48
ルーナはにっこり笑うと、ステファンに手を伸ばした。
王子は心得たように、彼女の手の甲に口づけを落とす。
「私は彼と契約したの! お姉様をひどい目に遭わせる代わりにこの命をあげるってね!」
そして彼女は、夜の闇を切り裂くように嬌笑した。
なんということだろう。彼女は己の命をこの化け物に売り渡してしまったというのだ。
いいやそれ以前に、そんな契約を受け入れ姿を現した彼はいったい何者なのか。
「プライド、あなたはそう言ったわね……?」
その名前には、聞き覚えがあった。
先ほどはあまりにも突然のことに驚いて気付かなかったが、空を飛んでいる間に最近聞いたばかりの名前だと気が付いたのだ。
「神から切り離されし、七匹が竜」
ドライアドの長から聞いた竜の名前の中には、確かにその名が存在していたのだ。
それまで余裕のある態度を崩さなかったステファンが、初めて表情を変えた。
『ほう。あのグリードがそこまで話したか』
この話をしてくれたのは彼ではなかったが、ドライアドの長に影響が出てはいけないと私はとっさに押し黙る。
そして、私はその時初めて気が付いた。薄い空色をしていたはずのステファンの瞳が、赤く染まっているのを。
そしてマグマの光に照らされながら、金色の綺麗な髪はじわじわと漆黒に染まった。
黒髪に赤い目。禍々しい組み合わせはまるで死神のようだ。
ステファンはまるで子供がおもちゃを乱暴に扱うみたいに、長い尾でぴしりと火口近くの荒れた土を叩いた。
衝撃で切り立った崖の部分が崩れ火口がわずかに広がる。
私が一度、死を覚悟して身を投げた場所だ。竜が眠るという神聖なる火山。だが、その主はもうここにはいない。
『いかにも、我は忘れ去られし竜。人と番、人の血に融けた竜よ』
プライドは楽しげに言った。
私はその言葉の意味が分からず、じっと彼を見つめる。熱でおこる風が絶えず髪を巻き上げた。
長の話を思い出す。彼はスレンヴェールの王族こそ竜とつがい子を成したと言っていた。プライドの言葉が本当なら、彼はスレンヴェールの始祖ということになる。
竜は死なない。少なくとも不死に限りなく近い生き物だと思われる。人間の何倍もの時間を生き、そしてこの地上においては絶対的な力を持つ存在だ。
だが、私はスレンヴェールの始祖であるプライドを今まで見たことがなかった。どころか、婚約者教育で読み漁った歴史書にも一切そんな記述は出てこなかった。
人々は彼のことを忘れていた。
だが、その血には連綿と竜の名残が受け継がれてきたのだとしたら。
「あなたは……ずっとそうして永い時を生き続けていたというの。スレンヴェールの王族の血に身を潜めて」
あまりにも荒唐無稽な想像だ。だが、なぜだか直感的に私はそうなのだと感じていた。
私にも、わずかとはいえ王族の血は流れている。その血が確信させたのかもしれない。
リュミエール公爵家は、何代も前に王族から臣下に下った一族だ。そもそも貴族の中で最上位である公爵位は本来、そうした王家の血を継ぐ者にしか与えられないのだから。
プライドの圧倒的なまでの迫力。
ルーナはどうしてあんなにも近くに立っていられるのかと、不思議にすらなる。
そもそもが、ろくに外にも出たことがないような箱入り娘だ。火口からの熱風で今にも干からびてしまいそうなこんな場所に、ろくに不満も言わず立っていること自体異様だった。
妹が口にした言葉が脳裏によみがえる。
ルーナは―――妹は、私を恨み復讐するためにここまで来たのだ。
「そのあなたが、どうしてルーナに手を貸すの? 命さえ渡せば、竜は願いを叶えてくれる便利な生き物なの?」
わざと煽るような言葉を口にする。
だが、プライドは取り乱したりはしなかった。もちろんルーナも。
『つくづく面白い女だ。我を挑発して仲たがいでもさせるつもりか? それでどうする。隙を見て逃げ出せたところで、女の足ではこの山を下りることもできまい』
図星だった。この山はさほど険しくはないが山道が長く、地元の人間でも山頂までは二三日かかるのだという。それに無事山を下りられたとしても、麓の森にあるのは人の住まない神殿だ。人が暮らす村までは、そこから更に一日のほど歩き続けねばならないのだった。
最初に竜の花嫁としてここにやってきた時、私は男たちの担ぐ輿にのってここまでやってきた。
今になってみれば、それは花嫁が逃げないようにするためだと分かる。山頂へたどり着いてしまえば、見張りがいなくなろうとも既に退路は断たれているのだ。
「逃げはしません。わたくしだけが目的なら、むしろ好都合だわ。もうこれ以上、わたくしの大切な人たちを傷つけないで」
シェリーやイルを思い出しながら、私は言った。
もちろん一番に浮かんできたのはグリードだ。そして誰一人として人間ではないことに気付き、ちょっと笑ってしまう。
「なにがおかしいの!? もっと絶望しなさいよ! 泣き叫びなさいよ!」
うっとりとした笑みを浮かべていたはずのルーナが、突然ヒステリックな叫び声をあげた。その形相はまるで別人のそれで、家族の私ですら一度も見たことのないような表情だ。
「だいたい前からあんたのことなんて大嫌いだったのよ。なんでも涼しい顔でこなして、私のこと見下してたんでしょう!?」
突然何を言い出すのかと、私は驚いた。
そんなことルーナは一度だって―――あの王の間で私を弾圧した時でさえ、言ったりはしなかったのに。
「何言ってるの? どうしてそんな……」
「あなたには分からないでしょうね。なんでもできなくて当たり前みたいな顔で、甘やかされる人間の気持ちなんて」
確かに、甘やかされる人間の気持ちなど分からない。
だって私は、彼女のような状況になったことなどないのだから。
「お勉強も、楽器も、刺繍だって、なにをやってもだめだった。教師はいつも愛想笑い。でもずっと、ルーナはそんなことできなくてもいいんだって言われ続けてきた。あなたに期待されない人間の気持ちが分かる!?」




