39
落ち込む私を心配して、さっきからイルが盛んに話しかけてくる。
「お腹すいてませんか? なにかあったらすぐに言ってくださいね!」
いたずらに心配をかけるなんて主人としては失格だなと思いつつ、重い口をなかなか開くことができなかった。
あの言葉を口にするまで、私は自分の気持ちに気づいていなかった。
いや正確には、見ないふりをしていたというのが正解だろう。
グリードの自分を特別に思ってほしいだなんて、そんな思い上がり。ただのしもべで満足していたはずだ。彼はこの世で最も尊い存在だと。
なのに、その気持ちを返してほしくなってしまった。側にいて、肩を抱いて、優しい言葉をかけてほしかった。
知識でしか知らなかった感情だ。
私がずっと持て余していた感情はそう―――恋だった。
なんて浅ましいのだろう。
家族にも婚約者にも見限られた私に、そんな価値があるはずもないのに。
大体、グリードは竜だ。人間の女相手に特別な感情を抱くはずがない。
「はず、ない……」
「え?」
思わず口から出たつぶやきに、イルが反応した。
「なにがないんですか? エリアナ様」
まだ、あまり馴染めていないドライアド。けれどジルと同じように、彼女も私に優しくしてくれる。
その時、私の頭の中にある考えが閃いた。
「ねえイル。あなた、グリード様の―――竜のことをどれだけ知ってる?」
私がグリードについて知っていることは、そう多くない。そもそも伝説だと思われていたのだから、伝承と言ってもおとぎ話じみたものが多く正確な情報とは呼べない。
「〝竜〟についてですか? 私はまだ生まれたばかりなので……すいません長に聞いてみないと」
「長?」
「はい。枝分かれする前の本株です。私は本株から枝分かれしたジルからの株分けなので、これでも長との繋がりは近いのですよ」
イルがどこか誇らしげに言うが、残念ながら私はその言葉の意味を理解することができなかった。
「ええと、その株分けというのは、親のようなものなのかしら? イルにとってはジルが母で、その長がおじいさまということ?」
「私たちは長の分身でもあるので、人間の血縁関係とは少し違います。突然変異や病で、全く違った見目になることもありますが」
どうやらドライアドというのは、人間のように子孫を増やすのではなく一株からどんどん派生していくものらしい。
「だからこそ、本株とつながる〝根〟を通じて他の苗と意思疎通したり、長のご意志を知ることができるのです」
「そ、そうなの」
心なしかイルは胸を張ってそう言った。どうやら彼女たちにとって、本株との繋がりは誇りであるらしい。いやそもそも、株分けで増えるのなら雌雄は存在しないのかもしれないが。
「じゃあ、その長に連絡を取ってもらうことも可能? どうしても、グリード様のことがもっと知りたいの」
必死にお願いすると、イルは不思議そうな顔をした。
「今更何をお聞きになりたいのです? エリアナ様はグリード様の妃でいらっしゃいますのに」
「妃と言っても、その位を与えられているだけだわ。実情を伴ったものじゃない……」
するとイルは、まるで小動物のようにきょとんと目を見開いた。
「エリアナ様は、実情を伴った妃になりたいのですか? グリード様とつがいになりたいと?」
つがいという即物的な言葉に、思わず顔が熱くなる。
「……そ、そうよ」
その一言を言うのには、たくさんの勇気が必要だった。なけなしの勇気を寄せ集めて、それでもイルの目を見て言うことはできなかった。
イルが返事をするまでの間、やけに時間が引き延ばされたように感じた。
反対されたり、呆れられたらどうしようと、心臓が子ウサギのようにぴょこぴょこ飛び跳ねている。
「ならば早速、グリード様にそうお伝えしましょう!」
そして、イルの反応は思いもよらぬものだった。腕をつかまれ、部屋の外に引っ張っていかれそうになる。
だが、こんな心の準備も何もできていないのに、グリードの前に引っ張り出されるなんてとんでもない。私は必死で抵抗した。その場にうずくまり、全体重をかけてイルの歩みの邪魔をした。
「待って! 待ってイル! 今すぐにお伝えするなんて無理よ。もしそれでグリード様に厭われるようなことになれば、わたくしはもう生きては……」
グリードによって生かされているのに、その人に見放されてしまったら一体どうなるのか。
想像しただけで目の前が真っ暗になり、頭が考えるのを拒否した。
先ほど手を振り払われたことも相まって、胸にずくずくと重苦しい闇が広がる。
私はこんなに臆病だっただろうか。カヴァネスからはいついかなる時も堂々としているようにと教えられたはずだ。
アスタリテ城で断罪されそうになった時も、グリードからの命令を違うまいと背を伸ばしていられた。
けれどもし彼に嫌われたらと思うと、立っていることすら難しく思えてしまうのだ。
彼の機嫌を損ねたくないという恐れが、すっかり私を弱くしていた。
「そんなに思い詰めないでくださいエリアナ様。すぐ長にグリード様について聞いてみますから」
そう言うと、イルは少し慌てた様子で目を閉じた。そしてしばらくの間、身動き一つしなくなる。ジルもそうだがイルも見目が整っているので、そうしていると美しい石像のように見えた。
じっとその様子を見守っていると、やがて彼女はどこか困惑した風に目を開けた。
だが私の期待に反して、一向に口を開こうとはしない。
「どうかした?」
我慢できずに尋ねると、彼女はようやく戸惑いながらも口を開いた。
「それが、長がエリアナ様にお会いしたいと」
「私に?」
これには驚いてしまう。
ドライアドたち精霊と人間は、元々祖を同じくする隣人同士だった。
しかし太古の昔、にわかに両者の間で争いが巻き起こり、両者ともに滅ぶ寸前までその諍いを続けたらしい。
見かねた七匹の竜が仲裁に入ったことで、諍いは終わった。
以来精霊は森や水辺など人を避けて暮らすようになり、人間も精霊の土地には近寄らないようになったと伝えられている。この話はあまりにも昔のこと過ぎて、諍いの原因が何だったのか、までは伝わっていない。
ただ、私たちは袂を分かってからもう長い年月が過ぎていた。だから存在そのものは知識として知っていても、逆を言えば〝いる〟ということぐらいしか知らないのが実情だった。
そして人間は精霊たちと違い、寿命が短い上教訓を忘れやすい。
ゆえに時折、精霊の土地を侵したとしてひどい目に遭う人間が出た。そのたびに私たちは思い出すのだ。人間は決して地上の覇者ではないのだと。
その精霊の―――ドライアドの長が、会いに来いという。
私が、そしてイルが戸惑うのも、無理からぬことだった。
「それは―――本当にいいのかしら?」
「はあ。私も確認したのですが、いいから連れてくるようにと……。あの、お断りしたいようでした私がうまく言いますから、無理はなさらないでください。長は私やジルの目を通してエリアナ様をご覧になっていらっしゃるはずですし、無理にドライアドの里へ行かなくても……」
イルは、出会って間もない私のことをこうして気遣ってくれる。もちろんジルもそうだ。だから、二人の縁者が会いたいというのなら、こちらも挨拶をしたいという気持ちは大いにあった。二人が尽くしてくれて本当に助かっていると、伝えたい。
なにより、悠久を生きるドライアドの長ならば、竜のことも人間より詳しく知っていることだろう。
自分を奮い立てるために、拳を強く握った。
「行くわ」
「エリアナ様……」
「二人にはお世話になってるもの。それに、お話を伺うならこちらから出向くのが礼儀よね」
まだ戸惑いを隠せない様子のイルに、私は力強く断言したのだった。




