狐の瞳-め-
さくさくと削るような、きしきしと軋むような、あおびかりする雪。とがったまっ黒い杉の影が、ぷっかり浮かんだお月さんをくすぐって、今にも笑いだしそうだった。
この平凡な男、幸之助は、病の娘のため、鬼の首を取りにやってきた。鬼の角を粉にして、白湯に溶かして飲ませれば、どんな病も治ると。そんな根も葉もない噂に、ひとすじばかりの望みをかけて、たった一人の娘のために、刀を携え蓑をかぶり、三つの山と三つの村を越えて、ここまで来たのだ。
すこしばかり谷になった頃、鬱蒼としていた森がひらけ、見え隠れしていたお月さんが、ヤアと見えるようになった。あたりは一面に雪が積もって、青い光をきらきらはね返していたので、足音も吸い込まれそうな風景がぼんやりと見えてきた。なめらかな雪から突き出た、草の切り株は、田畑の名残だろうか。そうであれば、この一帯が開けているのも合点がいく。きっと民家もあることだろう。
風がないとはいえ、足下からじんじんとあがってくる寒さと、肌をつきさすような寒さは、確実に幸之助の体力を奪っていく。畔道は人の往来があるのだろうか、積もる雪がやや薄いのが救いである。
肩をゆすって、ずり落ちた蓑を整えた時、ぽつんとゆれる灯りを見つけた。開けた田畑の中、さほど遠くないところに、一軒だけ灯りがある。自然と早足になる幸之助。鳥も虫も鳴かないこの夜に、雪と砂利を踏みしめる音が響いた。
民家の前まで来て、戸の上に看板がかかっていることがわかった。うねった流木をうすく切ったもので、「月下茶屋」と達筆で書かれている。戸の向こうは灯りがあったので、御免と開けてみた。
土間の先は、行燈と火鉢が置かれた十畳ほどの部屋が一つ見えるだけで、特に凝った様子もなく、玄関からぐるりと外廊下が伸びている質素な造りだった。
「もしもし、どなたかおられんか」
廊下の向こうに声をかける。灯りがあるだけで、なんだか奇妙だと思いそうになっていると、奥からハアイと返事がした。それから足音と、布がすれる音が近づいてきて、ななかまど色の矢絣を着た女が、髪を結いながら出てきた。長いみどりの黒髪は、まるで河のようで、整いすぎていない顔がちょうどよく、幸之助はすこしばかり見とれてしまった。
「お待たせを。どうぞ、お上がりください。蓑はこちらで」
蓑を土間の隅にかけて、畳に上がって腰をおろした。慣れない手つきで刀も置くと、女が湯のみと漬け物を持ってきた。かたわらに置かれた刀をちらと見ると、驚く様子もなく訊いた。
「お侍さまでございますか」
「いや、しがない村男よ。この刀は、そうさな、賊どもから身を守るためのものというところだ」
茶をすすってから、漬け物を口に放りこんだ。熱い茶は、冷えた体によくしみた。
なにげない世間話で、湯のみの茶も半分になった頃、玄関の戸が音を立て、隙間から風がピイピイ入りはじめた。
「オヤ、急に激しくなりましたねえ。旦那さま、これからまた外に出られますの?行くあてなどはおありで?寝るだけで良ければお泊めできますよ」
それは有難い、と言葉に甘え、銭ならある、と懐から銭袋を取り出してみせた。まア、と女は驚いて、宿みたいなおもてなしもできないところですが、と頭を下げた。
「しかしまア、よくこんな辺鄙なところまで来てくだすったこと。お知り合いでもいらっしゃるんですか」
幸之助は、可笑しいと思ってくれ、と前置きをして、病の娘のために鬼の首を取りに来たことを話した。女は真剣にその話に耳を傾けていた。
「鬼でございますか。裏のお山には、鬼の住む東屋があるとか、祠があるとかは知っていますが。私はいるともいないとも聞いたことがございませんねえ」
「お前さんが知っていることは、特にないと」
女の申し訳なさそうな返答は、戸が風に揺さぶられる音にかき消されてしまった。と、勢いよく冷たく強い風が吹き込んできた。思わず玄関を見ると、オオさむいさむい、と若い男が入ってきて、ピシャリと戸を閉めたところだった。結われた髪や肩の雪をはらい落とし、玄関に腰かけた。
「オヤ、寒かったでしょう。今お茶をお持ちしますね」
「イヤイヤ、さむかった。アア園や、茶はうすめでいいよ」
園と呼ばれたその女は、廊下の向こうへと消えた。玄関に腰かけた男は、侍には見えない。かといって畑を耕してきたようにも見えない。どこか歌舞いた髪型と、整った目鼻立ちが、そう見せるのだろうか。
「ヤア、さむいですな。外はもうふぶきですぜ、だんなさま。しかし、こんな所にどんなごようじで」
「そうさな。この辺りに出ると言う鬼を討ちに来たが、お前さまはそんな噂を信じる口かね」
「噂といいますか、たしかにこの辺りにゃ、鬼のでんせつやら、おはなしやなんかがございますがね。まア見たとか見ないとか、そういった話はききませんなア」
園が持ってきた茶を有り難そうに受け取ると、小銭を出して、何回か数えてから、あとから渡そう、と笑った。園は、エエわかりました、旦那さまのお布団もお持ちしますね、とまた廊下へと消えた。若い男は、がまがえるみたいな口がついた財布をひっくりかえして、ばらばらと音を立てて、小銭を一生懸命数えている。
園が布団を抱えて戻ってくるのと同時に、若い男はばらまいた小銭をかき集めながら、アアもうわからんからぜんぶもらってくれ、と諦めたように財布を置いた。
「ありがとうございました。もう行かれるんですの」
「そろそろ帰らねばな。かかさまが俺の帰りを待っているから」
そう言うと、戸の外に出たあと、幸之助に軽く会釈をして、いくらかおさまった吹雪のなかで戸を閉めた。
「ひ、ふ、み、よ、少し多く頂いてしまいました。次来た時に返さないと。アラ、これは忘れ物かしら」
布団を部屋の隅に置き、小銭を数えていた園が、小さなお守りのようなものをつまみあげた。どこかの社の土産だろうか、紫色の、つるつるした質のいい布に、金の糸で刺繍が入ったお守り。あの変わった財布をひっくりかえした時に、一緒に転げ出たのだろう。園は、それを柱のささくれにひっかけて、もし来たらこれでわかりますねなど笑うと、それではごゆるりと、もう火は消してかまいませんから、何かあればお呼びくださいと言って、廊下の向こうへ消えた。どこのお守りだろうか。なんとなくささくれから外して、手に取ってみた。中には砂が入っているのか、紙や石だけが入っている手触りとは違った。ささくれに戻そうとしたが、うまくはさまらなかったので、しかたなく枕元に置いておこうと決めた。
しかし、園といいあの若い男といい、この辺の者はよそ者の幸之助に親切だ。こんな吹雪の夜に、村の人にまで冷たくされては、身も心も凍え死んでしまう。有難いことだと実感しながら、布団を広げ、行燈を消して横になった。火鉢の炭が崩れる音と、風で戸や壁ががたがた言うのを聞きながら、ゆっくり目を閉じた。
何かが動く音で目を覚ました。
火鉢の火は、ほとんど消えかかっていて、玄関の戸は開け放たれ、雪があおい月光に照らされている。眠る前の吹雪が嘘のように、ゆっくりと雪が舞っていた。それから土間で何かが動いている。刀をそばによせながら、起き上がった。動いていた影が、ピタと止まった。
「おこしてしもうたか。イヤ、おきなんだら揺すぶろうかと思うてはいたが」
聞き覚えのある声。先刻の若い男だろう。あおい月光と暗さに目が慣れたことで、やや見えるようになった。若い男の姿を捉えた幸之助は、刀を取って布団から飛び起きた。戸の障子に浮かび上がる影は、二本の角が伸びるまさに鬼。
「貴様、鬼であったか」
今夜ここにやってきた幸之助を見て、人間のふりでもして入ってきたのだろう。女の名前を知っていたり、母親の存在を騙ったりするあたり、普段から人間に化け慣れているということか。なじまない柄を握りしめ、刀を抜いた。
「その首その角、斬らせてもらう」
「そう猛るな。俺はおまえを喰ろおうなどかんがえてはおらぬ」
震える声とはうらはらに、鬼はなだめるように爪の伸びた手のひらを見せた。そして土間のあたりをきょろきょろとした。
「このへんに、ちいさい袋をおとした。みておらんか」
「それはこのおれが持っている。貴様の角と引き換えじゃ」
鬼はオヤそうかと言うと、長い指で頭を搔いた。
「もうおまえが拾っておったのか。イヤあれをおまえにわたそうとおもうて、また来たのだ」
「人間ぶるのはやめい!!」
幸之助は思わず声を荒げ、刀を振り上げた。すると鬼も負けじと声を張った。
「その袋をひらったならば、疾くここをされ、まなむすめがまつ男よ」
異形の存在の、その語気の鋭さに、幸之助は固まってしまった。そんな幸之助を気にするようすはなく、鬼は先刻のように、玄関に腰かけた。
「ハア、声をあらげたのはひさかたぶりだ。とにかくな、おまえはその袋をもって、もときた道をかえるのがいい。そのなかには万病にきくくすりをいれてある。俺のつのなどより、よっぽどきくだろう」
幸之助は迷った。鬼の言うことだ、信じていいのか。なぜ、何故、鬼が人間を助けるのか。鬼はまた続けた。
「このむらのものどもは、山にすむこの俺を、おそれもしなかったしあがめもしなかった。俺はにんげんに山のめぐみをわけあたえ、にんげんは俺に粟やらやさいやらをわけてくれた。俺はにんげんがすきだった。はは、おまえ、きいてくれるか」
いつの間にか幸之助は刀をおろし、鬼の話に聞き入っていた。
「なのに、なア。八ねんまえのおおあめだ。ごべうの山の土なだれと、みがちの川のおおみずで、この、うごどの谷は一ばんでしずんでしもうた。みんなみんな、おびえてねむっていたのに。死んだことに気がつかないまま、まいばんむかしのすがたでここにいるのだ。おまえも、陽がのぼるまえに、もときた道をかえるがいい。でなければ、ここからずうっと出られなんだ」
「おれはてっきり、鬼と言うから、人を喰うような、そんなものだと思っていたが」
幸之助は刀を鞘に納めた。それから、枕元に置いておいた、紫色のお守りを手に取った。この地に昔から住んでいて、半ば神仏に近い存在なのだろうか。それでも、山や生きものと共にありつつも、神仏とは相容れない存在。鬼の顔が、少し綻んだ気がした。
「俺のつのでなくてわるいな。だが、このごべうの山の薬草や薬木をこなにしたものだ。くすりにかわりはない」
「ああ、有難く」
懐にお守りをしまったのを見届けると、鬼は膝に手をついてから立ち上がり、外へと出た。雪はもう止んでいて、影の向きから、月がもう傾いていることがわかった。幸之助も、刀を腰に、蓑を思い出したようにかぶり、外へ出た。無風の、一面の雪景色は、来た時と同じだった。
月明かりの下の鬼は、あの若い男と同じ、整った目鼻立ち、どこか歌舞いた髪型、それと額から突き出すように伸びる角。雪に埋もれる素足が、冷たそうだった。
「夜のあいだに、おまえがきたほうの、みおうの山へはいるがいい。園には俺から言っておこう」
「有難く。どうか、先ほどのご無礼をお許しください」
幸之助は深深と頭を下げた。鬼は軽快に笑うと、きにするな、おまえのためだ、さア行けと言った。幸之助は、小さく会釈をして、みおうの山へ向かって、歩き始めた。
畔道に薄く積もった雪を、音を立てて踏みしめる。そこまで時間もかからずに、鬼の言った、みおうの山の入口にたどり着いた。山の中へ足を踏み入れた時、強く風が吹いて、まるで川がうねりをあげるように、鬱蒼とした木々が大きく揺れた。
幸之助は、また三つの山と三つの村を越えて、娘の待つ、自分の家へと帰りついた。紫色のお守りを開けると、薄い紙切れに包まれた、薄茶色の粉が一口。娘に飲ませると、長いこと苦しんでいた咳も、痒かった麻の実みたいなできものも、三日のうちに引いていった。鬼から薬をもらったことは、誰にも言わなかった。きっと誰にも信じてもらえないだろう。
娘の容態もすこぶる良くなった頃、鬼に礼を言いに行こうと思い立ち、幸之助はまた三つの山と三つの村の先にある、うごどの谷に行った。が、どこまで行っても山道で、あの開けた田園には行きつかない。しまいには、近隣の村も、うごどの谷など聞いたことがない、そんな村はないと言う。狐につままれたような気分を味わいながらも、あの鬼の不思議な力を感じ、また自分の村へと帰るのだった。
とがったまっ黒い杉の影が、ぷっかり浮かんだお月さんをくすぐって、今にも笑いだしそうだった。