秘密
その日の夕方。学校から帰った僕を待ち受けていたのは、案の定、玄関のすぐ側で鬼のように睨む母さんだった。
既に全身は震えが止まらず、咄嗟に、両足が動かなくなる。けれども、決して中に入る事を拒む事は出来ない。
随分と興奮した様子の母さんは、甲高い声でまず玄関の中に入るよう指示した。
こんな時でも、母さんはご近所の目や、体裁だけは気にしている。
外で怒鳴り声でもあげたらどうなるか、ちゃんと知っているのだ。
もたつく僕の髪を引っ張りながら、無理やり中へ引きずり込み、僕はそのまま玄関先のフローリングに倒れこんだ。
「ぎゃああああっ‼痛い‼」
倒れた衝撃よりも、髪を引っ張れた痛みで、声と同時に涙が溢れ出した。
大急ぎで玄関のドアを閉めると、泣きながら倒れている僕に、絶妙なタイミングで怒鳴りつける。
「そこに立ちなさい‼今すぐ立って、聞きなさい‼」
そして、数々の罵声を浴びせなら、僕がどんなに悪い子かと罵った。
綺麗にネイルをした赤い爪が、僕の頬を抉るようにして、力一杯叩いていく。
強い力に踏ん張りが効かず、よろけた所に腕を捕まれ、今度はすかさずリビングに連れていかれた。
リビングに連れていかれたら、もうどうしようも出来ない事を知っていて、人形のように抵抗する事すら出来ない。
「学校の給食を盗み食いするなんて、私があんたに何もあげて無いみたいじゃないの‼」
作り上げられたお化粧の顔も、今までに無いほどに歪んでいた。
怖い。痛い。苦しい。
それでも、僕は助けてとは言わない。
そんな大それた事を言えば、母さんへの挑発になってしまう。
それに、誰も助けてくれない事を、僕は知っている。
声の叫びも、心の叫びも、いつだって誰に届く事も無い。
弟の秀も、まだ帰って来ないこの時間帯。
僕と母さん、二人だけの最も残酷な時間。
真っ赤に腫れあがった頬と、また新しく出来た痣。
もはや泣き声は、叫び声に近い。
しゃくり泣きながら、謝る意味も分からず、ただひたすらごめんなさいとだけ繰り返した。
しかし、どんなに謝っても許してもらえない事は多々ある。この日も丁度、そんな日だった。
きっと、相当母さんのシャクに触ったのだろう…。
その日、初めて僕は、あの部屋に連れていかれた。
二階、廊下の突き当り。
あの、鏡張りの部屋だ。
母さんは、乱暴に掴んだ僕の腕を、その部屋に放り捨てるように離すと、爆発音のような音で、部屋のドアを閉めた。
反射的にビクリとする僕に、母さんはまた追い打ちをかける。
「今日は、夕飯抜きだからね‼」
ドアの向こう側で、怒鳴り声と共に、しっかりと鍵を閉める音が聞こえた。
気が済むまで叩かれ、蹴られた僕の体は、時間が経ってもなお、体中が焼けつくような痛みを感じた。
何をされるか分からない。
殺されるかもしれない。
自分の母親に対して、そんな風に思うのは僕だけだろうか。
こんな事、今に始まった事ではない。
だけど、僕の心は何度でも傷ついた。
母さんが吐き捨てるように言う、否定の言葉には、それだけの力があるのだ。
大量の涙は、体中の水分を出し切って、ボロボロの汚い服をまた汚した。
灯りが無く、真っ暗な部屋。
音も無く、夏場でも異様な寒気を感じる部屋は、どこまでも続いている闇に感じた。
「うるせぇーなぁ。」
その時突然、何処からともなく、誰かの声が聞こえた。
母さんでもない。
まして、弟の秀の声でもなかった。
奥からガサガサと、段ボールや物をかき分けて、誰かが入って来たのが分かった。
得体の知れない恐怖に、咄嗟に物影に隠れると、その場に膝を抱えてうずくまった。その後は、ひたすら息を殺して様子を伺う。
静寂の中に、ギシギシと不穏な足音が鳴る。
誰かに助けを求める事も出来ず、口に手を当てたまま、静かに目を閉じた。
しかし、足音はまるで、僕の居場所が分かっているかのように、迷わずこちらに向かって来る。
「おい。」
足音は僕の前で止まり、その声は僕だけを呼んだ。
仕方なしに恐る恐る目を開けてみると、そこにいたのは、僕と同じ歳くらいの男の子だった。
「お前、うっさいわ‼泣くならもっと、静かに泣けよな~。」
突然現れたその少年は、終始しかめっ面な顔をして、いきなり話し始めた。
そして、名前も知らないその少年は、慣れた様子で埃を払い、僕の目の前にドカッと座った。
「えっ?…あっ、えっと…。」
状況が呑み込めず、途切れ途切れになる言葉を、少年はすぐに遮る。
「だから‼お前の泣き声、外まで思いっきり聞こえてんだよ‼」
―え?―
この言葉で、僕は全てを理解した。
どうやら、力無くすすり泣く声は、部屋の外の方まで漏れていたらしい。
そこに、たまたま通りかかったこの少年が、外から僕の泣き声を聞いて、入って来たというのだ。
それを知って、急に恥ずかしさが込み上げてきた僕は、俯きながら深い溜息を吐いた。
そんな様子を見た少年は、少しクスっと笑うと、さっきとは違う声で僕に聞いた。
「お前、名前は?」
「僕は優。森本優。」
「君の…名前は?」
聞きたい事は山程あったけど、僕もちゃんと手順を踏む事にした。
「俺は、海。〝うみ〟って書いて海な。」
海という少年は、苗字を名乗らかった。
あったばかりだし、名乗るほどでもないと思ったのかもしれないけど、きっとこの辺の近所の子供なのかもしれない。
「海は、どこから来たの?」
「なんだお前、知らなかったのかよ。そこ、窓ガラスがあるんだぜ。」
「え!」
聞きたかった答えとは違ったけど、それはそれで衝撃を受けた。
海が指をさした方向には、段ボールをかき分けた時に出来た一筋の光が差し込んでいた。
手招きされるがままに行ってみると、本当に子供が入れるくらいの小窓がある。
「本当だ…。」
ただ驚く僕に、海も驚いているようだった。
「なんだ、本当に知らかったのか。ここに住んでんじゃないのかよ。」
「ここ、物が多いから…。」
別に何も悪い事をした訳ではないが、申し訳無さそうに僕は言う。
いつもの悪い癖だ。
「でも、ここは二階だよ?どうやって登って来たの?」
「窓のすぐ脇に、非常用の階段があるだろ。
まあ…ちょっと、ボロいけど。」
海の言った通りだ。
半年も住んでいるのに、いつも鍵の掛かった開かずの間の事は、何も知らなかった。
だけど、彼にとってそんな事はさして重要な事ではないのか、海は気にせず喋り続けた。
「大体、お前ら家族が来るまでは、ここはずっと空き家で、俺の秘密基地だったんだぞ‼」
「えっ!そうなの?」
「そうだよ!たくっ、せっかくいいとこ見つけたと思ったのによ~。」
「ごめん…。」
その話が本当だったとしても、謝る必要はない。けれどもつい、またいつもの謝り癖が出てしまう。
「じゃあ、海はこの辺の近所に住んでるの?」
「まぁな…。この街にはずっと住んでるからな。」
やっぱり思った通りだ。
こんな夜中に、こっそり抜け出して来れるなんて、よっぽど家が近いのだ。
実際、ここは住宅街で、僕の家の周りも隣接した家々は、だいぶ密集している。
もしかしたら、学校も一緒かもしれない。
気になり出したら、止まらなかった。
こんな事は珍しい。臆病心よりも、好奇心の方が勝るなんて…。
早く、答え合わせがしたい。そんな気持ちで一杯だった。
「海って…年はいくつ?」
「八歳。」
やっぱり、歳も同じだ。学校が一緒なら学年も同じ。
小さな偶然に、僕の心はすっかり踊った。
「じゃあ、海が通っている小学校って、僕と同じ花巻小学校だよね!」
「…。」
だけどこの質問をした途端、おしゃべりだった海は、急に黙ってしまった。
「ごめん…。」
はっとして、やっと我に返った僕は、咄嗟に謝った。聞かれたくない事だったのかもしれない。
チラッとこちらを見た海が、窓越しに外を見つめて言った。
「俺…学校行って無いから。」
「え?」
踏み込み過ぎないよう、今度は慎重に聞く。
「…お母さんとかは怒らないの?」
「バーカ、親の言う事なんて聞くかよ。」
真っ先に浮かんだ言葉ではなかったが、あえて〝どうして〟というフレーズは避けた。
僕達は似ているかもしれない。何故か、この時そう思った。
でも、同じ痛みはない。だから、馴れ馴れしくしてはいけない。
毎日、母さんの機嫌に怯え、言いなりになる事でしか、生きていけない。僕は、所詮そういう人間だ。
ほんの少しの差と言うだけなのに、こんなにも遠く感じてしまう。
「いいなぁ~。海はかっこいいなぁ~。」
ボソッと漏らした本音に、海は意外にも喜んでくれた。
「へっ!当たり前だろ‼大人の言う事なんて信用できるかぁ‼」
あんなに寒く感じたこの部屋も、海と話をしている間は、全く寒気を感じない。
笑いながらそう言う海に、僕もそうだねと笑って頷いた。
他愛もない会話をして笑い合う。
そんな、当たり前の事でさえ、僕には初めてだった。束の間の、ささやかな幸せ。
その一瞬に、少しだけ触れられた気がして嬉しかった。
「じゃあ、秘密基地も今日で終わりだし、そろそろ帰るわ。」
海がそう言って、時間があっという間に経っていた事に気が付いた。
外はまだ真っ暗だが、時間も気にせず、誰かと喋ったのは初めてだ。
器用に窓の冊子の上に座り、古びた階段に足をかけようとする海の服の袖を、考えるよりも先に掴んでいた。
「待って‼」
心臓がバクバクし、吐く息が震える。
こんな、大冒険をしたのは初めてだ。
「ん…?どうした?」
僕の突然の行動に、海の背中が振り返る。
「あっ、いやっ、その…。」
けれども、僕の言葉は、途切れ途切れになった。いざと言う時になって、また臆病心が顔を出したからだ。
すると海は、一旦部屋の中に戻り、僕にちゃんと向き直って言った。
「今日は楽しかった。ありがとな。」
海は、何でもない顔をして、サラリとそう言ってくれた。やっぱり、海はこんな僕にも優しい。
それが、余計に僕の我慢を効かなくしてしまった。
「また、来れる…?」
「え…?」
言った手前で不安になり、顔を伏せた。
たぶん、今日の僕は絶対に変だ。
「…いいのか?」
「え…?」
自分から、聞いておいて驚いた顔をしてしまった。しかし、顔を上げた先には、海が嬉しそうに笑っている。
心臓の鼓動が、嘘のように柔らでいくのを感じた。
翌朝。 部屋の鍵を開ける音が聞こえ、僕は眠りから覚めた。
昨日、海が帰った後、いつの間にか寝てしまっていたみたいだ。
母さんは、ドアを開ける事なく、下のリビングまで降りてくるよう言った。
だが、トントンと階段を降りていく音は、途中で僕を急かす声に変わる。
「降りてきなさい!学校遅刻するわよ。」
空腹と、痛みでフラフラしながら、顔も洗わずに、リビングまで降りて行く。
そして、母さんにバレないように、食卓の椅子にそっと座った。
ネズミのような汚い体と、埃だらけの服で、朝食を口一杯に詰め込む。
ご飯を噛むたび口元が痛むのは、昨日頬をぶたれた痛みが、まだ残っているからだ。
ようやく、僕が降りてきた事に気づいた母さんは、茶碗を拭きながら、台所の方から出てきた。
そして、速足で出て来ると、僕の顔を確認するように、小言を言った。
「降りて来たなら、挨拶くらいしなさいよ‼それとね、今度また同じような真似したら、夕飯抜きだからね!分かった?」
「…はい。」
返事をするのも、口が痛かった。でも、それを悟られてはいけない。
朝食を詰め込みながら、か細く返事をした。
僕は、ボサボサの髪で下を向いたまま、朝食をむさぼり、母さんはあからさまに嫌そうな顔をする。
僕は、また申し訳なさそうな顔をした。
そして、頭の中だけで昨日の事を思い出していた。
海は、僕の事を汚いとは言わない。
僕の服を臭いと咎めたりはしなかった。
勉強が出来ないからと言って、出来損ないだとは言わない。
それが、普通と認められたようで、なんだか心地よかった。
やっと、人間として扱って貰えたようで、嬉しかった。
自分がこんなに笑えるんだと初めて知った。
あの瞬間だけが、僕の生きている時間を忘れられたんだ。
スタスタと台所に戻っていくスリッパの音。
つけっぱなしのテレビは、いつもと変わらない朝のニュースを伝えている。
いつもと違うのは僕。
僕は、秘密を持った。
僕と海との事。母さんは知らない。
今、少しだけ母さんに勝った気になれているのは、昨日の事があったからだ。
僕は、秘密を持っている。