50
ステファンとルーナが脱出した牢屋に残る魔力の痕跡を調べていたグリードは、ジルを通じてイルから伝えられたステファン襲撃の報に、しまったと舌打ちをした。
「無駄足だったな。あちらの城で待機しているべきだったか。それで、状況は?」
薄暗い牢から出ると、グリードは地上に出るため急いで足を進めた。そのあとを、やけに焦った様子のジルが小走りでついてくる。
「それが、イルの見立てでは相手はその、竜ではないかと……」
ジルの発言に、グリードはぴたりと足を止めた。
それもそのはずで、この狭いようで広い世界において七匹しかいない竜がかち合うなど、滅多にあることではない。
大抵の竜はその長すぎる生に倦んで長い眠りについているはずだし、グリード自身もエリアナに出会うまでは火山のマグマだまりを寝床としてきた。
その竜の内の誰かがきたとなれば、事態は途方もなく厄介な方向に向かっていると判断せざるをえない。
それぞれ竜の実力というのは拮抗しており、人間やその他の生き物たちに対して可能な圧倒的武力行使が効かなくなってしまうからだ。
グリードは不機嫌を隠そうともせず舌打ちをする。
だが、ジルはそれに臆することなく、話は終わっていないとばかりに言葉を続けた。
「旧アデルマイト城は半壊。そして第二王子は、エリアナ様を攫って行ったと……」
グリードは息をのむ。
予想できない事態ではなかったのに、なぜか彼はその可能性を考えてはいなかった。
どうしてだろうかと、グリードは己の迂闊さを呪う。
「どうしてそれを先に言わない!」
そう叫ぶと、竜は驚いたことにその場で真の姿を解放した。
地中に突然強大な質量が現れたことで、地下牢の屋根―――つまり地面が破れ、洞窟の崩落が始まる。
「グリード様、お待ちを!」
土に埋もれそうになりながら叫ぶジルの声は、グリードの耳には届いていなかった。
ただただ焦燥だけが、竜となったグリードの心をせかす。
そしてエリアナの気配をたどって向かうさなか、まるで頭に落雷を受けたような衝撃を味わった。
―――エリアナが、死んだ。
グリードが加護を与えたエリアナはすでに彼の眷属だ。だから離れていてもその居場所を知ることができる。
だが、その彼女の生命の輝きともいえる気配が、たった今消えた。
グリードは咆哮する。近くに住む動物たちは驚き、我先にと逃げ出し始めた。まるで世界の終わりのごとき様相である。
矢はいかずちとなり、瞬く間に火山へと突き刺さった。
黒茶けた斜面に土埃が舞う。
『おお、きたか』
プライドはそれはそれは楽しそうに言った。
そしてその爪は、赤い液体でぬらぬらと濡れていた。
「貴様っ、エリアナを殺したのか!?」
土煙が風に連れ去られると、大地の上に見覚えのあるドレスが広がっているのが見えた。
黄緑色の娘らしいドレスが、無残に打ち捨てられ半分以上が赤に染まっている。
それを目にしたグリードは、言い知れぬ感情の激流に襲われた。
「許さないぞプライド! 絶対に」
そう言うが早いか、グリードは沢山の牙が生えたその口から火を吐いた。ただの火ではない。煉獄から召喚した漆黒の炎だ。この炎は、普通の炎ならば餌としてしまう炎の精霊すら焼き尽くすことができる。
『いきなり本気か。面白い』
プライドは空に舞い上がると、その羽根を大きく翻した。するとそこに竜巻が生まれ、竜巻は燃え盛る黒い炎を巻き上げる。やがて巻き上げられた熱風は雲を作り、たち空には黒い雨雲が立ち込めた。しとしと降り出したのは皮膚を焼く酸の雨だ。
奇しくも二人の協力によって降り出した雨は、グリードとプライド双方の鱗を平等に蝕みそして溶かした。
「自らも死ぬ気か、プライド」
グリードは挑発するように吐き捨てたが、一方でプライドは欠片も動揺せずに言った。
『そのつもりだと言ったら?』
何がおかしいのか、その竜は自らの攻撃で皮膚を焼きながらも、愉快そうに笑って見せたのだ。
『グリード。我は分かったのだ。もはやこの世界に竜などいらぬ。我々は滅ぶべきなのだと』
思ってもみない言葉に、グリードの頭は一瞬にして冷めた。
今でも心は憎しみで燃え盛っているが、物を考える部分はいやにさえている。鱗を焼く雨などかまいもせず、グリードはプライドと相対する。
「どういう意味だ?」
『お前のおかげだグリード。貴様が我がこの国を潰したからこそ、我は決心することができたのだ』
プライドが指揮者のように羽をふるうと、黒い雨の一粒一粒に炎が灯り辺りは一瞬にして地獄のような有様となった。噴火したわけでもないのに火山からは燃える黒い水が流れ出し、それが触れた木々は焼け落ち、あっという間に森を不毛な大地へと変えていく。逃げる動物たちの嘶き。住処を捨てた精霊たち。それぞれに強大な力を持つ竜たちの戦いを前に、人間どころか精霊たちですら、なすすべなく逃げ出すより他ないのだった。
ジュウという音がして、ついにたまりかねたグリードの羽に穴が開く。プライドもそれは同様で、ジュウジュウと音を立てて溶けた鱗の隙間から赤い血肉がのぞいた。
『私はいつも何かに餓えていた。我らは世界に七匹のみの竜。他の種族とは比較することすら馬鹿らしい力を持ち、悠久の時を生きる』
「それがどうした」
プライドの言っていることは、あまりにも今更だ。
論ずることすら無駄であり、グリードはもう一度煉獄の炎を吐き出そうとした。
だが―――。
『だが人間との間に生まれた子供は、全くと言っていいほど竜としての力を持たなかった。力がないものは死ぬだけだ。だが、我は己が子を死なせたくなかった。短い生を哀れに思い。王族の血に融けた。だがそれをお前が呼び戻したのだ。今はっきりと分かった。この世界に竜はいらぬ。神が捨てた罪悪が地上にあること自体、初めから間違っていたのだ』
プライドは獰猛に笑うと、呆然と立つグリードの肩口に噛みついた。
ルーナを噛み砕いた鋭い牙が、触れるものすべてを腐らせる呪いの鱗に突き刺さる。
グリードは痛みに咆哮をあげた。一方で、鱗の効果によりプライドの牙が溶け、一方の竜もまた苦しそうに呻きをあげる。
プライドの力が弱まったのだろうか。酸の雨が俄かに途切れ、わずかに雲間から光が差した。
グリードが眩し気に目を眇める。
「俺と刺し違えてどうする。竜が必要ないというのなら、他の五匹はどうするんだ」
グリードのぼやきめいた呟きに、プライドは喉の奥で笑った。
『それこそ私怨というものよ』
そして、より深くプライドの牙がグリードに食い込む。
「ぐっ!」
グリードは驚いていた。彼の記憶にあるプライドは、決して本音を話すような竜ではなかったからだ。ましてや、刺し違えてでもというような行動からはもっとも遠いところにある竜だった。
(つがいとは、子を成すということはそれほどまでに重大なことなのか)
エリアナに振り回されている自覚のない彼は、なぜか場違いにもそんな感心をしていたのだった。
そもそも本気で抵抗しようが逃げられそうにないし、永く生きたからか死にたくないという恐怖よりもむしろようやく終わるのかという安堵の方が大きい。
エリアナを殺したプライドに怒りは感じていたが、相打ちだというのならそれも悪くない気がする。そもそも、アデルマイトの城へ戻ってももう彼女はいないのだ。
どうしても、死にたくないという強い気持ちを持つことができなかった。
互いの力が弱まっているのだろう。酸の雨はほとんど降りやみ、夜もかくやという森に薄明かりが戻った。
そして、激しい戦いも終わりを迎えようとしたその時だった。
『待ってください!』
どこからか、声が聞こえた。
聞き覚えがあるようなないような気がする。不思議な声だ。
初めは空耳かと思えた声が、どんどん大きくなっていった。
その必死な声は、今にも泣きだしそうなその声は、姿は見えないのについにすぐそばから聞こえているのではと思えるほど大きくなった。
グリードは死期が間近に迫り、ついに幻聴が聞こえ始めたのかと錯覚した。
しかしそうではなかった。
酸の雨によって穢された土に、突然勢いよく二枚の葉が芽吹く。
葉はみるみる大きくなり、すぐに竜と並ぶほどの若木へと成長した。
それは奇妙な光景だった。水も栄養もないはずの荒れた土から、緑の葉が生い茂る木が一本だけ生まれたのだから。
その木はグリードのそばにあるにもかかわらず枯れることなく、酸の水に触れても溶けることはなかった。
一体なにがおこったんだと呆気に取られていると、やがて木は蕾をつけ、花を咲かせた。白い小さな花が無数に咲く可憐な木だ。
そしてまるでそれに呼応するように、グリードの眼前に白いドレスを着た見覚えのある娘が現れた。
「……エリアナ?」
グリードは幻を見ているのかと思った。気づけば、プライドも牙を外し同じように立ち尽くしている。
『よかった。気づいてくださってよかった。グリード様』
エリアナはその体こそ透けてはいたが、頬は涙に濡れ泣き笑いの表情になっているのがはっきりと見て取れた。
「これは、いったい……」
いくら竜が圧倒的な力を持っているとはいっても、死神の鎌に首を落とされた者を呼び戻すことはできない。グリードはエリアナに加護を与えていたが、それだけでは守り切れないこともまた分かっていた。
だからこそグリードはあれほどまでに取り乱し、そして嘆いたのだ。
そして彼は気が付いた。若木が生えたその場所こそ、エリアナの亡骸が伏していた場所であると。
『ドライアドの長がお力を貸してくださったのです。人の身が滅びても、グリード様にお仕えできるようにと』
グリードは驚いた。
ジルを貸し与えてくれたとはいえ、ドライアドは人間のことを嫌っていいる。
なのにかの王は、人間であった娘に惜しみなく力を与えたのだ。グリードの加護が存続しているとはいえ、竜たちが争った不毛な地に植物を芽生えさせるのには大変な力が要ったことだろう。
グリードは無意識のうちに、彼女に手を伸ばしていた。まるでそれが夢ではないと確かめるように。
『グリード様……』
ふわりと体の浮いた精神体と思われる彼女は、空ける白両手でそっとグリードの指を包み込んだ。
感触こそないが、指先に癒しの心地よさを感じる。
グリードは体を失ってしまったエリアナをそっと抱き寄せた。触れることはできないが、エリアナが生きていてくれて彼は心底嬉しかった。