03
「う……ぷえっ! え、なに!?」
驚いた。
起きたらそこは死者の国だと思っていたのに、ぬめぬめとした液体が顔を覆っていたからだ。
苦しくて、思わず手でその液体を払った。そしたら顔どころか手も足も体中液体だらけだった。
マグマに飛び込んだはずの私に、いったい何が起こったというのか。
『起きたか、にんげん』
私のそんなドタバタを、どうやら見ていた相手がいるらしい。
しなだれたドレスで何とか顔をぬぐい目を開けると、そこにいたのは人ではなく巨大な顔―――竜だった。
「えぇ!?」
思わず、今まで一度も出したことのないような声が出る。料理前に絞殺される鶏のような声だ。
『うるさい』
指摘され、慌てて口を覆った。
どうやらこの声の主は、目の前のドラゴンであるらしい。
混乱していた私の頭の中に、一つの答えが導き出される。
それは、この竜こそが火山に住まう竜だということ。花嫁と呼ばれる生贄をささげることで、国に平穏を約束してくれる相手だ。まさか本当にいるとは思っていなかったのだが、出会ってしまったからには相手の機嫌を損ねないようにしなければならない。
べたべたした体で、私はその場に平伏した。
王の御前ですらしないそれは、罪人が許しを請う時にするものだ。
死にに来たので死ぬことは怖くないが、竜の機嫌を損ねれば私は最後のお役目すらまともに果たせなかったことになる。
私の名誉のためにも、それだけはどうしても受け入れられないことだった。
『なにをしている? 蛙のように這いつくばって』
しかし、私の必死の平伏も、ドラゴンにとっては蛙のそれと変わらないようだった。
確かに、これほど大きさが違うのだ。多少目線が違ったところで、ドラゴンにはさして違いが分からないのかもしれない。
私は震えながら顔をあげると、目の前の竜をまっすぐに見つめた。
辰砂のような深みのある赤の硬質な鱗と、エメラルドのような美しい瞳。
ドラゴンを見たのは生まれて初めてだが、私はその生き物を、今まで見てきた物の中で最も美しいと思った。
「きれい……」
思わず、そんな感想が口をついていた。
竜が訝しむように、目を瞬かせる。発言を許されたわけでもないのになんてことをしてしまったんだと、我に返り背筋が凍った。
無駄と知りつつ反射的に岩の上に這いつくばる。
蛙でも何でもいい。この美しき竜の怒りを買わずに済むのなら。
『ふむ……』
何かを悩むように、ドラゴンが小さくうなった。
私をどう痛めつけるか思案しているのではと震えながら、審判の時を待つ。
その時間はとても長いようにも、そしてとても短いようにも感じられた。
ただ、火口に立った時は体が燃えてしまいそうなほど熱かったというのに、今は震えが止まらないのが我ながら不思議だった。
「よし、決めた」
先ほどよりも近い位置で、声がした。
低い男性の声だ。
恐る恐る顔をあげると、竜は消え去りそこに立っていたのは見目麗しい男性だった。
長いつややかな赤い髪に、切れ長の目は穏やかな翠。けれどその虹彩は、不思議なことに縦長に割れている。
私は左右を見回し、慌てて竜の姿を探した。
しかしそこにあるのは荒れ果てた少しの大地とあとは煮えたぎるマグマだけで、どうして自分とこの男性が生きていられるのか不思議になるような景色が広がっている。その中のどこを探しても先ほどの竜を見つけることはできず、私は安堵と共に小さな失望を感じた。
あの竜に食べられてようやく楽になるのだと、心のどこかで願っていたのだろう。
「おい、お前」
目の前で腕を組んだ男性が、何かを面白がるような顔で声をかけてきた。
私はあわてて立ち上がり、居住まいを正す。
名誉あるリュミエール公爵家の長女である私が、初対面の男性相手にこんなにも無様な姿をさらしているなんて許されるはずがない。
粘液だらけでなおかつボロボロの体に、鞭を打つ。
ドレスは破けているし体中が痛みを訴えるという散々な状態だが、いつでも誇りを忘れるなというのは父が口を酸っぱくして言っていたことだ。生きている限りは、その教えに従わなければならないだろう。
「わたくしは、リュミエール公爵の娘エリアナ。失礼ですが、あなたは一体どなたでしょうか?」
本来は女性から名乗ってはいけないのだが、向こうが名乗るつもりがなさそうなのでこちらから名乗ってみる。
公爵家の名前を聞くことで相手がどんな態度に出るか、それを量りたかったのだ。
しかし男は、私の家名を聞いても畏れ慄くどころか、組んだ腕を解きもしなかった。
これは彼がリュミエール公爵の名を知らない他国の者か、それとも人間の権力に鈍感な人ならざる者であることをしめしている。
さては先ほどの竜の眷属だろうかと緊張していると、男は上から下まで入念に私を品定めした後、何かに納得したように小さくうなずいてこう言った。
「気に入ったぞ娘。今からお前は、このグリード様の物だ」
その名は古い叙事詩に記された、火山に住む恐るべき竜の名前だった。