17周年記念・ユカと政宗の小話/あだ名、やめました。
17周年記念のトリを飾るのは、この2人をメインにした小話です。
政宗、遂にユカの「ケッカ」呼びをやめる!? ユカにとっては喜ばしいこと、の、はずですが……のほほんとした気分でお楽しみください。
登場キャラクター:ユカ、政宗、統治、心愛、里穂、仁義、華蓮
ユカが体調不良から回復して、梅雨の隙間の晴れ間が続く、そんな7月の初め頃。
時刻は間もなく13時になろうかという頃。12時からの昼休憩を少し早めに切り上げ、東日本良縁協会仙台支局にて1人、事務作業をしていた佐藤政宗は……事務バイトの片倉華蓮からデータで提出してもらった6月の勤務状況のまとめをパソコンに映し出しながら、重い息をついた。
山本結果の欄のみ、勤務時間が少ない。
彼女は結局2週間近く休んでいたのでしょうがないのだが、こうして目に見える数値で見せられると、あの出来事を乗り越えることが出来たのは、本当に奇跡だったんだと改めて思う。
ユカが様々な因子の悪戯により、一時的に身体が成長して。それと引き換えに、心と記憶が退行した……そんな、奇跡のようでオカルトじみた、隙間だらけ、ツギハギだらけの時間だ。
そして、政宗にとっては……10年ごしの片思いが成就した、そんな、幸せな時間でもあった。
「ユカ、だよな……やっぱ」
政宗は机に頬杖をつき、改めて、今は主のいないユカの席を見つめる。
ココ数日、ずっと思っていることがあった。とても些細なことではあるけれど、それをいざ実行しようとなると尻込みしてしまう……そんな、政宗にとっては大きな挑戦。
彼が本日何度めか分からない決意を固めた次の瞬間、支局の扉が開き、二人分の足音と、ユカと統治の話し声が近づいてきた。
「――やけんがね、その時の里穂ちゃんが……って……!!」
衝立を越えて事務スペースに戻ってきたユカが、既に自席で仕事をしていた政宗に気付き、統治との話を区切って彼に無言で近づいた。
そして「あぁ2人とも、お帰りー」とのんきに言い放つ政宗に、腕を組んでジト目を向ける。
「政宗、また1人で勝手に仕事始めてから……!!」
「安心してくれ、ちゃんと昼ごはんは外で食べてきたぞ」
「そういう問題じゃなかと!! 休み時間はしっかり1時間とれって誰よりも口酸っぱく言いよるんは政宗やんね!!」
彼はいつもこうだ、と、言外で語り、ユカがこれみよがしなため息をついた。
そして、普段であれば軽薄に反論をしてくるはずの政宗が、自分をじーっと見つめていることに気付き……「おや?」と、首を傾げるしかない。
「なんね政宗、人の顔ばじーと見て……」
「……歯に青のりついてるぞ、ユカ」
「なぁっ!?」
刹那、ユカが驚いた声と共に両手を口で抑えた。そして既にイヤホンをして「仕事中の名杙統治に構わないでください。構うな」と背中で訴える統治を睨み……「おや?」と、再び首を傾げる。
ユカは顔に疑問符を浮かべたまま、その視線を再び政宗に向けた。
「政宗……今、なんていった?」
彼の言葉を確認するユカに、政宗は平然と返答する。
「いやだから、ユカの歯に青のりがだな……ええっと、上の歯の右側で――」
「いやいやいやそうなんやろうけどそうじゃなくて!! あ、あれ? えぇっと……その……」
困惑するユカに、政宗は少しだけ意地悪な笑みを向けてから……彼自身の決意を告げる。
「俺もそろそろ……あだ名で呼ぶのをやめようと思うんだ」
彼の言葉にユカは目を更に見開き、無言で立ち尽くした。統治も一瞬キーボードを操作する手を止めたが……平静を装いつつ、パソコンのボリュームを落としながら作業を再開する。
「ま、政宗……どげんしたと? 変なもの食べた? なんかおかしくなった?」
「お前は普段の俺を何だと思ってるんだ……」
「だ、だって10年間変わらんかったとに!! なして今、特に仙台に来た直後でも年末でも年度末でも誕生日でも何でもないこのタイミングで!?」
問い詰めるように理由を尋ねるユカを、政宗は「落ち着け」と両手で制してから……肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「先月、透名さんに言われたこと、覚えてるか?」
「櫻子さんに? えぇっと……」
ユカは必死で脳内メモリから櫻子と政宗のやり取りを引っ張り出して――ある結論に至る。
それは、ユカが体調不良から回復した――『ケッカ』と呼ばれている幼い姿に戻った直後。透名櫻子の実家であり、伊達聖人や富沢彩衣の勤務地でもある透名総合病院で、健康診断を受けたときのことだ。
「ですが、そんな小学生みたいなあだ名で19歳の女性を呼び続けなくてもいいと思いませんか? お仕事上の関係もありますし、支局長である佐藤さんが率先して変えていないと、他の方も変えづらいと思います」
3人で飲み物を飲んで話をしていた時、ユカが政宗から『ケッカ』というあだ名で呼ばれていることを知った櫻子が、彼に対して言い放った言葉だ。
ケッカ――10年前の福岡合宿で彼がつけた、彼女へのあだ名。それを今でも変えないのは、あの頃とは彼女の姿も、そして彼女との関係も変わらないから。あの事件を忘れないという自戒と、自分が彼女を本来の姿に戻した上で呼び名を変えるんだという決意もあった。
しかし、先月のことがあって……政宗の思いが迷子になった結果、『ユカ』を傷つけてしまった。自分が『ケッカ』『ユカ』と呼び分けていると、今後また、もしも同じことが発生した時に、同じことを繰り返すかもしれない。
大好きな女性に我慢をさせて、悲しい思いをさせてしまうかもしれない。
それだけは、二度と繰り返したくない。
「政宗、気にしてたんやね……」
「正論と言えば正論だからな。一応俺も支局長で上司の立場ではるから、統治と同じ『山本』って呼ぶのが一番いいのかもしれないけどそれは無理だ」
「ちょっと待って根拠もなく諦めるの早くない?」
「だからあだ名をやめて、普通に下の名前で呼ぶようにしようと思う。問題ないよな?」
思いの外サラリと言い放たれ、ユカの方が思わず萎縮してしまった。
この呼び名に彼なりの愛着があると思っていたのは……自分だけだったのだろうか。そんな、些細なズレを感じてしまう。
「え? あ、まぁ、政宗の好きにすればよかやんね……」
「ありがとな。ってことでユカ、時間過ぎてるぞ。午後の業務を開始してくれ」
「分かった……」
あっけらかんと言い放ち、再びパソコンを見つめる政宗。ユカはそんな彼に何か言いたそうだったが……口の中に残った言葉をため息とともに吐き出して、無言で自席に戻るのだった。
「政さーん、ケッカさーん!! ちょっと協力して欲しいことがあるっすよー!!」
その日の18時過ぎ、テスト前の部活停止期間ということもあり、『仙台支局』内で試験勉強をしていた名倉里穂が……衝立の向こうから明るい声で2人を呼んだ。
既に終業の時間のため、電話を留守番電話に切り替えていた政宗が、同じくパソコンをシャットダウンしているユカと目を合わせ、首をかしげる。
「ケッ……ユカ、里穂ちゃんどうしたんだ?」
「さぁ。協力して欲しいって言いよったけど……ま、行ってみらんと分からんね」
そう言って立ち上がるユカは、隣で帰り支度をしていた片倉華蓮の机に書類一式をパサリと置いて、自分を見上げる彼女にドヤ顔を向ける。
「ほら片倉さん、間に合ったけんね!!」
「間に合うのが当たり前なんです。当日ギリギリじゃないですか……というか、細かいことを言えば既に就業時間を終えていますので――」
「――お疲れ様でしたーっ!! さー里穂ちゃんケッカちゃんがそっちに行くよー!! どげんしたとー!?」
にべもなく言い放つ華蓮の言葉を遮ったユカは、移動する政宗の背中について、衝立の向こうへ移動する。
そんな2人を見ていた華蓮は……イヤホンを片付けている統治に問いかけた。
「佐藤支局長……山本さんをあだ名で呼ぶの、やめたんですか?」
この問いかけに、統治は一度、無言で首を縦に動かす。
「そうらしい。まぁ、いつまで続くかは分からないが……」
そこまで呟いて、2人が向かった方を見つめた。
その瞳が何を思って虚空を見つめているのかは、本人にしか分からないけれど。
「……これも、いい機会なのかもしれないな」
自分に言い聞かせるようにボソリと呟いてから、机の上の片付けを再開する。
そんな統治から視線を自分の手元に戻した華蓮だったが……ふと、先程のユカの言葉を思い出し、衝立の向こうを見つめた。
ユカは自分のことをたまに「ケッカちゃん」と呼んでいることがある。それは、彼女なりにこの呼び名に愛着があるからだと思っていたから。
「……山本さんの方が、慣れないかもしれませんね」
人知れず呟いた華蓮は、提出されたユカからの書類を、明日チェックするために引き出しの中に片付けた。
「ケッカさんに政さん、お待ちしてたっすー!!」
勉強道具を片付けていた里穂が、何も知らずにやって来た2人を見つけて立ち上がる。政宗への用事で『仙台支局』に立ち寄っていた仁義もまた、里穂の隣で軽く会釈をする。統治に用事があり、里穂の向かい側に座って待っていた心愛は、まだ統治が衝立の向こうから出てこないことに少しだけむくれながら……「お疲れ様です」と義理で2人に頭を下げた。
「里穂ちゃん、どげんしたと?」
「ケッカさん、政さん、『縁故』の仕事をするためのハサミって、持ってるっすか?」
「え? あ、うん、それは勿論……なして?」
ユカの問いかけに、里穂はカバンからスマートフォンを取り出して、その理由を説明する。
「実は名倉では、東日本良縁協会に所属している『縁故』が使用している道具の取りまとめを名杙から任されているっす。ケッカさんのデータは、福岡支局時代のものを使っていたっすけど……ほら、2人は最近、おそろいのハサミに切り替えたじゃないっすか。政さんからハサミそのものの型番やメーカーは聞いているっすけど、実際に持っているところの写真まで必要なんっすよ」
「はー……そげなことやっとるんやねー……」
「西日本では名雲の分家がやってると思うっすよ。と、いうわけでハサミを持ったお二人の写真を撮影させて欲しいっす」
そう言ってスマートフォンのカメラ機能を起動し、レンズを2人に向ける里穂。ユカと政宗は慌ててポケットなどからそれぞれにハサミを取り出すと、とても普通に胸の前で構えた。
刹那、里穂の目に何か怪しい光が宿る。
「――ケッカさん、政さん、そげん普通のポーズでよかとっすか!?」
「へ……里穂ちゃん?」
大きな瞳に炎を宿し、鬼監督のような形相になってよく分からない語尾になっている里穂に、ユカが思わず怪訝な表情で彼女の名前を呼ぶ。
そんなユカをビシっと指差して、里穂は朗々と言い放った。
「もっとこう……具体的には見た目になんか派手で面白いことやって欲しいっすよ17周年っすから!!」
「そげなメタ発言せんでよかよ!? だってコレ、正式な書類に残るんやろ? あんまりふざけんほうがいいっちゃなかと……?」
「大丈夫っすよ。参考程度に添付するだけなので、大体皆さん遊んでるっす」
本当に? と、ユカが里穂の後ろにいる仁義を見つめると、彼はいつもの笑顔で一度頷いた。
名杙的にはそれでよかと? と、椅子に座っている心愛に尋ねたかったのだが、彼女は手元のスマートフォンを操作している。
分町ママなら何か知っているかもと思って姿を探したが、そもそも今はここにいないようだ。
そんなもんなん? と、政宗を見上げると、彼は「里穂ちゃんがそう言ってるならいいんじゃないか?」と肩をすくめた。
じゃあ、折角だし……という謎のお祭り気分で、ユカはとりあえずハサミを無駄にカッコつけて構える。
「こ、こげん?」
「うーん……ケッカさん、もっとダイナミックな動きが欲しいっす。ジョジョ立ち的な感じで」
「じょ、ジョジョ立ち!? いくらここが仙台だからってそげなこと……」
「――政さん、ジン、出番っす!!」
里穂がよく通る声と共に指をパチンとならすと、仁義がスッと立ち上がって、政宗の隣に立った。何事かと思った心愛もまた、仁義の軌跡を目で追いかけている。
そして、2人して目配せを数秒間したかと思うと……瞬時に、まるでスタンド使いが惹かれ合うように、単行本36巻の表紙における主人公と漫画家のポーズ――まぁ、ユカは元ネタが分からないけれど――を真似てみせたのだ。
その呼吸はまさに阿吽、波紋の基礎が出来ていると言っても過言では……いや、これは過言だ。とにかく一朝一夕で出来るような芸当ではない。
「なしていきなりこげなことが出来ると!?」
思わず目を見開いて驚愕するユカに、仁義がどこか懐かしそうに彼との思い出を綴る。
「政宗さんが石巻に助っ人で来てくれていた時……こんな遊びをしていたんです」
「随分ハイレベルな遊びやね……」
どうしてこうなった、と、言わんばかりのジト目になるユカに、仁義は政宗と目配せをしてから、その理由を口にした。
「あの災害の時、停電でテレビやスマホが使えなくて……昼間の時間、気を紛らわせたくて、陽介さんが持っていたこの漫画を一気に読んだんです。そしたら、政宗さんもこの作品を知っているってことで話をしてくれて、こんな気晴らしにも付き合ってくれました」
「……そうなんや」
ちなみに陽介とは、里穂の父親のことである。
そういえばユカはまだ、政宗がどうして里穂と仁義とここまで親しくなったのかをあまり詳しく聞いたことがなかった。政宗のことだから、持ち前のコミュニケーション能力で近づいて、人懐っこい2人を懐柔したのだとは思うけど、今度いずれ、詳しく聞いてみたいものだ。
そんなことを考えているユカに、政宗が何気なく声をかける。
「ユカにも貸すから読んでみろよ。長いけど面白いぞ」
そう言って彼女を見下ろす政宗に、里穂を含む学生3人が同時に首をかしげた。
「アレ、政さん……ケッカさん呼び、やめたっすか?」
代表して里穂が問いかけると、政宗が何のためらいもなく首肯する。
「ああ。これからは支局長としてちゃんとしていこうと思って。でも、里穂ちゃんは気にしないでそのままでいいからね。俺が勝手に区切りをつけただけなんだ」
「そうっすか……政さんのケッカさん呼びは好きだったので、ちょっと残念っすね」
里穂がそう言って肩をすくめると、仁義が「里穂、写真は?」と苦笑いで本題を思い出させた。
「ハッ!? じゃあ政さん、ケッカさんにポーズを付けて欲しいっす」
「ケッ……ユカに? そうだな……」
政宗は一度言いよどんでから、ユカに手を上げたり、顔の角度をこうするようにと指示を出したりして、謎のスタイリッシュポーズを完成させる。
「ま、政宗……コレ、足がプルプルするっちゃけど……!?」
ポーズをとるために左足を持ち上げているユカが、引きつった表情で苦情を申し立てた。
「ユカ、これはドヤ顔が命だ。耐えろ。あと左手の位置を数センチ下げてくれ」
「ふぬぬっ……!!」
ここまでくると謎の意地である。ユカは政宗に負けないようにポーズを維持しつつ……里穂の言葉にちょっとだけ、ほんの少しだけ同意している自分がいることに、気づかないフリをした。
「――はい、これでOKっす!! お疲れ様でしたー」
里穂の言葉と共にハサミを片付けるユカと政宗のところに、帰り支度を済ませた統治と華蓮が合流する。
統治の姿を見つけた心愛もまた、荷物を持って立ち上がった。
「心愛、待たせてすまない」
「べ、別にいいわよ。お仕事なんだからしょうがないしっ」
どこかぎこちなく返事をする心愛に、里穂が口元を手で抑えて笑いをこらえながら、その理由を告げ口した。
「うち兄との買い物が嬉しくて、ココちゃんずーっとソワソワしてたっすよー」
「ちょっ!? ちょっとリッピー!! 心愛はソワソワなんかしてないわよ!!」
慌てて反論する心愛に里穂が「そういうことにしといてあげるっすー」とニヤニヤしながら返答する。そのやり取りを見てどう声をかけようか悩んでいる統治へ、下からユカが問いかけた。
「統治、今日買い物行くと?」
この問いかけに、統治は斜め下を向いてコクリと頷く。
「あぁ。心愛の初級縁故合格祝いを買ってやると約束していたんだ」
「そっか。何か良いものが見つかるといいね」
「すまないが、戸締まり関係は佐藤と分担して実施してくれ。今日は先に失礼する」
「お疲れ様でした、山本さん。お先に失礼します。」
そして、2人の合間をしたり顔で隣をすり抜けていった華蓮が、真っ先に扉から出ていった。
「じゃあ、私達も帰るっす。政さん、ケッカさん、ご協力ありがとうございましたー」
「失礼します。皆さんお気をつけて」
華蓮に続いて、里穂と仁義が『仙台支局』を後にする。
「ほらお兄様、行くわよ。ケッカ、佐藤支局長、お邪魔しましたー」
「こら、だからカバンを引っ張るんやないとあれだけっ……!! 2人とも、後はよろしく頼む」
心愛に引きずられるように、統治もまた、この部屋から出ていって。
『仙台支局』に残された2人は、一瞬、互いの顔を見合わせてから……。
「……さて、いつもの戸締まりを確認したら帰るぞー。ユカはそっちのキャビネットから頼む」
「了解」
慣れた様子で役割分担をすませ、それぞれの作業を開始する。
別々に『仙台支局』を後にした5人だったが、結局、エレベーターホールで鉢合わせをすることになった。
頭上の階数表示を見上げる華蓮に、隣に立つ里穂が話しかける。
「片倉さんは驚かなかったっすか? 政さんがケッカさんを普通に呼んでること」
「いいえ特に。一時的なものだと思ってますから」
「流石っす、手厳しいっす」
にべもなく言い放つ華蓮に、里穂が苦笑いで閉口した後……華蓮とは反対側に立っている仁義に視線をうつした。
「ジンはどうだったっすか?」
「うーん……確かに少し驚いたけど、政宗さんがそう決めたんだからいいんじゃないかな」
「そうなんっすよ、確かにその通りなんっすけど……なんか、ケッカさんの方が納得してない気がしたっすよねー……考え過ぎだとは思うっすけど……」
首を傾げる里穂に、華蓮がチラリと視線を向ける。
そんな3人の様子を見ていた統治のシャツを、心愛がちょいちょいと引っ張った。
「ねぇ、お兄様……佐藤支局長が変えたから、心愛もやっぱり変えたほうがいいよね」
心愛もまた、ユカのことを『ケッカ』と呼ぶ1人である。どこか心配そうな表情の彼女に、統治はゆっくり首を横に振った。
「心愛が佐藤に合わせる必要はない。山本も特に気にしないだろうから、今のままでも構わないと思う」
「そ、そうかな……」
「心愛が気になるなら変えればいいだけのことだ。呼び方が何であれ、山本が山本であることに変わりはない」
統治の言葉に、心愛は少し思うことがあったのか……少し考えた後、天井を見上げてひとりごちる。
「……それもそうね」
彼女がそう呟いた瞬間、下に向かうエレベーターが到着した。
分担して『仙台市局』内の戸締まりを済ませ、1階の施設事務所に鍵を預けてから、2人は夕焼けに染まる仙台の街へ飛び出した。
「なんか……今日の空は綺麗やね」
文字通り茜色に染まる空を建物の隙間から見上げ、ユカが目を細める。
「そうだな。梅雨が明けてないことを忘れそうだ」
隣に立つ政宗もまた、手を腰に当てて一度息をついた。
そのままいつも通り仙台駅へ向かい、仙石線に乗って家に帰る。
いつも通り、何も変わらない日常のはずなのに。
「そうだユカ、明日の午前中は統治が名杙の用事で……」
名前の呼び方なんて個人の自由だ、どう呼ばれたって自分が自分であることに変わりはない。
あの時――麻里子に導かれ、『山本結果』と名乗り始めた時から、ずっとそう思ってきた。
それなのに――
心に残る、この違和感はなんだろう。
「……ケッカちゃん?」
あの夏の研修、初めて顔を合わせたときに、そう呼ばれるようになって。
「いや、その漢字はケッカちゃんだよね。響きとしても可愛いと思うから、この研修で生まれたあだ名ってことで、どう?」
急に距離をつめてきたと思ったら、あっという間に呼び名を定着させて。
「――無事に到着できて良かったな、『ケッカ』」
仙台にやって来たときも、開口一番、こう呼んで……2人の関係が変わらないことを実証してくれた。
それをどうして、今更――まるで『ケッカ』がなかったことになるみたいに――
「……カ、ユカ、聞いてるか?」
「え?」
自動改札を機械的に抜けたところで、追いついた政宗に尋ねられる。
反射的に彼を見上げたユカは、自分を呆れ顔で見下ろす政宗に気が付き……「ごめん」と素直に謝罪した。
「話、聞いとらんかった。どげんしたと?」
「あのなぁ……明日の午前中、統治が名杙の用事で遅れて来るし、俺は朝イチで客先に行かなきゃいけないから、事務所の開所作業頼んだぞって話、聞いてなかったな」
歩きながら説明する彼から視線をそらし、ユカは努めて明るい口調で返答する。
「……スイマセンでした。そして了解でーす」
「まぁいいや。そういうことだから寝坊するなよ、ケッ……」
いつもの調子で声をかけようとした政宗は、呼び方まで戻っていることに気付いて閉口した。
ユカはそらしていた視線を彼に向けて、少しぎこちなく提案する。
「べ、別に無理して変えんでもよかよ? あたしだって、政宗の呼び方を変えるわけじゃないんやし……」
「セレナちゃんの真似してくれてもいいんだぞ?」
「えー……」
どこかニヤつく表情で自分を見つめる彼が、ホームへ向かう下りエスカレーターに乗った。一段間隔をあけてユカがのると、政宗と視線の高さが同じくらいになる。
身体を横に向けて自分を見上げる政宗に、ユカは一瞬思案してから……脳内にセレナを召喚した。
「……ムーネリンっ♪」
多少声を作り、ぎこちない笑顔ではあるものの……政宗を黙らせるのには十分過ぎる威力がある。
案の定硬直して何も言えなくなる彼に、ユカの方が恥ずかしくなって矢継ぎ早に彼を攻め立てた。
「ちょ、ちょっと!! 折角人が頑張って呼んでみたとに無反応ってひどいっちゃなかと!?」
「お、おう……思ったほど悪くないから、ユカも俺に便乗して変えてくれていいぞ」
「何それ!! も、もう絶対に呼ばんけんね!! バカ政宗!!」
ユカがそう断言してそっぽを向いた時、エスカレーターはホーム階に到着した。
仙台駅から他の乗客に混じって電車に乗ることが出来たユカと政宗は、7人がけの席に、運良く並んで座ることが出来た。
帰宅ラッシュでもあるため、2人の左右にも乗客が隙間なく腰掛け、前にも学生やサラリーマンが立っている。ユカは膝の上にカバンを置いて一息ついてから、隣でスマートフォンを確認している政宗を見上げた。
「政宗、あの……」
「ん? ユカ、どうかしたのか?」
彼が自分を呼ぶ呼び名が、あまりにも普通で。
ユカは言いかけた言葉を飲み込み、頭を振った。
「今日の夕ごはんの参考にするけんが、昨日何食べたか教えて」
「昨日? 昨日……何だったっけか……」
政宗が必死に昨日の夕食を思い出している間に電車が動き出し、車内がガタリと揺れる。
「政宗……まさか思い出せんと? お酒の飲み過ぎで脳細胞死にかけとるんじゃないやろうね?」
「失礼なこと言うなよ!! 昨日だろう? 昨日は確か、統治が冷凍してくれたあれがだな……そう、アレだよケッカ!! ケッカなら分かってくれるよな?」
そう呼ばれた次の瞬間、ユカは無意識のうちに口元を緩めていた。
「アレで分かるわけなかろうもん、バカ政宗」
「……お前さっきから人のことバカ呼ばわりしすぎじゃないか?」
「本当のこと言って何が悪いとね。大体政宗は――」
ユカが笑顔で彼を見上げた次の瞬間――電車が突然、急ブレーキをかけて停車した。
車内がひときわ大きく揺れて、前かがみで彼を見上げていたユカの身体が大きくよろける。
「――うわっ!?」
前に倒れそうになった彼女の腕を政宗が掴み、何とか転げ落ちるのだけは回避することが出来た。
「助かったー……政宗、ありがとね」
「いや、ケッ……ユカが無事ならいいんだ。何かあったのか……?」
動揺する他の乗客と同様にに、2人が顔を見合わせていると……車内アナウンスが聞こえた。どうやらこの先にある踏切で誰かが非常停止ボタンを押したらしく、安全を確保するために停車したらしい。
確認後発車するので待ってくれ、というアナウンスが終わると、車内は少し、雑然とした雰囲気になった。
「どれくらい動かんとやろうか……」
「そうだろうな。ま、単なるイタズラだったらすぐに動き出すだろ……ふぁ……」
刹那、政宗があくびを噛み殺し、目元を抑えて軽く頭を振る。
「政宗、眠かと?」
「あー……久しぶりに座れたら、一日の疲れが一気になー……」
「別にちょっとくらい寝てもよかよ。あたし起きとるけんが」
「ちゃんと起こしてくれよ……あー、駄目だ。ちょっと寝るわ……」
政宗はそう言い残し、腕を組んで頭を下げた。
ユカはそんな彼の横顔を見やり、「お疲れ様」と呟いてから……膝の上に置いたカバンから、スマートフォンを取出した。
――夢を、見た。
それは先程見た夕焼けのように、とても綺麗な茜色の夕焼け空。
でも、彼が見ているのは、空ではない。
部屋の中にいる――彼女の姿だった。
「――、ちょっと、聞いとる?」
部屋の中から聞こえる彼女の声に、手すりに身体を預けていた彼が首を傾げる。
カーテンの隙間から顔を出した彼女が、どこか不服そうに声をかける。
「ご・は・ん・で・き・た・よ」
「ああ。ありがとな、『ケッカ』」
そう言ってニヤリとほくそ笑むと、カーテンにくるまっている彼女が、意外そうに目を丸くした。
「その呼び名……久しぶりやね」
「そうだな。また戻したほうがいいか?」
「どっちでもよかよ。まぁ……幼女が好きなら戻せばいいっちゃなかと?」
そう言って、今度は彼女が口元にニヤリと笑みを浮かべる。
彼はそんな彼女に目を細め、部屋のほうに向けて歩き出した。そして履いていた突っ掛けを脱ぐと彼女の隣に並び立ち、わざとカーテンごと彼女を抱きしめる。
「ふわっ!? ちょ、なんばすっとね!?」
カーテンと一緒に動く身体は、あの時のような、小柄な彼女ではない。
彼は彼女の頭の位置を確認すると、わざとらしく撫でて楽しそうに笑った。
「いや、久しぶりに『ケッカ』を思い出そうかと」
「だから、あたしはもう『ケッカ』じゃなかって!!」
「ああ……知ってるよ、――」
そう言って彼女の名前を囁くと、カーテン越しに華奢な体がピクッと反応する。
互いの名前を交換して、家ではそれで呼び合うようになって。
最初は気恥ずかしくてくすぐったかったけれど……だいぶ慣れてきたこの時間が、今はとても愛おしい。
と、不意に彼の腕をすり抜け、カーテンから飛び出してきたかと思うと、彼を見上げて笑顔を向けた。
「ほら、ごはん冷めちゃうよ。早く……一緒に食べよ」
「そうだな。明日からまた仕事だからなー」
彼は改めて彼女の頭に手を添えてから、暖かい食卓に向けて歩き出す。
こうして隣にいてくれる彼女と、ずっと――
「……ずっと一緒にいような、――」
「――っ!?」
刹那、政宗がうわ言のように呟いた言葉が耳に入ったユカは、持っていたスマートフォンを取り落としそうになり……ギリギリのところで持ちこたえた。
つい先程、電車が安全確認を終えて再び動き出した。約15分ほどの遅れで運行している車内には、夕日の明かりが眩しく差し込んでいる。あの停車以降は問題なく線路を進み、つい先程、2人が降りる1つ手前の駅を出発したところだ。
そろそろ彼を起こさなければと思って、ユカはスマートフォンを片付けようとした、そんなタイミングでカーブに差し掛かり、電車が少し大きく揺れる。彼の頭が勢い良くガクリと前に落ち、ユカが思わず大丈夫かと、彼の顔を下から覗き込んだ直後のことだった。
予想外すぎる不意打ちに、顔が赤くなっていくのが分かる。脈が早くなり、混乱が収まらない。
「え? 嘘、まさか……ありえん、そげなことあるわけが……!!」
聞き違いかと思った。でも、はっきり聞こえたのは『ケッカ』でも『ユカ』でもなく……とても久しぶりに聞いた、自分の『本当の名前』。
しかし、これを知っているのは名杙、名雲の両家当主と、ユカをここまで導いてきた福岡の麻里子だけだ。将来的には家族になる人物――要するに結婚相手は知ることになるが、そもそも政宗とそのような予定は白紙の状態ですら存在しないし、ユカ自身の問題が解決しない限り、『恋愛にうつつを抜かす暇などない』。
だから、彼がこの名前を知っているはずがないのに。
どうして、そんなに優しい声で――とても幸せそうな声で、この名前を呼んでくれるのか。
まるで――結婚しているみたいじゃないか。
「……」
ユカは一定の呼吸を心がけながら、改めて、眠っている彼を見つめる。
当然だが彼の夢の詳細を、寝顔やうわ言だけでうかがい知ることは出来ない。
でも、夢の中だけでも……せわしなく過ぎていく日常から少し遠ざかって、幸せそうにしていること。
その隣に、自分と同じ名前を持つ人がいることに、少しだけ、頬が緩んだ。
「全く……どげな夢を見とるとやか。後でちょっとムネリンに聞いてみようかね」
ユカが彼の頬をつついてほくそ笑んだ次の瞬間、車内アナウンスが、2人の降りる駅名を告げる。
改めて荷物周りを整理したユカは、もう一度、呼吸を整えて――隣で眠る彼の肩を、少し強引にゆすり起こした。
「ほら、政宗、まーさーむーねっ!! 次で降りるよー」
「……んあ? あぁ……ケッカ、おはようございました……おやすみなさい……」
「ったく、まだ寝ぼけとるとね……」
あくびを噛み殺して長く息を吐く政宗は、すっかりユカの呼び方が『ケッカ』に戻っていることに……気付いているのだろうか。
当然ながらそれに気がついているユカは、どこか楽しそうに指摘せざるを得ない。
「やっぱり『ケッカ』呼びに戻したほうがよかっちゃなかと? なんか……うん、いづい」
「いづい? ケッカは若干使い方が違う気が……あ。」
刹那、政宗が目を開いてユカを見つめる。そして、「ほら言わんこっちゃない」というしたり顔で自分を見つめる彼女に……ため息をついて降参するのだ。
「今の俺なら出来ると思ったんだけどなー……やっぱ、この姿見てると『ケッカ』って呼びたくなるんだよ」
「それでよかよ。なんかあたしも……不本意やけど、今はその呼び方に慣れちゃった。今更『ユカ』って呼ばれても違和感があるって、どういうことなんやろうか」
「それは……まぁ、申し訳ない」
「でも、それも全部ひっくるめて、あたし達なのかなって改めて思った。そう、政宗とあたしは……ずっと、そうしてきたやんね」
ユカはそう言って、握った右手を差し出す。
政宗もまた、握った左手を彼女の手に押し当ててから……ずっと変わらない、でも、ずっと逞しくなった彼女に、改めて声をかけた。
「じゃあ、もうしばらくこのあだ名でよろしくな、ケッカ」
もうしばらく――ユカの問題が全て解決する、その時まで。
2人の手が窓から差し込む夕日に照らされたその瞬間、電車がゆっくり止まり、最寄り駅に到着した。
ひのちゃんとおがちゃんにもらったイラストを使いたくて、政宗がユカをあだ名で「呼ばない」話を書きたくて……何故かジョジョ立ちになりました。いや、政宗と仁義はこういう兄弟的なノリが欲しいなって思って……あと、あのイラスト見たら直感的にそう思ったんです。杜王町に遊びに来てね。
そして2枚目に関しては、夕焼け空がとにかく印象的だったのでそこをなるだけ生かしたいなと思いました。当然ですがこんかいは無意識の偶然がうっかり重なっただけですので、政宗は何を口に出したのか覚えていませんし、ユカの本当の名前を知りません。今後特に知る予定もありません。(ヲイ)
こんな2人が「ケッカ」「政宗」って呼び合って、軽口叩き合って笑ってるのが、霧原は本当に好きなんだな、と、書いていてシミジミ感じておりました。
楽しんでいただけたのであれば幸いです。引き続き、こんな彼らと霧原を、よろしくお願いします!!




