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鏡張りの部屋  作者: 市川滝
2/10

秘密

その日の夕方。学校から帰った僕を待ち受けていたのは、案の定、玄関のすぐ側で鬼のように睨む母さんだった。

既に全身は震えが止まらず、咄嗟に、両足が動かなくなる。けれども、決して中に入る事を拒む事は出来ない。

随分と興奮した様子の母さんは、甲高い声でまず玄関の中に入るよう指示した。


こんな時でも、母さんはご近所の目や、体裁だけは気にしている。

外で怒鳴り声でもあげたらどうなるか、ちゃんと知っているのだ。

もたつく僕の髪を引っ張りながら、無理やり中へ引きずり込み、僕はそのまま玄関先のフローリングに倒れこんだ。

「ぎゃああああっ‼痛い‼」

倒れた衝撃よりも、髪を引っ張れた痛みで、声と同時に涙が溢れ出した。

大急ぎで玄関のドアを閉めると、泣きながら倒れている僕に、絶妙なタイミングで怒鳴りつける。

「そこに立ちなさい‼今すぐ立って、聞きなさい‼」

そして、数々の罵声を浴びせなら、僕がどんなに悪い子かと罵った。

綺麗にネイルをした赤い爪が、僕の頬を抉るようにして、力一杯叩いていく。

強い力に踏ん張りが効かず、よろけた所に腕を捕まれ、今度はすかさずリビングに連れていかれた。

リビングに連れていかれたら、もうどうしようも出来ない事を知っていて、人形のように抵抗する事すら出来ない。

「学校の給食を盗み食いするなんて、私があんたに何もあげて無いみたいじゃないの‼」

作り上げられたお化粧の顔も、今までに無いほどに歪んでいた。

怖い。痛い。苦しい。

それでも、僕は助けてとは言わない。

そんな大それた事を言えば、母さんへの挑発になってしまう。

それに、誰も助けてくれない事を、僕は知っている。

声の叫びも、心の叫びも、いつだって誰に届く事も無い。


弟の秀も、まだ帰って来ないこの時間帯。

僕と母さん、二人だけの最も残酷な時間。

真っ赤に腫れあがった頬と、また新しく出来た痣。

もはや泣き声は、叫び声に近い。

しゃくり泣きながら、謝る意味も分からず、ただひたすらごめんなさいとだけ繰り返した。

しかし、どんなに謝っても許してもらえない事は多々ある。この日も丁度、そんな日だった。

きっと、相当母さんのシャクに触ったのだろう…。


その日、初めて僕は、あの部屋に連れていかれた。

二階、廊下の突き当り。

あの、鏡張りの部屋だ。

母さんは、乱暴に掴んだ僕の腕を、その部屋に放り捨てるように離すと、爆発音のような音で、部屋のドアを閉めた。

反射的にビクリとする僕に、母さんはまた追い打ちをかける。

「今日は、夕飯抜きだからね‼」

ドアの向こう側で、怒鳴り声と共に、しっかりと鍵を閉める音が聞こえた。

気が済むまで叩かれ、蹴られた僕の体は、時間が経ってもなお、体中が焼けつくような痛みを感じた。

何をされるか分からない。

殺されるかもしれない。


自分の母親に対して、そんな風に思うのは僕だけだろうか。


こんな事、今に始まった事ではない。

だけど、僕の心は何度でも傷ついた。

母さんが吐き捨てるように言う、否定の言葉には、それだけの力があるのだ。

大量の涙は、体中の水分を出し切って、ボロボロの汚い服をまた汚した。

灯りが無く、真っ暗な部屋。

音も無く、夏場でも異様な寒気を感じる部屋は、どこまでも続いている闇に感じた。


「うるせぇーなぁ。」

その時突然、何処からともなく、誰かの声が聞こえた。

母さんでもない。

まして、弟の秀の声でもなかった。

奥からガサガサと、段ボールや物をかき分けて、誰かが入って来たのが分かった。

得体の知れない恐怖に、咄嗟に物影に隠れると、その場に膝を抱えてうずくまった。その後は、ひたすら息を殺して様子を伺う。

静寂の中に、ギシギシと不穏な足音が鳴る。

誰かに助けを求める事も出来ず、口に手を当てたまま、静かに目を閉じた。

しかし、足音はまるで、僕の居場所が分かっているかのように、迷わずこちらに向かって来る。

「おい。」

足音は僕の前で止まり、その声は僕だけを呼んだ。

仕方なしに恐る恐る目を開けてみると、そこにいたのは、僕と同じ歳くらいの男の子だった。

「お前、うっさいわ‼泣くならもっと、静かに泣けよな~。」

突然現れたその少年は、終始しかめっ面な顔をして、いきなり話し始めた。

そして、名前も知らないその少年は、慣れた様子で埃を払い、僕の目の前にドカッと座った。

「えっ?…あっ、えっと…。」

状況が呑み込めず、途切れ途切れになる言葉を、少年はすぐに遮る。

「だから‼お前の泣き声、外まで思いっきり聞こえてんだよ‼」

―え?―

この言葉で、僕は全てを理解した。

どうやら、力無くすすり泣く声は、部屋の外の方まで漏れていたらしい。

そこに、たまたま通りかかったこの少年が、外から僕の泣き声を聞いて、入って来たというのだ。

それを知って、急に恥ずかしさが込み上げてきた僕は、俯きながら深い溜息を吐いた。

そんな様子を見た少年は、少しクスっと笑うと、さっきとは違う声で僕に聞いた。

「お前、名前は?」

「僕は優。森本優。」

「君の…名前は?」

聞きたい事は山程あったけど、僕もちゃんと手順を踏む事にした。

「俺は、海。〝うみ〟って書いて海な。」

海という少年は、苗字を名乗らかった。

あったばかりだし、名乗るほどでもないと思ったのかもしれないけど、きっとこの辺の近所の子供なのかもしれない。

「海は、どこから来たの?」

「なんだお前、知らなかったのかよ。そこ、窓ガラスがあるんだぜ。」

「え!」

聞きたかった答えとは違ったけど、それはそれで衝撃を受けた。

海が指をさした方向には、段ボールをかき分けた時に出来た一筋の光が差し込んでいた。

手招きされるがままに行ってみると、本当に子供が入れるくらいの小窓がある。

「本当だ…。」

ただ驚く僕に、海も驚いているようだった。

「なんだ、本当に知らかったのか。ここに住んでんじゃないのかよ。」

「ここ、物が多いから…。」

別に何も悪い事をした訳ではないが、申し訳無さそうに僕は言う。

いつもの悪い癖だ。

「でも、ここは二階だよ?どうやって登って来たの?」

「窓のすぐ脇に、非常用の階段があるだろ。

まあ…ちょっと、ボロいけど。」

海の言った通りだ。

半年も住んでいるのに、いつも鍵の掛かった開かずの間の事は、何も知らなかった。

だけど、彼にとってそんな事はさして重要な事ではないのか、海は気にせず喋り続けた。

「大体、お前ら家族が来るまでは、ここはずっと空き家で、俺の秘密基地だったんだぞ‼」

「えっ!そうなの?」

「そうだよ!たくっ、せっかくいいとこ見つけたと思ったのによ~。」

「ごめん…。」

その話が本当だったとしても、謝る必要はない。けれどもつい、またいつもの謝り癖が出てしまう。

「じゃあ、海はこの辺の近所に住んでるの?」

「まぁな…。この街にはずっと住んでるからな。」

やっぱり思った通りだ。

こんな夜中に、こっそり抜け出して来れるなんて、よっぽど家が近いのだ。

実際、ここは住宅街で、僕の家の周りも隣接した家々は、だいぶ密集している。

もしかしたら、学校も一緒かもしれない。

気になり出したら、止まらなかった。

こんな事は珍しい。臆病心よりも、好奇心の方が勝るなんて…。

早く、答え合わせがしたい。そんな気持ちで一杯だった。

「海って…年はいくつ?」

「八歳。」

やっぱり、歳も同じだ。学校が一緒なら学年も同じ。

小さな偶然に、僕の心はすっかり踊った。

「じゃあ、海が通っている小学校って、僕と同じ花巻小学校だよね!」

「…。」

だけどこの質問をした途端、おしゃべりだった海は、急に黙ってしまった。

「ごめん…。」

はっとして、やっと我に返った僕は、咄嗟に謝った。聞かれたくない事だったのかもしれない。

チラッとこちらを見た海が、窓越しに外を見つめて言った。

「俺…学校行って無いから。」

「え?」

踏み込み過ぎないよう、今度は慎重に聞く。

「…お母さんとかは怒らないの?」

「バーカ、親の言う事なんて聞くかよ。」

真っ先に浮かんだ言葉ではなかったが、あえて〝どうして〟というフレーズは避けた。


僕達は似ているかもしれない。何故か、この時そう思った。

でも、同じ痛みはない。だから、馴れ馴れしくしてはいけない。

毎日、母さんの機嫌に怯え、言いなりになる事でしか、生きていけない。僕は、所詮そういう人間だ。

ほんの少しの差と言うだけなのに、こんなにも遠く感じてしまう。

「いいなぁ~。海はかっこいいなぁ~。」

ボソッと漏らした本音に、海は意外にも喜んでくれた。

「へっ!当たり前だろ‼大人の言う事なんて信用できるかぁ‼」

あんなに寒く感じたこの部屋も、海と話をしている間は、全く寒気を感じない。

笑いながらそう言う海に、僕もそうだねと笑って頷いた。


他愛もない会話をして笑い合う。

そんな、当たり前の事でさえ、僕には初めてだった。束の間の、ささやかな幸せ。

その一瞬に、少しだけ触れられた気がして嬉しかった。

「じゃあ、秘密基地も今日で終わりだし、そろそろ帰るわ。」

海がそう言って、時間があっという間に経っていた事に気が付いた。

外はまだ真っ暗だが、時間も気にせず、誰かと喋ったのは初めてだ。

器用に窓の冊子の上に座り、古びた階段に足をかけようとする海の服の袖を、考えるよりも先に掴んでいた。

「待って‼」

心臓がバクバクし、吐く息が震える。

こんな、大冒険をしたのは初めてだ。

「ん…?どうした?」

僕の突然の行動に、海の背中が振り返る。

「あっ、いやっ、その…。」

けれども、僕の言葉は、途切れ途切れになった。いざと言う時になって、また臆病心が顔を出したからだ。

すると海は、一旦部屋の中に戻り、僕にちゃんと向き直って言った。

「今日は楽しかった。ありがとな。」

海は、何でもない顔をして、サラリとそう言ってくれた。やっぱり、海はこんな僕にも優しい。

それが、余計に僕の我慢を効かなくしてしまった。

「また、来れる…?」

「え…?」

言った手前で不安になり、顔を伏せた。


たぶん、今日の僕は絶対に変だ。


「…いいのか?」

「え…?」

自分から、聞いておいて驚いた顔をしてしまった。しかし、顔を上げた先には、海が嬉しそうに笑っている。

心臓の鼓動が、嘘のように柔らでいくのを感じた。


翌朝。 部屋の鍵を開ける音が聞こえ、僕は眠りから覚めた。

昨日、海が帰った後、いつの間にか寝てしまっていたみたいだ。

母さんは、ドアを開ける事なく、下のリビングまで降りてくるよう言った。

だが、トントンと階段を降りていく音は、途中で僕を急かす声に変わる。

「降りてきなさい!学校遅刻するわよ。」

空腹と、痛みでフラフラしながら、顔も洗わずに、リビングまで降りて行く。

そして、母さんにバレないように、食卓の椅子にそっと座った。

ネズミのような汚い体と、埃だらけの服で、朝食を口一杯に詰め込む。

ご飯を噛むたび口元が痛むのは、昨日頬をぶたれた痛みが、まだ残っているからだ。

ようやく、僕が降りてきた事に気づいた母さんは、茶碗を拭きながら、台所の方から出てきた。

そして、速足で出て来ると、僕の顔を確認するように、小言を言った。

「降りて来たなら、挨拶くらいしなさいよ‼それとね、今度また同じような真似したら、夕飯抜きだからね!分かった?」

「…はい。」

返事をするのも、口が痛かった。でも、それを悟られてはいけない。

朝食を詰め込みながら、か細く返事をした。

僕は、ボサボサの髪で下を向いたまま、朝食をむさぼり、母さんはあからさまに嫌そうな顔をする。

僕は、また申し訳なさそうな顔をした。


そして、頭の中だけで昨日の事を思い出していた。

海は、僕の事を汚いとは言わない。

僕の服を臭いと咎めたりはしなかった。

勉強が出来ないからと言って、出来損ないだとは言わない。

それが、普通と認められたようで、なんだか心地よかった。

やっと、人間として扱って貰えたようで、嬉しかった。

自分がこんなに笑えるんだと初めて知った。

あの瞬間だけが、僕の生きている時間を忘れられたんだ。

スタスタと台所に戻っていくスリッパの音。

つけっぱなしのテレビは、いつもと変わらない朝のニュースを伝えている。

いつもと違うのは僕。

僕は、秘密を持った。

僕と海との事。母さんは知らない。

今、少しだけ母さんに勝った気になれているのは、昨日の事があったからだ。


僕は、秘密を持っている。



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