2020年櫻子生誕祭小話:彼らのために出来ること
不安もあった。けれど、それ以上に――背中を押したい、そう思ったから。
だから彼女は、初めて一人で……彼の家へと赴いた。
「……」
10月最初の金曜日、時刻は15時を過ぎた頃。
透名櫻子は恋人の名杙統治の実家の客間にいた。本当はもう少し時間に余裕を持って行動したかったけれど、自身の仕事も少し立て込んでおり、結果的にギリギリのタイムスケジュールになってしまっている。今回は特にリミットが明確に決まっているので、アンカーを担う自分が遅れるわけにはいかない。分かっている。
だからこそ落ち着かなければ、このミッションを成功させることは出来ない。
二人がけのソファに腰を下ろして、ただじっと待つ。今はそれが彼女の役割だ。
櫻子は自分自身へそう言い聞かせながら……一度、深く息を吐いた。
平日の昼過ぎということもあり、家主の名杙領司や統治は各々の場所で仕事をしている。妹の心愛も学校にいるので、この家には櫻子と、統治の母親の愛美の2人だけ。もっとも、愛美自身も櫻子へ渡すものを用意するため、この部屋にはいない。櫻子は一人、頭の中でこれからのスケジュールを反復していた。
今から櫻子が行うこと、それは――
「――櫻子ちゃん、お待たせ」
刹那、グレーのキャリーケースと一緒に愛美が部屋へ入ってきた。櫻子は椅子から立ち上がって彼女の方へ近づくと、その前に立って軽く会釈をする。
「荷物の用意をしてくださって、ありがとうございます」
その言葉に、愛美はゆっくりと首を横に振った。
「ううん、お礼を言うのは私達の方なのよ。統治のことをここまで考えてくれて……本当にありがとう」
そして櫻子の返答を聞く前にキャリーケースの持ち手から手を離すと、次のスケジュールを告げる。
「ほら、櫻子ちゃんも移動しないと。飛行機、夕方のなんでしょう?」
「は、はいっ!! それではお預かりしますね」
愛美の言葉に櫻子は我に返ると、キャリーケースの持ち手を握りしめ、もう一度深く会釈をした。
櫻子の元へ今回の計画への誘いが入ったのは、ほんの数日前のこと。
宮城県登米市にある透名総合病院、その一角にある事務室で、9月に開催したワークショップの感想や報告書をまとめている最中だった。
「あら……」
机の上に置いてたスマートフォンが振動している。画面に表示されているのは『伊達聖人』の名前だった。今日の彼は富谷のクリニックで、午前中のみの勤務で午後からは非番だ。数時間前に帰宅したはずの彼が、どうして病院の代表番号ではなく自分の個人番号に電話をしてくるのだろうか。
疑問を解決するには電話に出るのが一番だ。しかしそれこそ、機械音痴の櫻子にとっては壮大なミッションなのである。
画面下部に表示されているのは、緑のアイコンの受話器と、赤いアイコンの受話器。このどちらかを下から上へスライドさせることにより、通話を始めることが出来る。
電話に出るのだからどちらか1つにして欲しいところなのだが……櫻子は口元を引き締めてスマートフォンを手に取ると、改めて画面を見下ろし、深呼吸と共に右手の人差指を近づける。
「え、えっと……緑の受話器をなぞる、緑の受話器をなぞるんですよね、統治さん……!!」
この場に居ない先生とのレッスンを思い出して、指の震えで誤操作をしないように。
櫻子はしっかりと画面をスワイプすると、自身の顔へと電話本体を近づけた。
「伊達先生、お疲れ様で――」
「――突然の連絡、失礼します。私、『東日本良縁協会仙台支局』の監査役を勤めております、茂庭と申しますが……今、お時間はよろしいでしょうか?」
「え……!?」
予想すらしていなかった人物の登場に、櫻子は思わず目を見開いて立ち上がった。
茂庭万吏、彼の名前は知っている。聖人の友人であり、櫻子の兄・透名健と同じ大学で、後輩にあたる男性のことだ。今は石巻を拠点にしており、時折、『仙台支局』に関わっている……という話を統治から聞いている。
ずっと前に……それこそ、聖人がまだ学生だった頃に一度、実家の病院で会ったことがあるような気もするけれど、いかんせんうろ覚え過ぎて自信がない。今は『仙台支局』という接点を通じて間接的に関わりがあるが、ちゃんと挨拶をする機会がないままだ。
電話を握ったまま、櫻子はとりあえず呼吸を落ち着かせて……。
「お、お世話になって、おります……透名櫻子です。あ、あの、私への用事で間違いないですか? 彩衣さんに取り次ぎますか?」
「いえ、透名櫻子さんにお話したいことがあって、伊達さんの電話を借りて連絡しております。唐突に申し訳ありませんが、このままお話を続けても?」
「は、はい……どう、ぞ……?」
「ありがとうございます。あと……今から話すことは仕事とは関係ないから、少し砕けた話し方にしてもいいかな。肩肘張るのがどうも苦手で」
「私は構いませんけど……え? 仕事では、ない……?」
電話の向こう側にいる万吏はどこまでも落ちついている。櫻子は一体何事かとビクビクしながらも、とりあえず呼吸を整えて腰を下ろした。そして、机の脇にあったメモとボールペンを手繰り寄せる。
そして、万吏の言葉を待っていると……彼の口から、驚きの言葉が飛び出してきたのだ。
「実は……『仙台支局』の山本結果ちゃんが、福岡に行ったまま戻ってこなくて。政宗君が彼女を連れ戻しに行こうとしてるって話、統治君から聞いてる?」
「ユカちゃんが!?」
刹那、櫻子は先程にも増して大きな声を出してしまい、思わず周囲を見渡した。そして、近くに誰もいないことに内心で安堵しつつ……彼から聞いた言葉を理解しようと、とりあえず口を動かす。
「お、大声を出してすいません。えっと、ユカちゃんが……戻って、来ない……」
彼の言葉を繰り返しても、現実味がないのが正直なところだ。
「……」
どうして? 何があった? 不安がよぎる。
政宗や統治は……大丈夫だろうか。
「……」
彼に返す言葉が見当たらず、櫻子は反射的にボールペンを握りしめる。
そして、もう一度、ゆっくり呼吸を整えた。
万吏がわざわざ自分に接触してきたということは、自分にも何か、出来ることがあるはずだから。
「……失礼しました。私は何も伺っていないのですが……」
櫻子は改めて前を見据えると、仕事モードへ頭を切り替えた。
「状況は切迫しているように感じます。茂庭さんの用件を伺ってもよろしいですか?」
「流石、話が早くて助かるよ。ケッカちゃんを連れ戻すために、週末の政宗君の福岡行きは決まってる、けど、統治君は残るんだ。まぁ、普通そうするよね」
「ええ」
「でも……俺と伊達ちゃん、それに、『仙台支局』で働いてる支倉瑞希は、それじゃダメだっていう見解で一致してるんだ」
「どういう、ことですか?」
「確かに不測の事態を考えると、統治君が残るのが最適だと思うよ。けど……ケッカちゃんを迎えに行くのは、統治君も一緒がいいと思うんだ。政宗君一人で頼りないって言いたいわけじゃないんだけど、ケッカちゃんって頑固なところありそうだから意外性をつきたいし、彼女が戻ってこれないような事態になっているから、増援は多いほうがいい」
万吏の言葉を聞きながら、櫻子も彼の意見には概ね同意していた。
山本結果という女性とは、今年の6月に初めて出会ったばかり。一緒にいた時間は短いけれど、彼女が一人前の仕事が出来ることはよく知っている。8月の七夕まつりの時も大分世話になった。
もしもここで、ユカが仙台からいなくなってしまったら……統治や政宗は、『仙台支局』は、どうなってしまうのだろうか。
統治が自然体で過ごせる場所が、なくなってしまうのではないか。
名杙次期当主ではない、名杙統治として働ける場所がなくなってしまったら……。
――俺は、どうすればいいと思う?
8月、初めて自分の前で迷った姿を見せてくれた時。
……急に変なことを言い出してすまない。これは、俺が1人で考えなければならない問題で――
こう言って心を閉ざそうとした彼を、あの時は何とか引き止めることが出来たと思っているけれど。
もしもここで、『仙台支局』がなくなってしまったら……
統治が、一人になってしまう。
「だからこの週末、統治君も一緒に福岡に行ってもらえるよう、水面下でお膳立てしようって話になってるんだけど……櫻子ちゃん、どう思う?」
この問いかけに、櫻子ははっきりした声で返答した。
「茂庭さん、ご連絡ありがとうございます。私も同じ意見ですので……是非、協力させてください」
その後、万吏から「どうして自分に白羽の矢が立ったのか」を聞いた櫻子は、彼らと直接会う約束を取り付けた。
万吏が自分に連絡をしてきた理由は、福岡への飛行機のチケットと宿泊先の予約を、医療法人特有のシステムを使って取りたいと考えていたからだ。確かにこのシステムを使えば、定価よりも少し割安で予約を取ることが出来る。既に聖人が目星をつけているが、彼の立場では決済までに時間がかかるため……最短コースで申し込める櫻子に協力の打診がきたのだった。
万吏からその話を聞いた櫻子は、一度電話を切った後……立ち上がると、事務室の脇にあるキャビネットから、A4のファイルを引っ張り出した。そこに入っていたチラシには、件のシステムの使い方や規約などが記載されているが……櫻子が知りたいことは明記されていない。
「統治さんにも、有効なのでしょうか……」
自分たちが使おうとしているシステムは、医療に携わる人を助けるためのものだ。櫻子はまだ病院に出入りしているし、何よりも病院を運営している家の娘なのでサービスを享受出来る資格はあるが、それが統治にもあるのかと考えた時に……自分一人では判断出来ないし、規約にも明記されていなかった。
頼みの綱は、このサービスを自分より長く使っている人物だ。
「……お母さん、知ってるかしら……」
時計を見た櫻子は、母親が今なら自宅にいるかもしれないという判断を下し、もう一度スマートフォンを操作する。身内への連絡は大分慣れてきた。万吏――正しくは聖人の携帯電話だが――にリダイヤルをしないように最大限の注意を払いつつ、何とか履歴から電話をかけることに成功。母親が出るのを待つ。
「――もしもし櫻子? どうかしたの?」
「あ、お……お母さん? ちょ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
電話の向こうにいる母親に若干緊張しつつ、櫻子はかいつまんで――統治が緊急で福岡にいく必要が出来た――事情を説明し、本題を切り出す。
「それで……その、お父さんやお兄ちゃんが学会で使ってるシステムがあるでしょう? それって……統治さんに対しても使えたりするのかな、って、ちょっと……聞きたく、て……」
今まで母親や自分の家族に対して、統治に関する話をすることはあまりなかった。勿論、両親は統治のことを知っているし(お見合いをセッティングしたのだから当然だが)、お付き合いを始めてから彼と直接会ったこともあるけれど……櫻子自身も気恥ずかしさが勝ること、そして何よりも、現場で忙しく働く両親に、あまり自分のことを話してこなかったのだ。
そんな娘の問いかけに、母親はしばし思案した後……。
「名杙さんに……そこに櫻子はいないのよね?」
「そ、そうなの。福岡にいるご友人にトラブルがあって……私も知っている人だから、何とか協力出来ればと思って……」
「そうなのね。まぁ、あのシステムは医療人とその家族への福利厚生も兼ねてるから……櫻子名義のカードで決済すれば、特に問題ないはずよ。ただ、利用するのが櫻子本人じゃないから、確認の電話はかかってくるわね」
「その電話に出れば大丈夫、ってこと……?」
「ええ。お兄ちゃんも新婚旅行の時に使ったくらいだから大丈夫よ。もしもし何か聞かれたら、私が口添えしておくわ。ただ……」
「た、ただ……?」
「さっきも言ったように、このシステムは『医療人とその家族』に向けたものなの。名杙さんが櫻子と結婚していれば一切問題ないんだけど……何か聞かれたら婚約者って答えるわよ? それでいい?」
「こっ……!?」
母親からの問いかけに、櫻子は耳まで赤くしてうつむいた。
そして……火照る頬に空いた手を添えると、静かに首肯する。
「……よ、宜しくお願い、します……」
櫻子がこう答えた瞬間、電話の向こうの母親が楽しそうに笑ったような、そんな気がした。
その後、登米市内にあるショッピングモールの中で万吏や聖人と打ち合わせをした櫻子は、万吏の助言で心愛と連絡を取り、統治に知られないように彼の荷物を用意することにした。
「分かりました。心愛からお母さんに伝えて、櫻子さんに渡してもらうようにします」
「ありがとうございます」
心愛はユカが戻ってこないことと、政宗が福岡へ行くことは知っていたが……統治も巻き込む動きがあることに驚き、電話の向こうでため息をついていた。
「全く……お兄様も世話が焼けるんだから。お兄様の気持ちも分かるけど、自分から一言言ってくれればいいのに……」
「そうですね。だから……」
心愛の言葉に櫻子は苦笑いで肩をすくめ、彼のことを思い返す。
全てを器用に淡々とこなし、名杙という家を背負うために教育されてきた彼はきっと……自分以上に、人に頼る方法を知らないかもしれないから。
苦手なこと、気が引けることに挑むのは、一人だと心細いけれど。
でも、少しだけ勇気を出せば――周囲が助けてくれる。
それを教えてくれた統治に、今度は自分が恩返しをする番だ。
「統治さんの周りには、これだけ頼れる人がいるんだってことを……しっかり分かってもらいましょう」
「……そうですね!!」
櫻子の言葉を受けた心愛もまた、電話の向こうで力強く頷いた。




