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エンコサイヨウ・外伝集  作者: 霧原菜穂
54/121

2018年万吏生誕祭小話:Their trajectory

 今年になって初めての誕生日・万吏の小話は、彼と彼の奥様・涼子との馴れ初めでございます。なんとびっくり伊達ちゃんは出てきません!! ごめんね伊達ちゃん!!

 若干ダイジェストのようになっておりますが、2人の軌跡を一気にどうぞー!!


※作中で、災害や津波に関する描写があります。そういった描写が苦手な方は、無理をしないでください。


主な登場人物:万吏、涼子、瑞希、里穂、仁義、政宗

 茂庭万吏(もにわばんり)支倉涼子(はせくらすずこ)は、物心ついた頃からの顔見知り――俗に言う『幼馴染』という関係だった。

 涼子の祖母は、石巻の市民病院の近くにある自宅兼店舗で、日用品などを取り扱う小さな商店を営んでいた。その一角には駄菓子コーナーがあり、近所の子どもたちのたまり場になっていたのだ。

 一人っ子だった万吏は、最初は母親と一緒に、徐々に1人でそこへ行くようになり、外の世界を知っていく。

 そこで出会ったのが、店主の孫で、店の近くに住んでいる涼子だった。


 涼子は、優しい女の子だった。

 誰かが転べばすぐに絆創膏を渡して、誰かが10円足りなければ自分の財布から出してあげる、誰かの話をずっと笑顔で聞いて頷いてくれる、そんな女の子。

 みんなから「スズ」と呼ばれて慕われていた彼女を、万吏も自然とそう呼ぶようになって。

 後に生まれる妹の瑞希(たまき)は、その漢字と姉との語感から「ミズ」と呼ばれるようになり、あの場所へ行けば誰かがいる、そんな楽しい時間を過ごすことが出来た。

「万ちゃん万ちゃん、今日はきなこ棒食べない?」

「お、スズとは気が合うな。俺もそんな気分だったんだ」

 一人っ子の万吏にとって、「万ちゃん」と呼びながら自分の隣で笑い、優しく話を聞いてくれる涼子は、妹のようであり、姉のような……家族に近い存在だった。


 ただ……そんな時間も、永遠には続かない。

 万吏も高学年、中学生と年齢を重ねるにつれて、あの店へ行くことはなくなっていた。放課後は習い事や別の地区に住んでいる友達のところへ自転車で出かけたりしたり、部活などもあり……時間の過ごし方が変わってきたのだ。

 涼子とは中学までは学区が同じということもあり、道で会うと挨拶をして軽く話す、その程度の関係は保っていた。

 彼女は優しいことに変わりはないが、雰囲気がより穏やかになり、やはり、人の話をニコニコ笑って聞いてくれた。

「スズは彼氏とかいないの?」

「いるわけないよ。万ちゃんはモテモテみたいだけどねー」

 そう言って笑ってくれる彼女の反応に、どこか安心したことを何となく覚えている。

 勿論、それ以上のことは……何も言わなかったけれど。


 万吏が高校生になり、大学生になって……涼子との交流は更に頻度が減っていた。

 ただ、万吏が社会人になった頃、仙台の大学へ通う涼子と、何度か石巻駅で会った事がある。

「スズも大学生か……俺もオッサンになったなー」

「私は万ちゃんが社会人してる方が感慨深いよ。凄いね、えっと……公認会計士、だっけ。なんかカッコイイ」

 そう言って笑ってもらえると、心が暖かくなって。

 多少の理不尽ならば耐えられる、そう思っていた。

 ただ――


「……俺は、納得できません」

 怒りを押し殺し、震える声でそう呟くと……上司にあたる人物が彼の肩をたたき、黙って首を横に振った。

 それは、彼がこれ以上自分の味方になってくれないという明確な意思。小さな会議室を出てい行く上司の背中を見送ることも出来ず……万吏は自分が机上に広げた『証拠』を見下ろし、悔しそうに唇を噛み締めた。

 万吏は大学卒業と同時に取得した資格を活かすため、仙台にある監査法人で働いていた。

 そこで彼が補佐として関わることになった塩釜の旧家が、名杙(なくい)家。

 その家と、彼が働いている監査法人との癒着に気づき始めると、世界が全て嘘だらけに見えてくる。

 いや、実際に世界は嘘だらけなのだ。

 公認会計士は会計という数字の専門職であり、相手に間違いがあると、独立した立場から客観的に指摘しなければならず、そこに私情を挟むことは許されない。

 しかし、名杙は超大口の顧客だ。どれだけ長い間、不正が横行していたのかは分からないけれど……万吏が名杙に関わるようになったのも、たまたま前任者が独立してそのポジションがあいていたから。

 自分もまた、名杙から仕事をもらっているような立場だ。自分のキャリアを守るためならば、ここで黙っていた方が得策だと思う。それは嫌になるほど分かっている。

「クソっ……!!」

 部屋の中、反響したのは自分の声だけ。

 万吏は理想と現実との軋轢に苦しみ、悩んでいた。


 指摘をすれば、自分はもう、ここにいられない。

 でも、このまま見過ごすと……心に残ったモヤモヤは消えない。


 結論を出せないまま事務的な気持ちで日々を過ごしていた、ある夜……石巻駅で電車を降りたところで、涼子と出会った。

「あ、万ちゃん」

 いつもと変わらない笑顔で自分と接してくれる彼女に、どう接していいのか、分からなくて。

「スズもこんな時間まで大変だな。気をつけて帰れよ」

「あ……」

 万吏は軽く手を上げて一方的に言い残してから、駅の中のコンビニへ逃げた。

 これ以上、彼女と話をすると……自分の弱いところを全てさらけ出してしまう気がしたから。

 彼女は何も悪くないのに、一方的に拒絶してしまった。困惑した彼女に背を向けた罪悪感に、心が少し痛む。


 でも、心の何処かでこう思っている自分もいた。

 涼子はいつでも、自分の話を聞いてくれるから。

 次に会ったら、もう少し……話をしよう。

 次に会ったら、次に会ったら……そんな日常を繰り返していた。


 そして。



 あの災害が――全てを奪う。




 万吏の実家は海岸線から離れた場所にあったが、それでも1メートルほど浸水して……家財道具のほぼ全てがダメになってしまった。そして、水圧や流れてきた瓦礫で家の構造そのものが歪んでしまい、後に、『大規模半壊』という判定を受けることになる。

「何が……一体、何が起こってんだよ……!!」

 かすれた声は、冬の冷たい風と共に消えた。周囲からはすすり泣く声や励まし合う声も聞こえるが……それ以上に、眼下で故郷が『潰されていく』様子に、声も出せない人が大多数で。

 あの日、自宅から両親と共に日和山(ひよりやま)に逃げた万吏は……慣れ親しんだ町が沈む様子を、目の当たりにした。


 そして――背筋が、凍る。


 少し遠くに見える石巻市民病院は、完全に波に飲まれ、屋上で助けを求める人の姿がぼんやりと見えた。

 鉄筋4階建ての建物が、半分以上水に浸かっている。


 じゃあ――あの店は?


 瑞希は?




 涼子は?





「――っ!!」


 万吏はポケットに入っている携帯電話から電話をかけるが、基地局がほぼ死滅したこの町で、携帯電話が通じるはずもない。

 メールも送ってみるが、返信はない。そもそも送れたかどうかも分からない。


 次があると思っていた。


 いつでも会えると思っていた。


 いつでも――笑ってくれると思っていた。




 そんな万吏の後悔を嘲笑うように――雪が降り始める。

 全てを白く染めるように、静かに、静かに……降りつもっていく。

 万吏の頬に張り付いた雪が、涙と共に地面に落ちた。




 その後、周囲に流されるように家族と共に指定避難所に向かった万吏は、涼子や瑞希を探し始めた。

 しかし、当時は自治体さえ把握しきれないほど、様々な場所にバラバラの場所から人々が避難していたのだ。必死に情報をつなぎ合わせると、支倉家の人は全員逃げたということだが……誰の姿も見えないことから、万吏の不安は募るばかり。

 当然ながら電車もバスも動いておらず、かろうじて通れる道路も緊急車両が最優先。ガソリンも限られているため仕事にも行けない。かろうじて繋がった電話で生きていることを告げると、あの時背を向けた上司が声を震わせながらこう言ってくれた。

「落ち着いたら、また連絡をして欲しい。生きていてくれて……本当に良かった」

 万吏は自宅を片付けながら、避難所では無事だった内陸の自治体や全国から届き始めた物資を運ぶ手伝いをしながら……時間を見つけては知人から自転車を借りて、市内の避難所を探し回った。


 逢いたかった。

 あの笑顔に――どうしても、逢いたかった。


「え? スズちゃんっすか? 知ってるっすよ。確か今は、あの避難所に……」

 そして、涼子達が住んでいる地域から、友達を探しにやって来た名倉里穂から情報を聞いた万吏は、彼女への礼もそこそこに走り出していた。


「――ミズ!!」

「――万ちゃん!!」

 災害発生から1週間後、少し内陸にある指定避難所――小学校体育館を尋ねた万吏は、瑞希の姿を見つけて駆け寄った。

「ミズ、大丈夫だったか!? おんちゃんやおばちゃんは、ばあちゃんは……!!」

 柄にもなく取り乱す万吏に瑞希は少し驚きつつ……両目に涙を浮かべて、笑顔になる。

「うん、みんな無事だよ……家は、なくなっちゃったけど……」

「ミズ……」

 ぎこちない笑顔はすぐに崩れ去り、瑞希は両手で顔をおおうと、体を震わせる。

「全部……全部なくなっちゃった……どうして、どうして私達が、こんな……!!」

 そんな彼女の肩を右手で優しく抱いた万吏は……左手でハンカチを差し出しつつ、おそるおそる、涼子について尋ねてみた。

「ミズ……スズもここにいるのか?」

「え、あ……」

 万吏からハンカチを受け取った瑞希が、避難所の出入り口の方を指差す。

「お姉ちゃんなら、さっき、支援物資が届いたから外に……」

 瑞希の言葉を最後まで聞かずに、万吏はその場を飛び出していた。

 そして――他の大人に混じって、トラックから支援物資を運んでいる涼子の姿を見つける。


 泣きそうになった。


 生きていてくれた。


 逢いたかった君が――そこにいたから。



 万吏は一度呼吸を整えると、いつもの調子で彼らの輪に入る。

「――手伝うよ」

「万ちゃん!?」

 万吏の姿を見つけた涼子は、驚きで荷物を落としそうになり……慌てて両手に力を入れた。

 そして、いつもの笑顔で――万吏がよく知っている笑顔で、万吏に、菓子パンの入ったダンボールを渡す。

「ありがとう万ちゃん、コレ、お願いね」


 荷物の仕分けが終わり、配膳を別のスタッフに任せてから……万吏と涼子は駐車場にとめていた、涼子の軽自動車の後部座席で話をした。

 避難所の中は多くの人が出入りしているため、プライバシーがあまり守られていない。現に、避難所の雑多な空気に馴染めなかったり、ペットと一緒にいるためそもそも避難所に入れなかった人は、車中泊のようなかたちで車を寝床にしていたりもした。

「何とかこの車は無事だったんだけど……家は、ダメだったよ」

 どこか力なく笑う涼子だったが、万吏を見つめ、すぐにいつも通りの笑顔になる。

「万ちゃんの家は、どうだった?」

「家は残ってるけどメチャクチャだ。住めるかどうか……多分、無理だな」

「そっか……でも、こうして生きて会えて、本当に良かったよ」

 そう言って笑う彼女を、万吏は半ば無理やり抱きしめた。

「万ちゃん……」

「良かった……スズ、本当に……っ……!!」


 もう会えないと思っていた。

 次が二度とこない、そう思っていたから。


 小刻みに肩を震わせる万吏をそっと抱きしめる涼子は、彼の背中をさすりながら……改めて、心からの安堵を口にする。

「万ちゃんも……生きてて良かった」



 その後、両親が仮設住宅に入ることになった万吏は、その住宅の狭さと仕事の利便性を考えて、市内でも被害がなかった内陸部で一人暮らしをすることにした。

 支倉家もまた、仮設住宅での生活が始まり……涼子がたまに、万吏の部屋を訪ねて食事を作ったり、世間話をする、そんな時間を重ねていく。

 災害という非日常が続いたことで高ぶっていた神経も、徐々に平常へと戻り始め……被災地で暮らす人と、被災しなかった人々との意識の差も、感じるようになってくる。


 石巻ではまだ、大勢の人が不自由な暮らしを強いられているのに。

 どうして、仙台の人は……当たり前の暮らしを享受しているのだろう。

 そして、自分はどうして……こんなに汚い仕事を続けているのだろう。


「……万ちゃん?」

 休日の夜、涼子と夕食を食べ、食器を片付けていた万吏は……彼女に名前を呼ばれ、慌てていつもの表情を作る。

「あー悪い。さっきのカレーが美味しくて明日の朝ごはんまで妄想してたわ」

「それはありがとう。作ったかいがあったよ」

 彼女はそう言って笑いながら、水道の水を止める。

 そして、タオルで手を拭きながら……食器を片付ける万吏の隣に、そっと寄り添った。

「スズ?」

「万ちゃん……お仕事大変そうだなって」

「……そうだな。なんか、石巻と仙台の差を感じるわ」

「あ、それ……何となく分かるな。私もね、最近……」

 刹那、涼子の言葉が途切れる。どうしたのかと彼女を見下ろした万吏は……持っていた食器を取り落とした。

 白いカレー皿が砕けて、床に散らばる。

「万ちゃん、どうし……」

「それはこっちの台詞だ、スズ……」

「あ……」

 涼子は自分の頬を伝う涙に気が付き、慌てて袖で拭う。

「ごめっ……ゴメンね、万ちゃん、私がこんなんじゃ……華さんも……!!」

 とめどなく溢れる涙を拭う涼子が呟いた、『華』という名前には、何となく聞き覚えがある。

 涼子が大学で参加しているサークルのOGで、最近――災害時におけるその行動が、メディアの興味にさらされている女性だ。

 あの時、地域の人を津波がやって来る公民館に誘導した……浅はかな女性。

 現地の人間であれば、そんなことがないことなど理解している。あの状況であればしょうがなかったことを目の当たりにしている。

 しかし、行動の結果しか――公民館に誘導された人が全員亡くなったことを切り取って考察、報道するメディアの情報は、少しずつ歪みながら全国に拡散されていく。


 同じ被災県内でさえ、仙台と石巻では差があるのに。

 被災状況を知らない、そんな『傍観者』に――何が分かるのか。


「――見るな」

 万吏は涙を流す涼子の目を自分の手で覆い隠し、彼女の顔を見ないように、同じ方向を見据える。


挿絵(By みてみん)


「今は……こんな世界、見る必要ない」

「万ちゃん……」

「笑う必要もない。今は……目を閉じてろ、スズ」

 万吏の言葉に静かに頷いた涼子は、そのまま、後ろに立ってくれている彼に体重を預け……初めて、彼の前で大泣きした。



 そして、災害から約1年が経過した頃――万吏はある決意と共に、上司の元へ向かう。


「スズ、ちょっといいか?」

「ん?」

 より多くの時間を過ごすようになっていた2人は、平日の夜も、時間をあわせて会うことが多くなっていた。

 そんなある日、夕食の片付けを終えた涼子に、万吏がぎこちなく近づく。

「万ちゃん……どうしたの? 明日も多分、晩御飯は作れると思うけど」

「いや、その……そうじゃなくて……」

 万吏は珍しくしどろもどろになりながら、それでも涼子を見据え――決意を口にする。

「俺、職場の不正を告発しようと思う」

「え……」

 予想外の内容に、涼子は目を見開き……表情を引き締めて、彼の顔を見据えた。

「そうすると多分、今のままは働けなくなる。でも、俺のことをかってくれてる人もいるから……石巻で独立しようと思うんだ」

「ほ、本当に? 良かった……これで万ちゃん、辛そうな顔しなくてすむんだよね」

「スズ…‥」

「本当は、ずっと気になってたの。でも、万ちゃんが落ち着いたら話をしてくれるかなって……ううん、怖くて聞けなかった。万ちゃんに踏み込んで、拒絶されるのが怖かったんだ。だから、話してくれて嬉しいよ」

 そう言って、彼女が笑ってくれるから。

 万吏は口の中にたまった唾を飲み込むと、涼子にむけて、ぎこちない笑顔を向ける。

 いつもはずっと、上手に笑えるのに。

「あと、その……スズ、あー、いや、改めて言ったことなかったと思うけど」

「は、はい?」

 まだ何かあるのかと身構える彼女に、万吏はもう一度呼吸を整えて……これまで自分を支えてくれた彼女に、精一杯の気持ちを伝える。


「……俺は、スズが好きだよ」

「っ!?」

 刹那、涼子が顔を赤くして、キョロキョロと周囲を見渡したあと……自分を指差した。

「私のこと!?」

「他に誰がいるんだよ!!」

 思わず突っ込む万吏に、涼子は困惑しながら言葉を続ける。

「だ、だって万ちゃんそんなこと言う人じゃないと思って!! わたっ、私が好きで通ってるだけで万ちゃんがそれを許してくれるのが幸せだなって思ってただけでっ!!」

「……そうなの?」

「はっ!?」

 何言ってるんだと頭を抱える涼子に、万吏は肩の力を抜いた。

 もっと早く伝えれば良かった。

 そうずれば、もっと長い間……恋人として、同じ時間を過ごせたのに。


 2人の思いが通じ合って、ようやく『恋人同士』という関係になれた。

 けれど……幸せな2人をあざ笑うかのように、現実は容赦なく襲いかかってくる。


「……こんなに上手くいかないんだな」

 とある土曜日の夕方、人の少ない路地裏を自宅のマンションへ向けて歩きながら、茂庭万吏は珍しく、どこか疲れた声で吐き捨てた。

 春先とはいえ、夕方ともなると風はまだ冷たい。ロングコートを羽織っている万吏は、その襟を立てるように着用して横顔を隠しながら……もう一度、ため息を付いた。

 先程仕事終わりに合流し、同じくコートを着用して隣を歩く恋人の支倉涼子は、何も言えずに……彼の隣に付き従い、歩幅を合わせて歩く。

 彼がここまで疲れ切っているのには、自分ではどうしようもない理由があった。


 我慢できなくて、職場の不正を――名杙と癒着関係にあることを告発した。

 結果、縁を切られたのは自分だった。

 ここまでは想定していた。だから退職して、石巻で独立しようと思っていたのに。

 万吏は『名杙』という家の力を過小評価していたのだ。彼らの権力が及ぶのは仙台圏のみではない。現に今、事務所として石巻市内に物件を借りようと思っても書類審査で落とされたり、顧客として新規開拓しようと思っても、万吏の名前を聞いただけで門前払いされてしまうことがある。

 その理由が、名杙が『茂庭万吏からの仕事を受けないように』という『お触れ』を、石巻を含む県内の商工会に出しているから……ということを、地元で家業を継いだ同級生がこっそり教えてくれたのだ。

「お前……名杙を敵に回すとか正気か? あの家を敵にすると、少なくとも宮城で商売なんか出来るわけねぇぞ」

 そう言って彼もまた、自分と距離を置くようになった。

 それ以外にも同級生や知人をあたってみるけれど、けんもほろろにあしらわれる。

 まるで疫病神のように、自分が戸口に立っているだけで「帰れ」と冷たくあしらわれたこともあった。


 あの家は、底が知れない。

 知らず知らずのうちに逃げ道を塞がれ、孤立させられてしまう。

 気づけば――周囲との縁を、切られてしまう。


 こんなはずじゃなかった。

 正義を信じて貫けば、良い結果が伴うと思っていたのに。

 『憑いてきた』のは……『疫病神』のみ。

 正直者が馬鹿を見る、そんな現実だ。


 ふと、隣を歩く涼子を見やる。

 告白をして、受け入れてもらって、今、とても幸せで。

 彼女の笑顔に支えられて、かろうじて立っているような状態だ。


 この笑顔を、守れるだろうか。

 彼女をこのまま、自分のエゴに巻き込んでいいのだろうか。


「万ちゃん……?」

 いつの間にか立ち止まっていた万吏を追い抜いてしまったことに気づき、涼子が慌てて彼の隣に戻ってきた。

「どうしたの? 考え事?」

 自分を覗き込む彼女の顔を、直視できない。

 夕焼けに照らされた道の真ん中で、万吏は1人、立ち止まっていた。


 進み続けて、良いのだろうか。


 この道は――間違いじゃないのだろうか。


 怖い。

 あの災害の時のように、突然、全てが壊れてなくなってしまったら。

 この先が分からないことが――怖い。


「スズ、俺……」

 万吏が少し震える声で彼女の名前を呼ぶと、涼子はそんな彼の手を握って、首を横に振った。

「万ちゃんは、間違ってないよ」

「スズ……!?」

 優しい声に、心が震える。

 まだ自分は、何も言っていないのに。

 どうして彼女は……しっかり先を見越して、自分が一番欲しい言葉をかけてくれるのだろう。

 涙を流したくなくて、反射的に上を見上げた。涼子はそんな彼を見上げてクスリと笑った後、もう一度、念を押すように言葉を続ける。

「私には、難しいことは分からないけど……でも、万ちゃんが間違っていないことは誰よりもよく知ってるよ。勿論、正義感だけではどうにもならないことが多いかもしれないけど……でも、それでも、万ちゃんが前みたいに我慢して、辛い顔をしているのは……見たくないの」

「スズ、俺は……何も分かってなかった。あの家の恐ろしさも、人の怖さも……何も」

「そうなんだ……でも、それが分かっただけでも、大きな一歩なんじゃないかな」

 涼子はそう呟いて、彼の手を強く握った。

「私がいるよ、万ちゃん。万ちゃんのことを信じてる私が、万ちゃんのことを大好きな私が……ずっと、隣にいるからね」

 万吏は繋がったままの手を自分の方へ引き寄せ、そのまま彼女を抱きしめた。涙を見られたくないので上を向いたまま、暮れていく茜空を見つめながら……思いをこぼす。

「……好きだ」

「万ちゃん……」

 万吏は何度か鼻をすすり、呼吸を整えてから……彼女の頭を優しく撫でて、いつも通りの声音で、もう一度告白をした。

「好きだよ、スズ。俺……もう少し頑張ってみるわ。スズが隣にいてくれるのに、情けないところは見せたくないもんな」

「でも、頑張り過ぎちゃダメだよ」

「分かってる。でも、ここが踏ん張りどころなんだ。だから――隣にいて欲しい」

「……分かった。万ちゃんが倒れそうになったら教えてあげるね」

 涼子もそう言って、彼の背中にそっと腕を伸ばしながら……こんな場所で誰か来たらどうしよう、と、別の心配が頭を過るのだった。


 その後、万吏は更に奮起して諦めずに石巻周辺で営業を続けた結果……名杙をよく思っていない、また、名杙当主である名杙領司から秘密裏に紹介された仕事先を拠点に、ジワジワと人脈を広げてきた。

 領司が自分へ情けをかけてくれていることは分かっている。本当は頼りたくないのが本音だが……領司が紹介してくれた顧客は、『なぜか』名杙を快く思っていなかった。

 名杙も内部で色々あるんだなと思いつつ、万吏はこれ幸いにと踏ん張って地盤を整え……そして、涼子に慰められてから約1年、ようやく、貯金を崩さなくても何とか生活をしていけるようになってきた。

 そんな時、かねてから親しかった名倉陽介から、ある人物と会って欲しいという打診を受け、万吏は1人、名倉家のリビングにいた。

 出してもらったお茶を飲みながら待っていると、玄関先が騒がしくなり、バタバタと足音が近づいてくる。そして。

「あーっ!! 万ちゃんっす!! お久しぶりっすね!!」

 中学校のジャージを着ている名倉里穂が、ポニーテールをなびかせながら万吏に笑顔を向けた。

「おぉ里穂、中学校でもサッカーしてるのか?」

「勿論っすよ!!」

 元気に胸を張る彼女に、万吏は思わず目を細めた。すると、そんな彼女の後ろにおいついた柳井仁義(やないひとよし)もまた、万吏を見つけて軽く会釈をする。

「万吏さんこんにちは。今日はどうしたんですか?」

「おぉ、仁義もおかえり。いや、陽介さんが俺と会わせたい人物がいるからって呼び出されたんだよ」

「会わせたい人……ああ」

 誰か思い当たったのか、仁義の顔に笑みが浮かぶ。万吏と同じく顔に疑問符を浮かべている里穂が、仁義の制服の袖をちょいちょいと引っ張った。

「ジン、誰か分かるっすか?」

 その質問に、彼はどこか楽しそうに返答する。

「多分だけど……政宗さんじゃないかなって」

「あぁ、政さんっすね!!」

 すぐに合点がいった里穂は、1人だけ理解出来ていない万吏に、ドヤ顔でこんなことを言った。

「万ちゃん、政さんは凄い人なんっすよ!! なんてったって、うち兄と一緒に新しい組織を立ち上げて、そこの偉い人になる人なんっすから!!」

「うち兄……名杙統治君だよね。ってことはその政さんも、名杙家の人なの?」

 当然の問いかけに、里穂は首を大きく横に振った。

「それが違うっす!! 政さんは名杙家じゃないのに名杙を認めさせた、本当に凄い人なんっす!!」

「名杙じゃ、ない……!?」

 里穂の言葉に万吏は思わず息を呑んだ。

 あの閉鎖的な家を認めさせ、次期当主候補筆頭である統治と共に組織を立ち上げようとしている人物。

 そんな人物が、本当にいるのだろうか?

 半信半疑の万吏が言い淀んでいると、リビングに陽介が入ってきた。そして、里穂と仁義を子ども部屋に戻るよう促してから……自分の隣に立っている青年を紹介してくれる。

 真新しいスーツ姿に負けない、意志の強さを感じる真っ直ぐな眼差し。それだけで彼がどれだけの修羅場をくぐり抜けて来たのかが何となく分かるほど、年下とは思えない、堂々とした佇まいに思えた。

「万吏君、彼は佐藤政宗君。今度、統治君と一緒に、仙台に名杙の窓口を開設することになったんだ。ただ、彼は経理については素人だから……色々と力になってあげてくれないかな」

「初めまして、佐藤政宗です」

 彼――政宗はよく通る声で自己紹介をした後、深く頭を下げる。

 万吏も立ち上がって頭を下げた後……自分から、手を伸ばしていた。

 彼と繋がれば、きっとこれから面白いことになる――そんな、根拠のない予感。

 久しぶりにワクワクする、そんな高揚感。

「初めまして、公認会計士の茂庭万吏です。これから宜しくね、政宗君」

 そう言った彼の手を、政宗の手がしっかり握り返して。


 かつて死神と呼ばれた政宗と、疫病神というそしりをうけた万吏。

 そんな2人の縁が繋がり、物語は更に加速する。


 こうして……万吏が独立して、石巻での仕事も軌道に乗り、落ち着いた頃、あの災害から間もなく4年が経過しようとしていた。


 万吏の部屋で半同棲状態の日々を続けてきた2人は、今日も仕事終わりに最寄り駅で待ち合わせをして、食事を食べて、片付けをして……同じ時間を過ごした。

「スズ、ちょっといいか?」

「ん?」

 風呂の温度を確認して戻ってきた涼子を手招きする万吏。リビングの床に座っている彼の隣に腰を下ろした涼子は、珍しく視線が泳ぎ気味の万吏に首を傾げる。

「万ちゃん……どうしたの? 仕事でやらかした?」

「やらかしてません」

 涼子の言葉を否定しつつ……万吏は一度、呼吸を整えた。そして。

「あのさ……スズに頼みがあるんだ」

「頼み?」

「ああ。俺はずっと、スズが隣で笑ってくれると無条件で信じてた。でも、あの災害があって、日常が壊れて……こうして一緒にいられることは本当に奇跡なんだなって、実感したんだ」

「……うん、そうだね」

 そう言って頷く涼子を、万吏は真っ直ぐに見据えた。



 後悔した。



 また会える、そう思って話をしなかったこと。

 君を見失ってしまったこと。



 嬉しかった。


 

 また会えたこと、話が出来たこと。

 君がこうして……隣にいてくれること。


 だから……今、未来への約束をとりつけたい。

 次があるかどうか分からない、これからまた、唐突に、理不尽な悲劇が襲ってきても――2人で、乗り越えられるように。


挿絵(By みてみん)


「だから……俺に人生、預けてくれない?」

「万ちゃん……!?」

 その言葉の意味を悟った涼子が、喜びと驚きで戸惑いながら彼を見つめる。

 そして、彼が一度頷いたことを確認すると……泣き声を漏らしそうになる口元を引き締めて、彼の話に耳を傾けた。

「スズの人生、俺に預けて欲しい。その分俺の人生も、スズに預かって欲しい。まぁ、扱いづらいと思うけどね」

「……知ってるし、それ、私にしか出来ないことだよ」

「だよな。うん、これはスズにしか出来ないことだから」

 万吏は涙をこらえて笑顔を見せる涼子を見下ろし、自然な笑顔で問いかける。

「俺と結婚してくれますか、支倉涼子さん?」


 願いを言葉にして、2人の約束にしよう。

 2人で、未来を生き抜くために。


「……不束者ですが、よろしくお願いします」

 自分だけに笑ってくれる彼女を抱きしめて、二度と離さないと誓いを新たにする万吏は……とりあえずもっと広いところに引っ越しをしようと、早速2人の未来を考えてほくそ笑むのだった。

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