何も言わず、黙って己が主人の顔を見つめていた。
王太子が婚約者に与えられた精神的な打撃から回復するのには、今しばらくの時間が必要だと思われた。