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 クリスにとってエリアナは、手の届かない月にも似た存在だった。

 いくら若くして宮廷魔術師の筆頭にまで上り詰めようと、王太子の婚約者への懸想が許されるはずもない。


 ただ、言葉を交わせるだけで―――それだけでよかった。


 彼女は気高く、そして美しかった。

 他の令嬢たちに妬まれ足を引っ張られても、そんな様子はちらりとも見せずいつも王太子か父親の後ろに静かに従っていた。

 立場の違いのせいで、クリスは何度歯がゆい思いをしたことだろう。

 平民出身のクリスがエリアナを助ければ、彼女に余計な醜聞を呼び込むことになる。

 それをおそれて、いつまでも何もしないでいたツケが、彼女自身の死となってクリスに跳ね返ってきたのだ。

 竜の花嫁には本来、竜が眠る火口まで当代の宮廷魔術師長が付き添わねばならない。

 そしてクリスは、その任務を放棄した。

 好きな女が死ぬ手伝いなど、どうしてできようか。

 せめても儀式が少しでも延期されるよう、クリスは森の隠れ家に閉じこもっていたのだ。

 久しぶりに王都の自宅へ戻ると、彼の家に仕える使用人たちは一様に驚いた顔をした。

 行方不明になっていた主人が突然現れたのだから、当たり前だ。

 そして彼の口にした言葉は、より一層彼らを驚かせた。


「金に糸目はつけない。できうる限りの物資を用意せよ。私は竜との対話のため、竜を祀る神殿へと移り住む」


 主人のいない屋敷を掃除するだけだった使用人たちは、その願いを叶えるためばたばたと慌ただしく仕事をし始めた。

 同時に、宮廷魔術師長が屋敷に戻って身支度を始めたという知らせは、瞬く間に城へと届けられたのだった。



  ***



「一体どういうつもりだ?」


 ひと月近く職務を放棄し、姿を現したかと思ったら王都から離れると言い出した宮廷魔術師長が、国王から召集を受けたのはある種当然の流れだった。


「姿を消したと思ったら、宮廷魔術師長の座を辞して竜と対話しようなどと」


 国王は、その威厳のある顔から呆れを隠そうとしなかった。

 玉座に座る彼の両脇には、王太子でああるアルヴィン・ファレル・スレンヴェールと、そして第二王子であるステファン・グランスフィール・スレンヴェールがそれぞれに控えていた。

 アルヴィンが王太子に決まってからも国王は変わらず弟を玉座の横に並べておくことから、王太子の座はまだ確定ではないと宮廷に余計な火種を生んでいたりした。

 直答を許されたクリスは、玉座の間に跪いたまま顔を上げ、ちらりとも臆する様子はなかった。


「は。かねてよりわたくしが反対しておりました竜の花嫁の儀式において、竜はもう生贄はいらないとはっきりおっしゃいました。当代の花嫁を大変お気に召したようで、以降は必要ないと。そして我がもとに現れ、彼女が生きるための物資を神殿に捧げよとおっしゃったのです」


「なんだと? では、火口に身を投げた公爵家の姫が、まだ生きていると申すか!」


 王と、そしてその隣に控えていた王太子の顔色が変わる。

 彼女が竜の花嫁となった経緯は、宮廷の多くの人間が知るところである。

 二人の脳裏には、竜に頼んで王家への恨みを晴らさんとするエリアナの姿が、同時にしっかりと思い浮かんでいた。

 そもそも竜の花嫁は、国にとってもすっかり形骸化した行事であった。

 スレンヴェールに住むのは、百年以上姿を見せていない竜である。国内の人間はだれ一人としてその姿を見たことがなく、ただ言い伝えに従って機械的に花嫁を捧げているだけであった。


「はい。実際に、わたくしはそのお姿を見て、言葉を交わしました。彼女は確かにエリアナ・リュミエール様であり、とてもお元気な様子でした」


 クリスはちらりと、王太子の様子をうかがった。

 エリアナはアルヴィンの元婚約者である。己の元婚約者の行く末をどう思っているのかと、皮肉げな気持ちが湧いてきたせいだ。

 彼は公爵家の要望に応じて、婚約者をその妹へと変えた。

 王家、あるいは貴族において婚約者の変更はそう珍しいことではないが、さすがに咎のない姉から妹への変更というのは、長い歴史の中でも珍しいことではあった。


「ふむ。姫は我々を恨んでいる様子であったか? 竜に懇願して王都を襲撃するような可能性は―――……」


 国王の言葉は、歯切れの悪いものだった。

 当然だろう。姿を見たこともない竜の脅威を、どう具体的に想像しろというのか。

 彼は侍従に、伝説や歴史に詳しい学者や竜と関わりの深い宗派の宗教家たちを呼び寄せるよう命じた。

 常に最悪の事態を想定して動かねばならないのは王としての務めだが、冷静な判断を下すために必要な情報が、王には圧倒的に足りていなかった。


 そして、クリスはこの質問にどう答えるべきか一瞬躊躇した。

 正式に神殿へと向かう許可を取るため王への報告をしたものの、彼は将来的にエリアナの不利になるようなことはできるだけ避けたいと考えていた。

 エリアナに恨みがある様子だったと答えて王太子を青くさせるのは簡単だが、暗殺部隊が組まれるなど、その返答がのちに彼女を窮地に追い込む可能性は否定できない。

 クリスはエリアナに、もう権力の関係ないところで穏やかに暮らしてほしいと思っていた。

 同時に、そのそばに自分がいることができるなら宮廷魔術師長の地位になどちっとも未練はなかった。


「いいえ陛下。エリアナ嬢はなにも……ただ、もう王都にはお戻りになりたくないご様子でした。彼女の境遇を思えばその、それも無理からぬことかと」


 クリスはやんわりエリアナが戻る可能性はないと伝えたかったのだが、心に後ろめたいものを持つ王太子がどう反応するかまでは、予想がついていなかった。

 そして彼の不用意な一言が、王国に混乱を陥れることになろうとは、この場にいる者はまだ誰も、想像がついていなかったのだった。




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