2020年政宗生誕祭小話:Yes I do.(1)
2020年の政宗誕生日は前後編。彼が己の過去とゆっくり向き合い始めるお話です。
なお、作中に出てくる場所や制度は、実在する場所などを参考にしていますが、それらとは一切関係ありません。
あの日から、間もなく9年。少しだけ、宮城へ思いを寄せていただけると嬉しいです。
・主な登場人物:政宗、ユカ
人を好きになったことはありますか?
誰か一人のために生きたいと……強く、心から思ったことは、ありますか?
「……呑気なもんだよな、ったく……」
10月、3回目の金曜日。時刻は間もなく21時になろうとしている頃合い。
1週間の仕事を終えて自宅にいる佐藤政宗は、ダイニングテーブルの上に広げた書類を見下ろして……椅子に座ったままため息をついた。
ネクタイを外してワイシャツ姿の彼は、ほろ酔いで高調した頬を頬杖で支えている。外したネクタイと脱いだ上着は隣の椅子に引っ掛けたままで、書類の向こうにはビールの空き缶とコンビニ弁当のゴミ。彼以外に人影は見当たらないが、扉の向こう側からは時折物音が聞こえていた。
彼が今、机上に広げているのは……先程、ようやく自室の奥底から引っ張り出してきた、この部屋の賃貸契約書だ。社会人になった約2年前から住み続けているこの部屋は、今年の春に更新料を払ったばかり。あと2年は己の牙城として住み続けることが確定している、そう思っていたし……それは間違いではない。
そこに、来月から同居人が増える予定だというだけだ。
「やっぱり、不動産屋で手続きしなきゃ駄目だよな……設定、どーすっかなぁ……」
ざっと規約を確認した政宗は、面倒くさそうな表情で書類を放り投げた。その原因は今より少し前、彼が福岡から連れ戻してきた想い人・山本結果の言動にある。
――やけんがあたし、これから政宗と一緒に住もうと思っとると。
彼女は迷いのない瞳と強い意思を、真正面からぶつけてきて。
――『関係縁』の色とか、過去の感情とか意見とか、それを理由にするんじゃなくて、今のあたしのままで……政宗のことをどう思うのか、ちゃんと決めて返事をしたい。
どこまでも真っ直ぐな決意に気圧されて、圧倒されて、見惚れたのは……そう遠くない過去のこと。
と、いうわけで、2人は共同生活を――同棲ではない、共同生活である――するための用意を少しずつ進めることになった。政宗が部屋の賃貸契約書を引っ張り出してきたのも、同居人が増えてることに関してどんな手続が必要なのかを確認するためだ。ちゃんと先方に報告しておかないとペナルティを課される可能性もあるのだから。
リビングから廊下へ抜ける扉の方を見やり……政宗は軽く目を閉じる。
「ケッカが風呂からあがったら、日付について相談してみるか……」
呟いた瞬間に改めて事実を自覚し、思わず耳まで赤くなった。そんな自分に苦笑いしかない。
実は今、ユカはこの家の風呂に入っている。更に言うならば、週末はここで過ごすつもり……らしい。
どうしてそんなことになったのか、それもまた、彼女からの「今日、そっち行ってもいい?」という提案に政宗自身が己の意思で押し流された結果なのだが……そもそも彼女からの申し出を拒絶する理由がない。むしろ棚からぼたもちとショートケーキが一緒に見つかったような幸運である。
とはいえ……例えば今日、ユカ自身がどんなつもりでこの部屋に来たのかは、藪をつついて蛇を出したくないので深くは詮索しない。今の彼が考えるのは未来のことだけだ。
「……明日、どうするかな……」
独り言は部屋の中で反響して消えた。明日――要するに土曜日、どうやって過ごそうか。
仕事は休みだし、本来であれば特に予定もなく、家でダラダラ過ごすつもりだったけれど、ユカが一緒ともなれば話は別だ。リクエストをきいても彼女は首を横に振って、特にどこにも行きたがらないとは思うけれど……折角ならば1日くらい外に連れ出したい、そう思ってしまう。
つい最近、彼女の過去を少しだけ詳しく知ってからは――尚の事。
とりあえず広げた書類をまとめながら、政宗が軽く息を吐いていると……廊下から足音が近づいてきて扉が開いた。そして。
「政宗、お風呂あいたよー」
「おー」
リビングに入ってきたユカに生返事を返しつつ、無意識のうちに声がしたほうを見た政宗は……彼女の現状に、分かりやすく顔をしかめた。
彼女は自室から持ってきたグレーのスウェットに身を包み、肩にはフェイスタイルをかけている。解いた髪の毛はドライヤーで乾かした割には生乾きで、ペタリと張り付いたような状態になっていた。
「……あのなぁケッカ、髪の毛はしっかり洗面所で乾かしてこいって言ってるだろうが……」
「え? そのうち乾くけんが大丈夫だよ。飲み物もらってもよか?」
「好きにしてくれ。ったく……」
相変わらず雑なユカにため息をついていると、彼女は冷蔵庫から中身が半分ほど残っているスポーツ飲料の500mlペットボトルを取り出し、彼の方へ近づいてきた。そして、その正体に気づいた政宗が言葉を発する前に蓋を開くと、何の躊躇いもなく中身を喉へ流し込む。
それは昨日、彼が風呂上がりに半分飲んだもの。週末用にもう一本未開封のものがあるので、そちらを手に取ると思っていた政宗には彼女の行動は大きな誤算だった。
「け、ケッカ、それ……俺の飲みかけ、だったんだけど……新しいやつ、近くに置いてたはずだぞ?」
「……へ? あ、うん、手つかずのが別に1本あったけんが、先にこっちから飲んだほうがいいっちゃないかなーって思って。駄目やった?」
「いや、まぁ……ケッカがそれでいいなら……」
政宗はモゴモゴと言いかけた言葉を飲み込み、その代わりにもう一度息を吐いた。
彼女はこんなに、細かいことを気にしない性格だっただろうか。仕事ではむしろ、細かいことまでしっかり計算して段取りを考えるような、比較的慎重なタイプだったように思っていたのに。
「……俺も人のこと言えないか」
政宗が自虐的に首を横に振ったところで、ユカが彼の隣の椅子を引いて腰を下ろした。そして、彼の前にまとめられている書類へと視線を落とす。
「政宗、仕事が残っとると?」
「いや、そうじゃなくて……その……ケッカがここに住む場合、不動産屋に連絡しないといけないから、どんな手続が必要なのか確認したかったんだよ」
「あぁ、そっか。あたしが今住んどるところも解約になるっちゃんね」
「そうなるな。そっちの手続きも何日前までにやればいいのか、色々確認しなきゃならないんだけど……」
ここで彼は言葉を切ると、ペットボトルの残りを飲み始めたユカを横目で見やり……ぎこちなく問いかけた。
「け、ケッカさんは、そのー……い、いつ頃お引越しをお考えでございますか?」
刹那、ユカが政宗へジト目を向ける。
「なんね政宗、そげなおかしか喋り方じゃなかろうもん」
「動揺してるんだよ悪かったな!!」
開き直った政宗はユカに対して思いを白状した後……ガクリとうなだれてため息をついた。
こちらはずっと、こんな感じで気を遣っているというのに。
当の本人は何も変わらないどころか、既に我が物顔でリラックスしている。
なんだか……気を張っているのが馬鹿らしくなって、フッと、肩の力が抜けた。
「……とりあえず、週末にかけてその話も具体的にしていきたい、から……協力してくれ」
「分かった。じゃあ、明日は不動産屋に行くと?」
「いや、流石にそこまでは……ケッカ、何かやりたいことはあるか?」
政宗が期待せずに問いかけると、ユカはしばし思案した後……彼を見据えて、オズオズと問いかける。
「あの、さ……連れて行って欲しいところが、あるっちゃけど」
「へ?」
予想外の申し出に、政宗は思わず目を見開いた。そしてコクコクと頷きながら、彼女にその続きを促す。
ユカ自身が行きたい場所……牛タン屋だろうか。それとも笹かまぼこの手作り体験? まさか仙台牛?
「連れて行って欲しいって……ケッカ、珍しいな。どこに行きたいんだ?」
政宗が大急ぎで色々な店の情報をピックアップしていると、ユカは首にかけているフェイスタオルを両手で握りしめ……強い意思と共に口を開く。
「……野蒜海岸に、行ってみたい」
「っ……!?」
彼女の口から出たのは、彼にとっても意外な地名だった。
野蒜海岸
仙台と石巻の間にあり、美しい弧を描いていることから『東北の伊豆』と呼ばれることもある海岸だ。
以前は防砂林として松が植えられており、景勝地として、また、海水浴場としても人気が高かった。仙石線の野蒜駅からは海も近く、多くの人の生活があった場所だ。
そう、これは――過去のこと。
4年前の災害で壊滅的な被害を受けたこの場所は、今はまだ、復興の途上にある。
翌日の午前中、昼食と身支度を済ませた2人は、政宗の運転する車で、国道45号線を仙台から石巻方面へと向かっていた。
途中、観光地の松島を抜けるのに時間がかかってしまったけれど、それ以外は順調に道を進んでいく。政宗もカーナビを設定することなく、頭の中にある地図を頼りに車を走らせていた。
「政宗って、海の近くに住んどったと?」
「ああ。海が見えるアパートだったから……今はあの時に流されて、もうないけどな。確かもう、人は住めない地域だったはずだけど……」
災害による津波で甚大な被害を受けた地域は『災害危険区域』に指定され、家や病院を建てたり等、その場所に住み続けたり、人を長期的に集める場所を作ることが出来なくなってしまう。(倉庫や店舗などはその類ではない)そのため、災害後に整備された高台の住宅地へ移転さざるを得ない人も多くいるのだ。
これは、未来に生きる人々を守るための措置。大海に面している以上、津波の被害はこれで終わりではないのだから。
理屈では分かっていても……住み慣れた土地から突然に離れなければならなくなった人の気持ちは、簡単に割り切れないこともある。政宗は前方を見つめながらウィンカーを出して、大通りから脇道にそれた。車1台がすれ違うのがやっと、という細い道を、記憶をたどりながら進んでいく。
「よく海岸にも遊びに行ったんだ。この道を進むと海水浴場があって……ちょっと、行ってみてもいいか?」
「うん、よかよ。海はあたしも百道浜でよく見よったねー……」
野蒜は、県内でも有数の海水浴場がある場所だ。夏になれば多くの人が集まり、賑わいを見せる。政宗自身も夏休み期間はよく遊びに行っていたものだ。
刹那、車がガタガタと揺れる。路面が目に見えて悪くなった――アスファルトで整地されていない砂利道になった――ことに気づいた政宗は、こんなに悪路だったかと脳内で疑問を浮かべながら減速しつつ、ナビの画面に表示されている地図で方角を確認しようとして……更に顔をしかめた。
「おかしいな、この道、ナビに――」
「――ねぇ政宗、あの、看板……」
ユカの声かけに前方を見た政宗は、事実を察して息を呑んでから……アクセルからブレーキへと静かに足を切り替えた。
車が、看板の前で止まる。
道の真ん中に立っているその立て看板には、無機質な事実だけが記載されていた。
『防潮堤工事中につき、この先、立ち入り禁止』
「……」
「政宗……」
「そう、だよな……おかしいと思ったんだ」
政宗は自虐的にため息をつくと、改めて、ナビに表示されている地図を見つめる。
進んできたはずの道は途中で途切れており、彼が今、停車している場所は――道として登録されていなかったのだ。
この場所には、何もない。
世界からそういう認識をされているのだと、改めて実感する。
ここから先には、進めない。
そう言われると……引き返すことしか出来なかった。
何とかUターンをして元の道へ戻ってきた政宗は、仙石線の野蒜駅へと向かうことにした。
とはいえ、先程の失敗もあるので、記憶にだけ頼るわけにはいかない。ナビで目的地を設定し、慎重に運転を進める。
「駅の場所、変わったんだよな……」
「え? 駅の場所って変わると?」
ユカが目を丸くすると、政宗は路上の看板で方角を確認しながら、「ああ」と端的に返答する。
「それこそ前は、海岸の近くに駅も線路もあったんだよ。それが全部流されて……今は駅ごと高台に移動したんだ」
「……」
「だから正直、なんか……知らない場所に来たみたいな気はするかな」
苦笑いと共に正直な感想を告げると、助手席のユカが「そっか……」と息を吐いて、前を見つめる。
そして……流れる景色を見つめながら、おもむろに口を開いた。
「……ごめん。あたし、政宗のこと、本当に何も知らんで、軽率に連れ出したっちゃね」
後悔が入り交じる彼女の声に、政宗はすぐさま首を横に振る。
「いや、それは違う。俺も話す機会がなかったし、それに……俺はむしろ、ケッカが自分から来たいって言ってくれて、少し嬉しかったんだ」
「嬉しかった……?」
「ああ。確かに今は知らない場所みたいに見えるけど……でもきっと、俺が知っている場所も、絶対どこかに残ってると思う。それを俺がちゃんと見つけて、ちゃんとケッカにも見て欲しいって……思ってるんだ」
今、彼が走っているのは、災害後に整備された真新しい道路だ。周囲に見える住宅も真新しく、既に多くの人が新しい街で第一歩を踏み出していることが分かる。
そんな景色に少し、疎外感を感じてしまうのは事実だけど……でもきっと、それだけじゃないと信じたいから。
ユカは高台の駅へ向けて車を走らせる彼を見やり、思い出しながら問いかけた。
「政宗は、伯父さんとここに住んどったっちゃんね。でも、中学は秀麗中学校なんやろ? 随分遠かところにしたっちゃね。なして?」
「え? ああ、それは……」
これはまだ、彼が『佐藤政宗』になる前のお話。
「……よし」
仙石線の中野栄駅で電車を降りた『彼』は、白い息と共にボソリと呟いた。
ほぼ同時に、自分と同じ年齢くらいの子どもがゾロゾロと降りてくる。改札へと続く階段を彼らとともに登りきり、切符を自動改札に入れた。
機械的に切符を飲み込んでいくそれを抜け、彼は一度、安堵の息をつく。
首に少し渋いデザインのマフラーを巻き、紺色の長いダッフルコート。その下はジーンズとスニーカーという出で立ちで、その手には縦長のトートバックを携えていた。
正直、迷ったらどうしようと思っていたが……その心配は杞憂のようだ。
だって、皆、同じ場所を目指しているのだから。
「……早めに着かないと、不安だよな」
一瞬、駅の近くにあるコンビニにでも寄って何か買おうかと思ったが、彼は思考を切り替え、人の流れにのって歩き始めた。
年が明けたばかり、空気が刺すように冷たい1月上旬。
今日は――私立秀麗中学校の一般入試当日である。
中学受験を薦められたのは、昨年の11月のことだった。
彼は宮城の片田舎の小学校に通うには、あまりにも優秀だった。勉強もスポーツも人間関係も、全てをそつなくこなしていく。そんな彼の可能性に注目した担任教師が、県内でも指折りの進学校への入試を提案したのだ。
当然、職員室でその話を聞いた彼は笑顔で断った。私学ともなると当然、金銭的な負担が大きくなる。今の彼は親戚の家で世話になっている状態であり、これ以上の金銭負担をさせるわけにいかないと考えるのは当然の流れだった。
そのため、担任は――11月の終わりに実施された三者面談の場で、改めて、この話を持ちかけた。彼の保護者代わりである佐藤彰彦の表情が変わったことを見逃さず、血のつながりのある親と死別した場合の救済措置(授業料免除など)についても説明し、「是非一度、話し合ってみてください」と締めくくる。
困惑する彼に、担任がどこか確信めいた言葉をかけてくれたことを、今でも何となく覚えている。
「君は……何となく、ここにとどまってはいけないと思うんだ。ここは確かにみんなが仲良しで居心地がいいかもしれないけど、君はずっと周囲に合わせているよね。折角の才能を活かしきれない気がするんだ。君はもっと、広い世界を知ったほうがいい。他のクラスにも受験する子はいるし……もう一度、考えてみてくれないだろうか」
そして、2人で家に帰って、いつも通り食事とともに晩酌を始めた彰彦は、苦笑いで枝豆をつまむ彼に、こんなことを言った。
「……中学受験、やってみろ」
「え? いや、俺は別に……」
困惑する彼に、彰彦は空になったワンカップに別の焼酎を注ぎながら、いつもの笑顔で言葉を返す。
「何、金なら気にするな。なんだっけか、そのー……ああ、とにかく心配するな!!」
「いやその言い方心配しかないんだけど!?」
「それにどうせ、この辺には高校がないんだ。あと3年すれば電車で通うことになるんだから、今のうちから通っておけばいいじゃないか」
「……」
そう言われると……今のうちに受験をすませて、中学から高校にかけては新聞配達のアルバイトなどに勤しんだほうがいいような気がしてきた。
正直、この家の経済状況は把握している。彼には死んだ親が遺したお金がほとんどないため、彰彦の収入と子ども手当などで日々の暮らしをまかなっていた。あの私立学校であれば、勉強さえ頑張れば授業料が免除になる。公立高校の方がかえってお金がかかるかもしれない。
それに……自分の実力がとこまで通じるのか試してみたいという挑戦心もあった。ここは確かに居心地が良い。みんな良い人ばかりで――顔色をうかがいやすいから。
彼は彰彦の近くにある一升瓶をなんとなーく遠ざけつつ……改めて、テーブルの下に置いたパンフレットを取り出す。
そして、それを見つめて……ある1つの結論に至った。
「なぁ、彰おんちゃん。1つお願いがあるんだけど……」
そして出願し、いざ、受験当日。
学校から指定されている集合時間は、朝の8時50分。そこから国語と算数の試験が実施され、5分ほどの個人面接を終えれば、帰ることが出来る。
結果は明日、インターネットで発表されるらしい。合格者には別途、保護者あてに必要書類が郵送されることになっているが……自宅にパソコンを持っていない彰彦は頭を抱え、職場で見せてもらえるよう頼み込んだそうだ。(なお、頼み込まなくてもOKしてくれる職場である)
駅から中学校までの道のりを、それぞれが緊張した面持ちで歩いている。彼もまた、生まれて初めての『受験』というプレッシャーに心臓がドキドキして……でも、同時にワクワクしていた。
自分の道を自分で選ぶことが出来た、そんな達成感さえある。まだ受験は始まってもいないのだから、随分と気が早いとは思うけれど。
試しに過去問を解いてみたが、どれだけ過去に遡っても余裕で合格ラインだった。面接に関しても、同じく受験する他の生徒と一緒に、小学校で練習をしてもらっている。
中学受験など、今まで彼が生きてきた現実に比べたら――一切緊張しないし辛くもない、というのが、現時点での正直な感想だった。
彼は今まで、見たくないものばかり見せられてきた。
目を覆うことも出来ず、耳をふさぐことも出来ず……ただ、棒立ちで、悪意にさらされてきた。
そんな彼を救ってくれたのが、彰彦だ。
彼に恩返しをしたい。その思いが強くなるのは当然だろう。
自分はまだ子どもで、何が出来るのかよく分かっていないけれど……まずはこの中学受験を突破することで、彰彦が胸を張れるような、自慢できるような、そんな存在になりたい。
それに――
「名前、まだ間違えないようにしないとな……」
出かける直前、このマフラーを巻いてくれた育ての親の顔が、脳裏をかすめる。
「……ここを突破すれば、俺も一緒だ」
思わず上がった口角をマフラーで隠しながら、いざ、中学校の敷地内に入ろうとした次の瞬間……彼の隣を追い抜いていった少年のカバンの外ポケットから、紙切れが一枚、ヒラリと冬の空気に舞った。
「ん……?」
地面に落ちたそれを拾い上げて絶句する。そのまま小走りになり、先程追い抜いた少年の前に立った。
「……?」
くせ毛と、どこか人を寄せ付けない鋭い眼差しが印象的な少年だった。着ている服装もよく見るとブランド物ばかりで、それこそ私立中学校を受験するような、お金持ちの家の子どもに見える。
その少年に、彼は先程拾った紙切れを差し出した。
「受験票、落としてたぞ」
「……」
少年は無言で彼の手元に視線を落とすと、少し乱暴にそれを奪い取った。
一瞬、「なんだコイツ」という感情が湧き上がってきたけれど……こんなところで労力を使いたくはない。
彼は気持ちを切り替えて、少年を笑顔で見つめる。
「俺が拾わなかったら、お前、受験出来なかったかもしれないんだぞ。何か一言くらいあってもいいと思うけどなぁ?」
「……」
少年は無言で彼を一瞥してから、特に何も言わないまま、彼を追い越して再び歩きだしてしまった。ここまであからさまに拒絶されると、追いかける気にもなれない。
「仙台にはあんなに常識のない同級生がいるのか……俺、出来れば友達になりたくないな」
彼はカバンを持ち直し、気を取り直して人の流れに戻る。
受験票に記載されていた名字、読めなかったな……なんてことを、頭の片隅で思いながら。
そして、つつがなく試験を終えた翌日、合格発表の時間。
彰彦と共に彼の職場である建設会社の事務所に連行され、パソコンの前でじっと、その瞬間を待っていた。
パソコンに弱い彰彦の代わりに、彼とも面識がある事務のおばちゃん・長谷川容子が、慣れた手つきで該当のホームページを開く。
「おばちゃん……パソコン使えたんだね」
「そりゃ、現代人だからね。彰ちゃん(彰彦のこと)が苦手意識持ちすぎなんだよ」
彼女がそう言った瞬間、事務所中の目線が彰彦に注がれた。
「う、うるせぇな!! ほ、ほら、時間になったぞ!? ホームルームとやらを開いてくれ!!」
「おんちゃん、ホームページだよ……」
隣で突っ込む彼から視線をそらした彰彦は、容子がブラウザの更新ボタンをクリックする画面を、横目でチラチラと眺めている。
「全く……保護者がこんな調子で大丈夫かねぇ……」
「お、俺のことはいいんだよ!! まだなのか? もう時間じゃないのか!?」
「ハイハイ、分かりましたよ。操作するから黙ってておくれ」
彼女は苦笑いでため息をつきながら、手元にある受験票と画面を照らし合わせて――椅子ごと振り向き、彼に笑顔を向けた。
「……まぁ、分かってたけど。おめでとう、合格してるよ!!」
容子の声が響いた瞬間、彼と顔なじみの大人が続々と集まってきた。そして口々に、笑顔で「おめでとう」と声をかけてくれる。
これだけの人からお祝いされるのは初めてなので、さすがの彼も戸惑いつつ……助けを求めるように、隣りにいる彰彦を見つめた。
「彰おんちゃん……?」
そして、彼の目尻に涙が浮かんでいることに気付き、驚いて目を見開く。
彰彦はその涙を拭うこともせず、大きな手を、彼の頭にのせた。
そして、優しい声で彼を労う。
「おめでとう……よく頑張ったな」
これまでにも何度も褒められてきたし、頭を撫でられることにも若干抵抗がある年齢になってきた。
でも今は、その言葉と、彰彦の大きな手の感覚が、素直に嬉しい。
彼は笑顔で頷くと、これから始まる新生活に、少しだけ思いを馳せる。
あの時――受験をすると決めた時、彰彦に頼んだことがある。
「なぁ、彰おんちゃん。1つお願いがあるんだけど……」
「どうしたんだ?」
いつもより真剣な彼の眼差しに、彰彦は酒を飲むのをやめて、彼を真っ直ぐに見据えた。
正直、これを口にだすのは怖い。
断られたらどうしよう――そんな不安がつきまとう。
でも、もしも私立中学校で、新しい環境でスタートできるなら、そのタイミングに合わせたいと、ずっと、思っていたのだ。
「俺……中学生からおんちゃんと同じ名字を名乗りたい。俺も、『佐藤』になりたい。ダメ、かな……」
少し震える声でそう提案すると、彰彦は一瞬表情を強張らせたが……一度、長く息を吐いた。
そして、彼に覚悟を問いかける。
「その名字は、家族との最後のつながりなんじゃないのか?」
この問いかけに、彼はゆっくり首を横に振った。
「俺の家族は……おんちゃんだけだよ」
その言葉を受けた彰彦は、もう一度、長く息を吐いて……「分かった」と一言了承してから、再び酒を飲み始めてしまった。
どこかぶっきらぼうなその態度は、気恥ずかしい時のもの。それが分かっているから……彼もまた、苦笑いでお酒を遠ざける作業に戻れる。
まだ手続きは途中だけど、これまでの養育実績は認められるだろうということ、そして、担任が中学校に問い合わせてくれて、その手続きが終了すれば、学校でもその名前を名乗っていいことを確認している。
これから、新しい生活が始まる。
春からは、やっと……やっと、『佐藤』になれる。
「おめでとう」と声をかけてくれる大人に応えつつ、彼は1人でほくそ笑みながら……でも、あの時出会った少年とは同じクラスになりたくないな、と、内心苦笑いを浮かべるのだった。




