2017年一誠生誕祭小話・馴れ初め①/始まりはピザ
一誠と瑠璃子の誕生日には、2人の馴れ初めを追いかけていきたいと思います。最初はダイジェストにしようと思いましたが、これはもう、2~3年かかっても、ある程度じっくり追いかけていきたいと思えました。
そして福岡側を強化するために、新キャラも投入しますよ!! 彼らもいずれ本編に出せる、と、いいなぁ。
登場キャラクター:一誠、瑠璃子、香音(新キャラ)、孝高(新キャラ)
「――もっどりまー……したぁ」
7月、梅雨明け間近の福岡県福岡市。ジワジワ蒸し暑くなっていき、不快指数が上昇していく曇り空の夕方。
『西日本良縁協会福岡支局』の事務所の扉を開いた彼女は、底抜けに明るい声と共に室内に足を踏み入れた。
事務所内にいた数名のスタッフが、銘々の席から軽く会釈をしたり、「お疲れ様ー」と声をかける。
金色に脱色した髪の毛は、毛先が荒れすぎたために先日ショートカットにしたばかり。今日は耳の後ろからピンクのエクステをつけており、アレンジして着崩したブレザーの制服と膝上のミニスカートを颯爽と着こなしている。
彼女は早坂香音、高校2年生。今年の4月終わりに『福岡支局』の仲間入りを果たし、5月の『初級縁故』試験をパスした新人『縁故』である。
彼女――香音は大股で、事務作業をしている徳永瑠璃子の元へ近づいた。瑠璃子もまた顔を上げて「お疲れ様ー」と笑顔を向ける。
肩につく程度の長さのソバージュヘアに、膝丈の半袖ワンピースの上から、クーラー対策で七分袖のカーディガンを羽織っている。丸メガネの奥にある瞳が香音を捉え、そして――
「あれ、一誠……今日はセレナちゃんじゃなかったと?」
どこか疲れた表情で香音に追いついた彼――川上一誠の姿に、書類を探す手を止めて首をかしげた。
半袖のワイシャツにグレーのズボンという出で立ちの彼は、ポケットから取り出したハンカチで額をおさえ、先に到着した香音にジト目を向ける。
「早坂ちゃん……なして俺を置いて先に行くとか」
「えー? だって一誠さん足遅いっちゃもん。なしてウチが待っとかんといかんとー?」
臆せず笑顔で言い返す香音に、一誠は重苦しいため息をついて頭を抱えた。
新人『縁故』の研修や付き添いは、今までで何度もやってきた。ユカやセレナのみならず、現在、この『福岡支局』で活躍しているほぼ全ての『縁故』に一誠が関わっていると言っても過言ではない。それだけの実績がある彼をしてみても、この香音の存在感と神経の図太さは異常だ。
彼女は『縁故』の仕事を完全に小遣い稼ぎにしている。とにかくお金がほしい――リアルJKは何かと物入りだから、らしい――彼女は、素人でなくても思わず足がすくむほどグロテスクな『遺痕』でも、「5000円ゲットー!!」と笑いながら切っていくのだ。怖い、一誠は最近の若者が超怖い。
普段は彼女と年齢も近い橋下セレナが面倒を見て、一誠はセレナの指南役として、全体を統括しているのだが……。
一誠がその理由を告げる前に、事情を思い出した瑠璃子が机上のじゃ◯りこをつまみながら呟いた。
「あ、そうか、セレナちゃんは午後から半休やったねー。じゃあ、香音ちゃんはコレにいつも通り実働時間書いて、一誠でも私でもどっちでもいいけん、直接手渡してね。食べる?」
そう言って香音に書類と◯ゃがりこを差し出すと、香音は遠慮することなく3本ほどつまみ上げ、それをポリポリ食べながら、もう片方の手で書類を受け取った。
そして……半歩後ろに立っている一誠を見やり、首をかしげる。
「そういえば一誠さんって、なして瑠璃子さんと結婚したとですか?」
「は……?」
何の脈絡もない質問に一誠が目をひん剥くと、香音は「あ、間違えた」と呟いて、先程の言葉を訂正する。
「いや、むしろ結婚してもらったって言うべきなんやろうけどさぁ……瑠璃子さん、なして妥協したと?」
「ちょっとまってくれ早坂ちゃん、どうして瑠璃子が妥協したことになっとるとか!?」
「えー? だってウチやったら一誠さんと結婚とか絶対無理やもん。暑苦しそうやし、口うるさそう。あと足臭そう」
「……」
若者からの容赦ない評価(一部偏見混じり)に、一誠は口をつぐむしかない。
そんな2人に、瑠璃子は笑顔で解散を促した。
「はいはい2人とも、身体を動かしてきたあとは、デスクワークを頑張らんねよー」
一誠が瑠璃子と初めて出会ったのは、もう、15年近く前のことになる。
当時の『福岡支局』は、今よりももっと落ち着いた雰囲気だった。悪く言えば停滞していたと言うべきかもしれない。そんな時、副支局長に就任したのが、名雲現当主の妾の娘・山本麻里子である。
当時のトップがとても流されやすい、事なかれ主義の人間だったこともあり、麻里子は相棒の古賀孝高と共にそれはもう粛清しまくった、らしい。一誠もそのあたりはよく知らないし、聞かないほうがいいと思っている。
そんな一誠が『縁故』としての能力に目覚め、孝高と出会って『福岡支局』に所属するようになってから2年後、孝高が連れてきたのが、当時高校2年生の瑠璃子だった。
佐賀県出身の彼女は、当時、福岡市内の高校に通っていた。その頃から小柄で丸メガネ、どこからともなく飴玉やチョコレートを取り出して食べているような、そんな印象。
そして一誠にしてみれば、初めて出来た後輩でもあった。
「初めまして、えぇっと……そうだ、徳永瑠璃子です。よろしくお願いします」
「俺は川上一誠。徳永さん、宜しくな」
偽名に慣れない彼女がはにかんで自己紹介をした時、可愛い女の子が入ってきたもんだなと内心驚いたし、こんな普通の女子高生に『縁故』という命がけの仕事が出来るのかと、若干心配にもなった。
そして……自分が先輩としてしっかりしなければ、と、そんなことを思ったのだ。
しかし、そんな一誠の心配を知るはずもない瑠璃子は、マイペースなハイペースで『縁故』の仕事に慣れていき、たった1年程度で一誠と肩を並べるようになった。
そして、瑠璃子が受験生になった年の11月、一誠もまた、ある難題に悩まされることになる。
「……本当に君は、ダメだな」
11月下旬、とある平日の19時過ぎ、『福岡支局』内の応接スペースにて。
目の前に座っている孝高からプリントを突き返された一誠は、「うがぁぁぁ……」と嘆きながら天井を仰いだ。
一誠は今、12月に受験する予定の『上級縁故』の試験に向けて、筆記試験対策をやってもらっていた。初級、中級はまだ自力で何とかなったのだが、上級ともなると途端にレベルが跳ね上がり、しかも選択肢ではなく、論文のように記述しなければならない問題がグンと増える。現に彼は7月に初めて受験した際、筆記試験がボロボロで不合格だったのだ。
そのため、今回は事前に孝高が家庭教師並の個人指導を実施しているのだが……どうにも成果が芳しくない。はっきり言ってしまうと、このままだと今回も落ちる。
孝高は足を組み替え、同時に配布された模範解答とにらめっこをする一誠にジト目を向ける。
「君は大学生だろう? 受験はどうやって突破したんだ。裏金か?」
「違いますよ!! 孝高さんに教えてもらったところがそのまんま出たんです!!」
「運を味方につけたパターンか……また今回も悲惨な結果になるな」
孝高がもう一度ため息をついた次の瞬間……奥の事務所から出てきた瑠璃子が2人の姿を見つけ、首を傾げた。
「お疲れ様です。川上さんの声、中まで聞こえてましたけど……どげんしたとですかー?」
何も知らない瑠璃子の問いかけに、孝高が端的に事実のみを告げた。
「気にしないでくれ。彼の出来が悪いだけだ」
「孝高さん事実ですけどその言い方はキツかですよ……」
ガクリとうなだれる一誠に近づいた瑠璃子は、彼の斜め後ろから模擬試験の答案を覗き込み……。
「……さんじゅういってん……あらー」
「か、勝手に見ないでくれよ!! こ、これからだからな!!」
思わず声に出されるのみならず、年下の後輩に憐れみの目を向けられるのは精神的にとてもしんどい。思わず答案用紙を裏返して足を組み替える一誠に、瑠璃子が容赦なく現実を突きつける。
「でも川上さん、確か7月も筆記でダメだったって、それで、あげなことに……」
「だ、だからこれからなんだ!! 週末には孝高さんのところで合宿だからな!! それで完璧だ!!」
刹那、孝高がギロリと一誠を睨んだが、一誠は言ったもん勝ちだと言わんばかりの表情で彼にドヤ顔を向けた。
すると、その話を聞いた瑠璃子が少し考えて……孝高にこんなことを尋ねる。
「古賀さん、その合宿を本当にやるんやったら……土曜日の日中とか、私も参加していいですか?」
刹那、孝高が少し驚いた表情で瑠璃子を見つめた。それは一誠も同じで、隣で突然参加表明をした女子高生に目を丸くする。
「ちょっ……徳永さん、まさか、俺と一緒に受験勉強でもやるつもり?」
その問いかけに、瑠璃子はコクリと首を縦に動かした。
「はい。私も12月の『上級縁故』の試験、受けますから」
「へ……?」
一誠の目が更なる驚きで見開かれ、次に、正面にいる孝高に「本当ですか?」と視線で問いかける。
そんな無言の問いかけに、孝高もまた、無言で首を縦に動かして、一誠にとどめを刺しにいった。
「彼女ならば問題ないだろうが……やはり、一度くらい対策はしておくべきか」
「そうしてもらえると助かります。ご迷惑でしょうか?」
むしろ一度でいいのかよという一誠の心の声は、当然誰にも気付かれない。
孝高は少し考えたあと、彼女を見つめて首肯した。
「いや、こちらは問題ない。むしろ休日にしかまとまった時間を取れないのが申し訳ない」
「気にしないでください。私も土曜日の方が助かりますので。では、よろしくお願いしますー」
かくして。
本来の主役であるはずの一誠を差し置いて、週末の対策合宿(瑠璃子は日帰り)が決定したのである。
そして土曜日、時刻は午前11時30分。
福岡市郊外にあるマンションの一室で、一誠と瑠璃子は孝高から配布された練習問題に取り組んでいた。
長袖のネルシャツにジーパン、床にあぐらをかき、低いこたつ机にかじりつくように問題を睨みつける一誠は、壁の掛け時計を見つめ、あと15分しかないことに焦るしかない。
埋められたのは半分程度。むしろこれもどこかまでで正しいかどうか、自信は全くないのだから。
更に――
「――古賀さん、終わりましたー」
反対側に座っている瑠璃子が涼しい顔で立ち上がり、少し離れた場所で事務作業をしていた孝高にプリントを提出する。
白いブラウスと濃紺のロングスカートという出で立ちの彼女は、いつも通りの足取りで戻ってくると、机上の筆記用具を片付けて、その場で一度背伸びをした。
そして孝高に「じゃあ、台所かりますねー」と言って、パタパタとキッチンの方へ移動していく。
その姿を目で追いながら……一誠は、どうしても埋められない回答欄を見下ろして、溜息をつくことしか出来なかった。
出会った頃は、自分がしっかりしなくちゃいけないと思っていたのに。
彼女はいつのまにか自分と並び達、追い越そうとしている。
――情けない。
一誠はそこから全く手を動かせないまま、制限時間が過ぎてしまった。
孝高にしぶしぶ答案用紙を提出すると、彼からキッチンにいる瑠璃子を手伝うように指示される。
どうやらこの試験対策へのお礼にということで、彼女が昼食を作ることになっているそうだ。
どうせ自分が行かなくても、彼女は1人で何でもしてしまうのだろう。だからといって何もしないのは気が引けるので、一誠は重たい気分で、リビングから扉一枚を隔てた先にあるキッチンへ顔を出した。
すると……。
「ふぬっ……!?」
シンクの前、顔をしかめて何かと格闘している瑠璃子の姿を見つける。
彼女の手には、ピザソースの入った瓶。作業台に広げている食材などから、これの中身をピザ生地に塗って、具材を散らしていくのだろう。
しかし……未開封の瓶は、瑠璃子1人の力では容易に開けられない様子。
一誠は瑠璃子に近づくと、真顔で瓶と格闘している瑠璃子に右手を差し出した。
「それ、開ければよかとか?」
「え……あ、はい、お願い出来ますかー?」
助かったと言わんばかりの表情で、瑠璃子が一誠に瓶を手渡す。両手に力を込めて難なくそれをあけた一誠は、わずか数秒で瓶を瑠璃子に戻した。
「ありがとうございます。さすが、男性は力が違いますねー」
笑顔でそれを受け取った瑠璃子は、近くに用意していたスプーンでそれをすくい、生地の上に塗りつけていく。そして、隣に立っている一誠をチラリと見上げ、折角だからと指示を出した。
「川上さん、そこの玉ねぎとピーマン、塗った上から適当に並べてもらえますか?」
「え、あ……」
一誠は言われるがままに、既にスライスされている玉ねぎが入った小皿を手に取った。そして、瑠璃子がソースを塗ったところに、適当に並べていく。
ピザなんて既に完成したチルド品か、宅配でしか食べたことがなかった。まさかこんなところで作ることになるとは。
慣れた手つきでソースを塗り終えた瑠璃子が、ピーマンの入った小皿を手に取り、玉ねぎと同じように並べていく。
刹那、一誠の手つきがぎこちなくなり、その表情が陰った。横目でそれを確認した瑠璃子は一旦手を止め、しげしげと彼を見上げる。
「ピーマン、嫌いですかー?」
「……よう分かったな」
「明らかに態度変わりましたから。分かりやすかですねー川上さん」
そう言って楽しそうに笑う瑠璃子に、一誠は何も言い返せなくなり、黙々と玉ねぎをのせる作業を続けた。
その後、ベーコンやピザ用チーズなど、ひとしきり具材を乗せた特性ピザを、予熱しておいたオーブンレンジで焼き上げる。レンジの前に立って時折中の様子を確認する瑠璃子に、使った道具などを洗いを終えた一誠が問いかけた。
「ピザ……自分達でも作れるんやな」
「作るっていっても、こんな感じで生地も売ってますから。自分好みのトッピングが出来て楽しいですよー。今日はベーコンとチーズ増し増しです」
そういえば、瑠璃子は先程おんどりゃーと大量のベーコンとピザチーズをぶちまけ、満足そうな表情で頷いていたことを思い出す。
今はいつも通りの眼差しで焼き加減を見つめる瑠璃子。一誠はタオルで手を拭きながら、そんな彼女の横顔に声をかける。
「料理……得意なんやな」
「得意というか、食べるの好きですからねー。それに、ずっとやってきましたから」
「ずっと……?」
気になる言葉を強調して問い返すと、瑠璃子はオーブンの中身を見つめながら、淡々と言葉を紡いだ。
「私の親は、2人とも仕事が忙しくて……兄妹の食事は、大体作ってるんです」
「そうなんか……」
「最近は弟や妹も、それこそピザの上に具材をのせるとか、簡単なことなら出来るようになってきましたけど……やっぱりまだ危なっかしいですからねー」
何か思い出したのか、横顔に少し優しい笑みが浮かんだ。
彼女は実家の佐賀県からバスで高校に通い、放課後は『福岡支局』に顔を出して、また家へ帰る。
瑠璃子のことだから、前日のうちに夕食などの仕込みは全て終えているのだろう。その上で学業をこなし、『縁故』という得体の知れない世界に順応して……何も、ブレない。
彼女はいつも、どんな時も、変わらぬ態度でそこにいるのだ。
「……ほんなこつ凄かな、徳永さん。何でも出来るっちゃけんが……」
ボソリと呟いた本音に、瑠璃子が思わず顔を上げて一誠を見やる。彼は慌てて視線をそらすと、洗った道具や食器を拭く作業にうつった。
瑠璃子はそんな彼の態度に内心苦笑いを浮かべつつ、再び視線をオーブンの中へ戻す。
「でもさっき、瓶は開けられませんでしたよ、私」
「え……」
「何でも出来るわけないじゃないですかー。というか、そげな人間おらんですよ。私だって、料理は大分勉強しましたし、実際に作りました。食べるのが好きで良かったなーって思うくらい試食して、ようやく……ちょっとだけ得意になりました」
彼女はそう言って、もう一度、一誠の方を見つめる。
「川上さんは筆記試験が苦手みたいですけど……でも、苦手なことから逃げないで、むしろ自分から食らいついているのは凄いなーって思いますよ。私なら現時点であの点数しか取れないなんて、しばらく諦めそうですもん」
「……ちょっと待ってくれ、それは褒めとるんか? それとも馬鹿にしとるんか?」
「叱咤激励ですよ、っと……そろそろかなー」
オーブンにデジタル表示された残り時間と表面の焼け具合を確認した瑠璃子が、ここで一度オーブンの扉を開いて、二重のミトンと共に黒い天板を取り出す。その瞬間、周囲に香ばしいチーズの香りと酸味のあるピザソースの香りが漂ってきて、空腹を刺激していった。
「ふむ、あと2~3分……熱っ!!」
刹那、瑠璃子が勢い良く左手を引っ込めた。彼女のただならぬ声に何事かと思った一誠だったが、瑠璃子はそれ以上動じることもなく、何とかピザを戻してオーブンの扉を閉じる。
そしてタイマーをセットしてから、再び視線をオーブンの中へ向けた。その横顔は、一誠がよく見ている、最早見慣れたもの。
しかし一誠は、彼女の左手が不用意にモジモジして落ち着かないことに気がついていた。
「徳永さん、左手……」
「え? あぁ、さっき、左手がオーブンの扉に当たっちゃったんです。自宅のものと距離感が違うので、つい……大きな声出してスイマセン」
そう言って彼に苦笑いを向ける瑠璃子は、再び視線をオーブンの中へ戻す。
この話が事実ならば、今、彼女の左手はどこか火傷をしているはずだ。恐らく指先だとは思う。しかし彼女はそれを冷やす様子もなく、オーブンの中のピザを見つめている。
次の瞬間、一誠の身体が勝手に動いていた。
彼は無言で彼女の左手首をつかむと、そのまま少し強引に引っ張ってシンクの前に連れてくる。そしてシンクの中央に突き出して、その上から蛇口の水をかけ始めた。ひんやりした水の感覚に、瑠璃子の小さな体がビクリと震える。
「ちょっ……川上さん、大丈夫ですよーこれくらい」
ピザの焼き具合(しかも間もなく完成)が気になる瑠璃子はオーブンの前から離れたくなかったのだが、しっかり掴まれた左手は、蛇口の下から離れそうにない。
「川上さん、大げさですってば」
「大げさでもよか。傷が残ったり、更に悪化したらどげんすっとか」
いつもより低い声でそう言いきった彼に、瑠璃子は何も言えなくなってしまう。
そのままの状態で数分間冷やし続け……焼き上がりを告げるチャイム音が鳴り響いたところで、一誠は蛇口をしめて水を止めた。
そして彼女の左手を近くにあったタオルで包み、ふう、と、一度息をつく。
「とりあえず冷やしたけど……痛みは?」
「あ、いえ、大丈夫です……ありがとうございます」
意外そうな表情で彼を見つめる瑠璃子から視線をそらした一誠は、その両手に、先程彼女が使っていたミトンを装着。オーブンの前に立つ。
「とりあえず、焼けたのば出せばよかとか?」
「あ、はい。でもミトンは重ね付けしないと絶対熱いですよー……?」
「よかよか(大丈夫、という意味)。どの皿にのせっとか?」
一誠の問いかけに、瑠璃子は予め孝高に出してもらっていた大皿を持ってくる。
それを確認した一誠が、意気揚々とオーブンの扉を開いて……。
「――あぁっつっ!! な、なんのこれしき……!!」
予想以上に熱を持った天板と戦いながら、フライ返しなども駆使して、何とかピザを皿の上にのせる。
完成したピザはチーズがふつふつと沸騰しており、香ばしい香りが食欲をそそるが……少し焼きすぎたようで、オーブンの奥にあった部分が黒くこげていた。食べられないレベルではないけど、多分苦いと思う。
「あぁ……ゴメンな、徳永さん。俺が時間も気にしてれば……」
「大丈夫ですよー、むしろありがとうございます」
瑠璃子はピザカッターで焼きたてを切り分けながら、彼に何の躊躇いもなくこう言った。
「あの焦げたあたり、川上さん専用にピーマン抜いたところなんですー」
「ありがとうってそういうことかよ!?」
その後、3人でピザを食べたところで、孝高が採点した答案用紙を2人に戻す。そして、タバコとおやつを買うためにコンビニへ出かけてしまった。
食器の片付けを終えた2人は、とりあえず自習として、返ってきた答案用紙と模範解答を見比べて、どこで躓いたのか、何が苦手なのかを見極めることにしたのだが……。
向かい合わせに座っている瑠璃子が一誠の答案を覗き込み、「うわぁ」という声と共に現状を口に出す。
「川上さん、27点……この間より下がってますよ」
「きょ、今日は問題が難しかったんだよ!! 徳永さんだってそこまでの点数は……」
お前だって悪かったに違いない、言外でそう語る一誠に……瑠璃子は無言で、まるで印籠を見せるように、自身の答案用紙を突き出した。
それを見た一誠が、驚きで目を見開く。
「きゅ、きゅうじゅういってん……!?」
「確かに、満点は取れませんでしたねー。悔しいです」
記述問題と選択問題をそれぞれ1問ずつ間違えていた瑠璃子は、答案用紙を自分の方へ戻すと、模範解答を見比べ始めた。
『上級縁故』の筆記試験は、7割取れれば問題ないと言われている。孝高が『彼女ならば問題ないだろう』と言った意味が嫌になるほど理解出来てしまった。
自分の手元にあるのは、学校ならば赤点の答案用紙。この成績が続くと落第である。
『縁故』の世界に落第制度はないけれど、でも、後から入ってきた人間が颯爽と自分を追い抜いて先へ行くというのは……とても、とても悔しくて。
勿論、上の資格を取得しなくても『縁故』としての仕事は続けられる。ただし、資格を取得できないというのは、自分の能力がこの程度であることを周囲に知らしめているようなものだ。今の一誠は『中級縁故』、学校でいうと中学生レベルである。
上の資格を取得して、『縁故』としてもっと自信をつけたい。
でも、このままでは『上級縁故』なんて……夢のまた夢である。
「……俺には、無理なんかな」
俯いた一誠がボソリと呟いた弱音に、瑠璃子は模範解答を書き写す手を止めた。
そして、正面で落ち込む彼を少し見つめてから……視線を下に落とし、その手を再び動かし始める。
「凄いなーって、思ったのに」
「え……」
彼女の言葉に、一誠は思わず顔を上げた。
「さっきも言いましたよね。諦めないで喰らいつく川上さんを凄いと思ったって。それに私の火傷にも迅速に処置してくれて、頑張ってピザも取り出してくれて……案外気付ける人なんだなって思いましたよー」
「……『案外』が余計だ」
「まぁとにかく、川上さんのことを見直したところだったんです。なので……後輩を幻滅させないように、もうちょっと踏ん張ってくださいよー。でないともう、敬語も使いませんからねー」
瑠璃子はいつもの口調でそう言ってから顔をあげると、人差し指を立てて、こんなことを告げた。
「私が川上さんより上の立場になったら、呼び捨てにして犬みたくこき使いますからねー」
「せめて人間として扱ってください……」
手厳しい後輩に苦笑いを浮かべながら、一誠は一度、口元を引き締める。
確かに悔しい。年下の女の子にしたり顔で先を越されるのは、とても悔しい。
でもその悔しさは……彼女に追いつけない自分自身に対してだ。
こんなところで弱気になって、年下の女の子から叱咤激励されるような自分は、嫌だ。
誰かに負けるのはしょうがないにしても、自分自身に負けるのだけは、絶対に許せなかったから。
それに……一誠にはもう1つ、絶対に試験を突破したい理由がある。
――お前の実力はその程度か。だったら今回も、それ相応の対応をさせてもらうことになるやろうな。
常に先を見据えている『彼女』が、口元にニヤリと笑みを浮かべて……何か良からぬことを考えているという噂が後を絶たない。現に前回、一誠が試験に落ちてしまった時は……一週間メイド服で仕事をする羽目になった。
冗談じゃない。
あんな屈辱は、もう二度と味わいたくない。
赤いボールペンを持ち直して模範解答とのにらめっこに戻る一誠に、解答を写し終えた瑠璃子が、少し意地悪な口調で問いかける。
「私でよければ、教えてあげますよー?」
「よか!!(嫌だという拒絶) これくらい自力で突破してみせるけんな!!」
そう言って目の前のことに集中する一誠に、瑠璃子はどこか楽しそうな笑みを浮かべて……孝高が戻ってくるまでの間、高校の宿題に取り掛かるのだった。
その後、戻ってきた孝高が午前中の問題の解説と注意点を告げて、午後にもう一度同じ形式で模擬試験を実施する。
「ほ、ほら、半分取れたぞ!?」
ドヤ顔で答案用紙を見せる一誠に、瑠璃子と孝高がそれぞれ正直な感想を告げた。
「おめでとうございますー。でも、7割取らなきゃ難しいんですよね」
「確かに点数は伸びたが、本番なら不合格だ」
「もっと褒めて伸ばしてください……」
2人の手厳しい評価を受けつつ、一誠はそこからひたすらに勉強をして……。
結果、12月の試験では実技で不合格だった――筆記を頑張りすぎて当日寝不足になり、実技で失敗した――ことを述べておく。
ちなみに瑠璃子はつつがなく試験を突破して、一誠より先に『上級縁故』になった。
「と、いうわけで……敬語も敬称もつけるのやめるけんねー、一誠」
「ハイ……」
その後、瑠璃子は志望していた短大にも合格し、一誠も後を追うように更に奮起して、7月の試験を突破、『上級縁故』の資格を取得した。
そこから2人は、対等になった。
「――もしもしー、一誠、ちょっとー?」
唐突に真横から名前を呼ばれた一誠は、両肩を震わせて周囲を見渡した。
そして、いつの間にか自分の隣に瑠璃子が立っていることに気が付き、椅子を45度回転させて、座ったまま彼女を見上げる。
「瑠璃子……どげんしたとか」
「どげんしたじゃなかろうが。もう帰る時間なんやけど……今日、買い物したいけん付き合ってって言ったよねー?」
「あ……」
一誠が事務所内の壁掛け時計を確認すると、時刻は間もなく18時30分になろうとしていた。今日は2人とも特に残業もないので、後は机を片付けてタイムカードを押すだけである。
いつの間にか香音もいなくなっていた。昔のことを思い返していたら、自分が思っていた以上に時間が経過してしまったらしい。
慌てて机上の書類を整理して片付け始める一誠に、瑠璃子は腰に手をあててため息をつきながら……彼が提出を忘れている事務関連の書類を抜き取りつつ、脳内で献立を考え始める。
「今日の晩御飯は何がよかやろうかねー……食べたいもの、ある?」
「食べたいもの……」
瑠璃子は必ず彼に聞くのだが、一誠はいつも咄嗟に答えられない。
「ま、買い物までに考えとってねー」
そう言って彼の机上から引き取った書類と共に、瑠璃子は再び自席へ戻ろうと踵を返した。
「……ピザ」
「ん? ピザ?」
彼の声に振り向いた彼女は、あの時よりもずっと大人びて、更に頼れる女性に成長している。
そんな彼女の隣に並び立つことに自信がなくなったり、たまに卑屈になったりしたこともあるけれど。
でも、あの時の自分を「凄い」と言って叱咤激励してくれた、彼女に幻滅されるような男にはなりたくない。
「今日は……ベーコンとピザチーズ増し増しのピザが食べたか」
一誠が瑠璃子にそう告げると、彼女は即座にこう返すのだ。
「ハイハイ。じゃあ、瓶の蓋は一誠に頑張って開けてもらうけんねー」
こういうやりとりが即座に出来る、この関係が続いていることが、素直に嬉しい。
その言葉に、一誠は右手の親指を突き立てて返答する。
「おう、いくらでも開けてやるけんな」
「1つでよかよー」
そう言って楽しそうに自席に戻る瑠璃子の背中を見送りつつ、一誠は机の上を片付けて、ピザの上のピーマンをどう回避しようかと、静かに作戦を立てるのだった。
飯テロ小説にするために、ピザを作って食べてもらいました。既製品を使えば割と簡単に出来ますよ。
最初は当然のように敬語だった2人ですが、ユカ達の合宿の時点では既にフランクな言葉遣いだったので、何があったのかを掘り下げてみました。結論から言うと一時的に抜かれたからです。一誠、頑張れ。(笑)
一誠と瑠璃子は現時点で結婚していることも分かっているので、今後もこうやって時間を遡りながら、2人のターニングポイントを書いていけるといいなぁと思います。次が瑠璃子側か……合宿について書かなきゃ駄目だろうなぁ。頑張ります。
改めて……一誠、誕生日おめでとう!! これから更に出番が増えるから、本当に頑張っていこうぜ!!




