【エンコサイヨウ8周年記念】変化のきざはし
8周年を記念して書いたのは、8幕の後日談です。
派手さはあまりない物語ですが、ここまでの積み重ねがあるからこそ書ける『変化』を文字にするのが楽しかったです!!
主な登場人物:心愛、ユカ、政宗、統治、里穂、空+α
助手席のドアを開けて外に出ると、11月の冷えた空気が容赦なく襲いかかってくる。乾燥しているので、顔が引きつるような感覚に襲われた。
山本結果がニット帽を被り直し、顔をしかめた後ろで、後部座席から降りてきた名杙心愛が、不安そうな面持ちで周囲を見渡した。
心愛は学校帰りのため、制服の上から学校指定の紺色のコートを着用していた。スカートの下には黒いタイツを着用しており、首にはマフラーを巻いている。
高い位置で揺れるツインテールも、心なしか、少し、元気がないような気がした。
「く……暗い、わね……」
「そりゃあ、もう19時すぎやけんね。日が落ちるのも早くなったし」
「そっ、そんなこと分かってるわよ!!」
じゃあどうして口に出したんだよ、というツッコミを優しさで飲み込んだところで、運転席からおりてきた佐藤政宗が、荷物を持ち直して車を施錠する。彼もまた寒さ対策のため、スーツの上着の上から、膝丈まであるロングコートを着用していた。
そして、二人の方へ回り込むと、視線を泳がせている心愛に気づき、苦笑いを向けた。
「心愛ちゃん、準備はいい?」
「はっ、ははははいっ!! だ、大丈夫ですっ!!」
「信じるよ……?」
緊張と不安と恐怖心で目がギンギンに開いている心愛が心配になるが、今は彼女の実力と言動を信じるしかない。政宗はユカと目配せをした後、持っていたカバンから、A4サイズのバインダーを取り出した。
「じゃあ、これから……名杙心愛さんの『中級縁故』試験、実技を始めます。試験内容は、『仙台支局』で説明した通り。開始時刻は19時2分なので、19時32分までに終わらせてください」
「は、はいっ……!! よろしくお願い、しますっ……!!」
政宗の声に頷いた心愛は、震える声の自分に活を入れるべく……今回の試験場・廃墟となった個人病院を、改めて見つめようと、した。
が。
「――っ……!!」
反射的に目をそらす。
要するに無理だった。
遡ること数日前、心愛は放課後に『仙台支局』へと顔を出し、『中級縁故』試験対策を頑張っていた。
『中級縁故』は、ペーパーテストの学科試験と、実際の『縁切り』を行う実技試験、その2つの結果を総合的に判断して合否が決まる。これは『初級縁故』のときと同じだ。
学科に関しては、当然、『初級』よりも内容が難しくなっているが……自頭の良い心愛であれば、問題なく突破できるだろう。
問題は、実技試験である。
心愛は……今でこそ大分マシになったものの、過去のトラウマから、幽霊やお化けの類が大の苦手なのだ。それが大きな理由となり、名杙本家という『縁故』の元締めの家に生まれながら、家業を継ぐための修行開始が他の人よりもずっと遅くなってしまっていることは否定できない。だからこそ、頑張って頑張って、がむしゃらに頑張って……その遅れを取り戻さなければならない。
本人の頑張りと周囲の支えもあって、今のところは順調なペースでタスクをこなしていると思う。ユカが指導役として心愛と関わるようになってから8ヶ月ほどになるが、5月に『初級縁故』、そして、11月に『中級縁故』と、ポンポンと受験が進むのは優秀な人材である証だ。
とはいえ……。
「はい、心愛ちゃん。これが、今回の実技試験やね」
「分かったわ。今回は……えぇっ!?」
ユカから手渡された『生前調書』、それを読みすすめた心愛の表情から、段々と余裕が消えていく。
数分後、内容に目を通した心愛が……泣きそうな表情でユカを見つめるから。
ユカは「頑張れ」の気持ちを込めて、無言で頷くことしかできなかった。
「ココちゃんは夜の病院っすかー……」
心愛と同じく学校終わりに立ち寄った名倉里穂が、試験内容を知って露骨に顔をひきつらせる。里穂もまた冬仕様のため、髪型はいつものポニーテールだが、防寒具に加えて制服のスカートの下にジャージを着用していた。
里穂は改めて、少し離れた応接用のソファに座っている彼女を見やり、次に、近くにいるユカを見下ろす。
「これ決めたの……領司おんちゃんっすよね」
「そう。ある程度は覚悟しとったけど……廃業した個人病院とは思わんかったよ」
ユカもまた、里穂に苦笑いを返しながら、この試験内容を受け取ったときのことを思い返していた。
「昨日、統治が盛大に青ざめてここに来たけんが、櫻子さんとケンカでもしたのかと思ったけど……」
『東日本良縁協会』に所属している『縁故』が、上級の資格試験に挑戦する場合、実技試験の内容は、組織の元締めである名杙本家の人間が選定に関わっていることが多い。
今回は特に、名杙本家の長女ということで、誰がどんな案件を振り分けるのか、ユカ自身も気になってはいたけれど。
「統治……これ、決定事項なんよね?」
今回も試験監督者の一人として立ち会うユカの問いかけに、統治は疲れた声で「あぁ」と頷く。
「身内だからと批判されないよう、厳しい内容になることは覚悟していた。ただ……」
そこから先は言葉にならず、再びため息が漏れる。そんな統治から書類を受け取ったユカは、自席で移動していた政宗のところへ移動し……それを彼の机に置いた。
「心愛ちゃんの実技試験、来たよ」
「了解……マジか」
概要に目を通した政宗もまた、統治と似たような表情で口元を引きつらせる。
それだけ、今回の事案は……心愛にとって大きな挑戦であり、高い壁なのであった。
……という大人たちの気持ちが手に取るように分かる里穂は、マフラーを緩めながらしれっと口を開いた。
「ここまで来ると、逆に面白いっすね」
「心愛ちゃんもそげん思えるといいっちゃけどね……統治も不憫なんよ。櫻子さんの問題が片付いたと思ったら、次は心愛ちゃんが最も苦手とする内容になったっちゃけんが」
「でも、ココちゃんは空さんのおかげで、前よりも幽霊が大丈夫になってないっすか?」
『仙台支局』に所属することになった『親痕』――霊体の協力者――の川瀬空は、幽霊の類が苦手極まりない心愛にとって、数少ない、気心のしれた(?)霊体だ。
里穂もまた、空との出会いと交流で、心愛が彼女自身のトラウマを克服しているのでは、と、思っていたのだが。
「……それはそれ、これはこれっすね」
政宗から説明を受けている心愛の表情筋が全て引きつっていることに気付き、肩をすくめる。
ユカも心愛の心情をおもんばかりながら……ふと浮かんだ疑問を口にした。
「里穂ちゃんは『中級縁故』の実技、何やったと?」
「私は……早朝に、石巻の海岸だったっす。あの災害で亡くなったおばあさんの『縁切り』だったっすね」
その当時のことを思い出したのか、里穂の眼差しに少しだけ影が宿る。
『縁故』が行うのは、慈善事業ではない。
死人の声を聞いて生者に伝えるような、そんな美談を良しとはしないのだ。
ユカの視線に気付いた里穂が、「大丈夫っすよ」と、笑顔を向けた。
「確かに、楽しい内容ではなかったっす。でも……必要なことだったって思えるっすよ。だから……」
「そうやね。心愛ちゃんならきっと、乗り越えてくれると思う」
2人の見解が一致したところで、心愛との話を終えた政宗がソファから立ち上がった。そんな彼と入れ違いになるように里穂が笑顔で近づき、心愛の隣に腰を下ろす。少し遅れたタイミングでアルバイトの片倉華蓮が、2人分の緑茶を持ってきた。華蓮もまた冬仕様のため、黒いニットのカーディガンのボタンを全てとめて、ズボンは裏起毛つき、足元はムートンブーツである。余談だが、移動時にはダッフルコートが欠かせなくなっていた。
お茶の存在にワンテンポ遅れて気付いた心愛が、慌てて顔を上げて謝辞を述べた。
「片倉さん、ありがとうございます……」
「いえ……」
マグカップを両手で包むと、今はじんわりと温かいけれど……未来を想像すると、指先が冷たくなってしまう。
心愛は静かにお茶をすすったが、味が分からないまま。緊張から抜け出せない自分に肩を落としていると、里穂が努めて明るく声をかけた。
「ココちゃん、試験内容を聞いたっすよ。大丈夫っすか?」
「だっ、大丈夫よ!! 心愛ならこれくらいっ……!!」
反射的に強がろうとした心愛だが、里穂の真っ直ぐな瞳に対して嘘をつけないことを悟り……静かに視線をそらす。
「……大丈夫、に、なりたいの。本当は、すっごく、怖い、けど……これを超えなきゃならないことくらい、分かるから」
「そうっすよねぇ……じゃあ、空さんに聞いてみればいいんじゃないっすか?」
「え? 聞くって、何を……?」
キョトンとした表情になった心愛を里穂は「ものは試しっす!!」と強引に言いくるめた後、まばたきをして視界を切り替えた。
そして、天井付近を漂っていた空を手招きして、心愛の正面に移動させる。
「ココアちゃんにリホちゃんじゃん、どしたのー?」
今日の空は金色の長い髪の毛をゆるく巻き、膝丈のニットワンピースを着用していた。ユカが「今日の川瀬さん、シンプルやね」と尋ねると、空が「いやー」と苦笑いを浮かべて。
「今日のトージさん、ぜんっぜんシューチューできてなくってさー、上着とかアクセとか、ぜんっぶダメだったんだよねー」
「あー……ごめんね川瀬さん、心愛ちゃんの試験が終わるまでは、許してあげて……」
「シケン?」
統治の動揺、その理由が秒で理解できたユカの言葉に、空が首を傾げた。
その情報を補足すべく、里穂がわざと神妙な面持ちで口を開く。
「空さん、ココちゃんが今度、夜の病院で幽霊を相手にしなくちゃいけなくなったっすよ」
「えーっ!? ココアちゃんそーゆーの無理系じゃなかったっけ? っていうかフツーにヤバいよね、絶対に確実に怖いっしょ!!」
「っ……!!」
空から無神経に現実を突きつけられた心愛が、半泣きの様相で里穂のスカートを握りしめた。里穂もまた、「空さん、もう少し言葉を選んでほしいっす」と顔を引きつらせる。すると、
「だって、ココアちゃんが怖がりなのはしょーがないじゃん。でも、やると決めたらやるっしょ?」
空が当たり前にそう言って心愛を見ると、心愛は口ごもりながら「ま、まぁ……」と、視線を泳がせる。
その様子を見た里穂は、空なりの励ましに口元をほころばせた後……彼女を呼び出した目的を告げた。
「私も、ココちゃんは頑張れると思ってるっすよ。ただ、今回はシチュエーション込みで怖すぎるっすから、空さんからも色々とアドバイスがほしいっすよ。確か、今回の『縁切り』は……空さんと同じくらいの若い女性っすよね」
「へ? そーなんだ。じゃあ、アタシのときみたく、友達になっちゃう系でいく?」
「『縁切り』なのでそれは無理っすけど……この人、見たことないっすか?」
里穂が指を指した先には、心愛の試験用の『生前調書』、そこに添付された、対象者の写真があった。
「ん―? どの人どの人ー?」
数日前、里穂が空へ『生前調書』をかざし、添付された写真を空が覗き込んだ。
そして……首を横に振る。
「ゴメン、マジで知らない子だ。この子、どしたの?」
「この病院から出られないらしいっす。自由な空さんとは対照的っすね」
「へー。そうなんだ」
漢字が読めない空は、里穂からの情報のみで納得した。
一方、漢字が読める心愛は、『生前調書』に記載されている詳細も把握できるため……複雑な表情でユカを見やる。
「ケッカ、今回の試験時間……どうして夜なの? 前回は昼間だったし、森くんだって明るい時間だったはずなのに……」
既に廃病院であれば、昼間に診察はない。せめて夕方に出来なかったのか、今からでも何とか出来ないのか……言外に滲む希望を痛いほど感じるが、ユカはそれを一刀両断することしかできないのだ。
「多分、敷地に入る許可が降りたのが、その時間だけやったんやと思うよ。そこ、私有地やけんね」
「……そ、そう……じゃあ、しょうがない、わね……」
そう言われると納得するしかないし、納得してもらうしかない。
『縁故』の『縁切り』は、この世界のルールの中で粛々と実行しなければならない。今回のように、相手方の事情で活動時間が決まることなんて日常茶飯事だ。
心愛は今まで、配慮されることの方が多かったかもしれないけれど。
今後、この世界で長く活動をするのならば……相手方の設定したルールの中で仕事をこなす能力は必要不可欠。恐らく今回は、そこも試されているのだと思う。
例えば『福岡支局』の場合は、支局長である麻里子や、側近の孝高の根回しのおかげで、割と融通が利くこともあったけれど……今回、名杙当主はそれを良しとしなかったのだ。
ユカは不満と不安を目の奥に滲ませる心愛を見据え、改めて、口を開く。
「とにかく、これが決定事項やけんね。これを逃すと次はまた半年後、森くんと一緒の受験になるかもしれんね。それでもいいなら無理せんでも――」
「――ば、バカにしないでよね!! 心愛にもできるんだからっ!!」
ユカがわざと環を引き合いに出すと、案の定、心愛が勢いだけで虚勢を張る。
今年の5月に『縁故』としての才能が目覚めた少年・森環は、つい先日、『初級縁故』の試験に合格したところだった。立ち会ったのはユカではなく、政宗と統治だったのだが……あの2人が口々に「森くんのメンタルが強すぎる」「どうなっているんだ」と、称賛と驚きを足して二で割ったような感想を繰り返していたのだ。この調子で経験を積んでいけば、次回、間違いなく『中級縁故』の試験も突破できるだろう。
修練を始めるのに時間がかかったとはいえ、素人同然だった同級生に並ばれて、追い抜かれそうになっている。その現状を、心愛が良しとするとは思えなかった。
案の定、引っ込みがつかなくなった心愛は、ユカを睨むように見つめながら大声でまくし立てる。
「病院だろうが学校だろうがお墓だろうが、す、すぐに終わらせてみせるわよっ!!」
「それは頼もしかね。じゃあ、そういうことで」
ユカは口元に薄い笑みを浮かべると、心愛の手元から『生前調書』を引き抜いた。
そして時と場所は戻り、本日の心愛の戦場である。
3人が降り立ったのは、平成初期に開発された新興住宅街、その一角で地域医療を担っていたであろう、個人の産婦人科だ。コンクリート2階建ての建物はひっそりと静まりかえっており、かつて、命が誕生していたとは思えないほど、重苦しい空気を滲み出している。なんでも、数年前に医師が亡くなってから、後継ぎが見つからずに廃業してしまった、とのこと。
時期を同じくして、この病院の周辺では、夜になると女性の声を聞いたり、人が飛び出して来たような幻覚を見る人がいるという報告が定期的に上がっていた。今回、その数が特に多くなったことで、自治体から『良縁協会』へ相談が入ったらしい。
ここは、多くの命が産まれた場所であり……もしかしたら、同等の命が還った場所なのかもしれない。『生前調書』の内容を思い出していたユカの隣で、心愛はコートのポケットに手を入れると、スマートフォンを取り出した。
大丈夫、大丈夫。何度となく自分に言い聞かせていても、両手が震えてしまうけれど。
そんなときに頼るのは、信頼できる義姉だ。
「心愛ちゃん……いける?」
「だ、大丈夫。櫻子さんが、メール、くれたから……!!」
「そうなん? どげな内容やったと?」
ユカの問いかけに、心愛はスマートフォンのロックを解除して、そのメールを表示される。
『心愛ちゃん奈良、絶縁体大丈夫です!!』
「……色々と惜しい!!」
ユカが思わず肩の力を抜いて吹き出すと、心愛も同じ表情で呼吸を整えた後……手元を改めて見つめる。
空っぽの両手を握りしめても、震えを止めることができない。
だったら――
「怖い、わよ……」
心愛はスマートフォンを片付けながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
「今も、もう、すでに、怖い……そう、よ、すっごく怖いわよ。でも……っ」
強がるだけではなくて、恐怖心を抱えている自分を認めて、そして……。
「これを頑張らないと……心愛、帰れないから」
「心愛ちゃん……」
「それに、心愛が頑張ることで、ここに住んでいる人が怖い思いをしなくなるから……頑張りたいの」
目に見えない存在に恐怖し、日常生活に不安を抱いている人の助けになりたい。
自分のために、誰かのために、できることを続けていくと決めたのだ。
「――行く、から」
心愛は口の中にたまった唾をのみこんで、病院の敷地内へ足を踏み入れる。
頬を撫でる風が、心なしか、より冷たくなったように感じた。
劣化の激しい建物内へ足を踏み入れるのは危険ということもあり、とりあえず建物の外周をぐるりと回って、彼女の気配を探すことにした。手入れのされていない、雑草が伸び放題の足元。スマートフォンのライトで周囲を照らしつつ、足を取られないように慎重に進んでいく。今夜は薄曇りのため、星の光も、月明かりも、何も、届かない。
心愛の後方から同じく足元を照らすユカも、周囲の気配を探りながら……隣を歩く政宗を見上げ、小声で問いかけた。
「今更やけど、この案件……多感な中学生にあてがって大丈夫なん?」
「俺に聞かないでくれよ……」
口元を歪めて返答した政宗は、腕時計で時間を気にしつつ、反対の手をスーツのポケットへ忍ばせる。そして、彼自身の仕事道具があることを確認した後、前を見据えたまま言葉を続けた。
「万が一、心愛ちゃんが無理だったときは……近いほうが切るぞ」
「了解」
無論、彼の提案に意義などない。ユカもパーカーのポケットにある仕事道具の位置を確認した、次の瞬間――心愛の足が、止まった。
かつて、通用口として使われていたと思われる、両開きの扉。
その扉の前に一人、小柄な女性が背を向けて座り込んでいる。
肩の上で切りそろえられた髪の毛、背中を丸めて前かがみになっているため、余計に小さく視える。
当然だが――生きた人間ではない。
心愛の背中を、冷や汗が流れ落ちた。
慌てて首を軽くふって、彼女に残る『縁』、その位置を確認する。
今回、彼女に残っているのは、足の裏から伸びた『地縁』。
彼女をこの場所に繋ぎ止めているのは、土で汚れたような色をした、一本の糸だ。
「っ……――!!」
震える唇をかみしめて声を押し殺し、息をのむ。
生暖かい唾が、喉を垂直におちていく感覚が分かる。
声をかけようか? でも、万が一立ち上がってしまったら、非常に切りづらくなってしまう。
心愛の仕事道具・ペーパーナイフで『縁切り』を実行するには、最低でもあと数メートルは近づかなければならない。
では、このまま近づいて一気に切るのか? 昼間や足元に不安がなければそうしていたかもしれない。けれど、スマートフォンの明かりだけでは、伸び放題の草の下にどんな危険性が隠れているのか分からない。
そもそも心愛は『地縁』を切るのも初めてだ。『関係縁』と同じようにやればいいとは思うけれど、本当にそれでいいのだろうか。
考え始めると答えが出ずに……自信が、なくなっていく。
時間が、ないのに。
どうしよう。
どうしよう。
焦りは次の焦りを生む。
その焦りが両足を縛り付けて、動くことができない。
つい最近も、似たようなことがあったばかりなのに。
学校の文化祭で、突発的に対応をすることになって。
足がすくんで動けなくなったところを、空に助けてもらった。
そこで失ったものを後悔して涙を流したのは、まだ、決して遠い過去ではない。
再度、唇を噛みしめる。
これは、怖いからではない。
悔しかった時のことを、鮮明に思い出したからだ。
繰り返さない。繰り返させない。
あの涙を再び流しているようでは……この先に進むことなど、できはしない。
――心愛ちゃん、『縁』を切るときは躊躇わず、一気にやっちゃってね。そのほうが、互いに感じるストレスも少なくてすむから。切り方は……多分、『因縁』に染み付いてるだろうから、思ったままにやってみればいいと思うよ。
4月、大切な人からもらったアドバイスを、改めて叩き込んだ。
『縁』を扱う時に躊躇は不要だ。迷うならば扱う前まで。迷って、考えて、躊躇って……それでもやると決めたならば――怖気づかない。
心愛は改めて深く呼吸をした後、コートのポケットに入れておいたペーパーナイフのケースを取り出すと、その中から本体を引っ張り出した。
そして、前を見据えて一歩を踏み出す。
話しかけようか、とも思ったけれど、この程度の『遺痕』であればわざわざ干渉する必要もないだろう。
二歩。
冷たい空気が頬をかすめる。
三歩。
右手のナイフを握りしめる。
四歩。
もう、震えていない。
心愛の気配に気付いた女性が、振り向こうとした次の瞬間――心愛は掴んだ『地縁』を自分の方へ引き寄せ、一気に刃を入れた。
『縁』が切れた彼女の姿は、一瞬で空に溶ける。その場に残るのが枯れ葉だけになったことを確認した心愛は、ナイフを取り急ぎポケットへ片付けると、静かに両手を合わせ、目を閉じた。
「……ご冥福を、お祈りします」
彼女が何を考えていたのか、どうしてずっとここに留まっていたのか、詳しいことを聞くことはなかったけれど。
ただ……せめて、先に空へ還ってしまったであろう彼女の子どもと再会できていればいい。
無責任な願いだと口の奥で苦笑いを浮かべながら、心愛は静かに顔を上げた。
政宗は手元の時計で時間を確認した後、持っていたバインダーに終了時間を書き殴る。
そして、ユカと共に周囲の気配を探り……全てが滞りなく終わったことを告げた。
「終了時刻は、19時18分。これで、心愛ちゃんの実技試験は終わりだな。本当にお疲れ様、寒いからさっさと車に戻ろうか」
余談だが、病院の敷地内から出るのが最も早かったのは、競歩選手のような速度で退散した心愛だった。
その後、政宗が運転する車で『仙台支局』へ戻ってきた時、時刻は20時を過ぎていた。
荷物を取ったらさっさと帰ろう、安堵と疲れでヘナヘナの心愛が扉を開くと、
「――心愛ちゃん!! お帰りなさい!!」
「櫻子さん!?」
もう誰も残っていないと思っていた事務所内、応接用のソファに座っていた透名櫻子が、明るい声と共に立ち上がった。黒いワンピースの上からグレーのカーディガンを羽織り、足元は黒いローヒールのパンプス。仕事終わりに駆けつけてくれたことが分かる、そんな予想外の人物の出迎えに心愛が面食らって立ち止まっているので、ユカが無言で背中を押して部屋の中へ押し入れた。
そんな心愛を出迎えるように近づいてきた櫻子は、状況が飲み込めない心愛へ苦笑いを向けて。
「驚かせてしまってごめんなさい。心愛さんが苦手なことを頑張っているって聞いていたので、居ても立っても居られなくなってしまって……温かいもの、何か飲みますか?」
「えっ!? あ、えっと……お茶がほしい、です……」
「分かりました。統治さん、お茶ですって」
「お兄様!?」
衝立の向こう側で待機していた統治に櫻子が声をかけた瞬間、心愛が素っ頓狂な声を上げた。十数秒後、心愛がよく使っているマグカップに温かい緑茶を用意した統治が、どこかぎこちない様子で姿を表す。
そして、心愛をソファに座らせた櫻子と入れ違いになるように彼女へ近づくと、テーブルの上にカップを置いた。
「試験の状況は、山本から聞いている。時間内に問題なく対応できたそうだな」
「とっ、当然でしょ!? あれくらい一人で何とかできるわよっ!!」
「そ、そうか……」
相槌に困った統治が言葉に詰まり、沈黙が訪れる。
心愛も自分のつっけんどんな態度に、心の中でため息をついていると……机を挟んだ向かい側に座っている櫻子が、ニコニコした笑みと共に実情を暴露した。
「統治さん、ずーっと心配していらっしゃったんですよ。時計を見てソワソワしたり、何度もスマートフォンを確認したりして。ユカちゃんから無事に終わったって報告が届いた時は、思わずガッツポーズをしていらっしゃったくらいです」
「えぇっ!?」
櫻子のタレコミに、全員の視線が統治へ向けられる。統治は特にニヤついているユカと政宗へ背を向けた後、驚きを隠せずに自分を見上げている心愛を見下ろして……肩をすくめた。
「今日は、悔しい結果にならなくて……良かったな」
「お兄様……」
統治がいつのことを言っているのか、すぐに分かった。
悔しい思いをして、涙を流した、少し前の自分。
あれから……この短期間で、過去の自分を少し乗り越えることが出来たと思える経験が出来た。
この成功体験は、次への確かな自信になる。
だから、今は少しだけ。
心愛は統治が用意してくれたお茶を一口すすって、カップを机に置いた。
「美味しい……」
じんわりと染み渡る緑茶の暖かさが、心地よい。
そして……同時に安心しきってしまったため、心からの感想を、この場に吐き出しておく。
「ほんっっっっっとーーーーーーーに、怖かったー……相手の顔見なくて、良かったぁ……」
あの場で振り返って、うっかり目でも合っていたら、間違いなく、今夜は眠れなかっただろう。
櫻子が統治と心愛を送ってくれるというので、3人で一足先に、1階のエレベーターホールへ降りてきた。
ビル内の店舗や屋上の展望デッキも営業時間を終えており、人の流れはごくわずか。普段より響く足音と共に、出入り口の方へ歩いていくと……自動ドアの近くに一人、佇んでいる影が一つ。
そのダッフルコートには、見覚えがあった。
「あれ、片倉さ……名波、くん……?」
心愛が背格好で一致した人物の名前を呟くと、隣にいた統治がピクリと肩を動かした。
そして、言い当てられた人物――名波蓮が顔を上げ、決まりが悪そうに眼鏡の奥の視線を泳がせる。
まさか彼がこんな時間にここにいるとは思わず、心愛が目を丸くしていると、統治――よりも先に櫻子が一歩前に出て統治の腕を掴み、心愛へ笑顔を向けた。
「心愛ちゃん、車を駅のロータリーへ回してきますね。いつもの場所で待っていてくれますか?」
「は、はい、あの……」
櫻子が車を停めやすい仙台駅のロータリーまでは、ここから歩いて5分ほど。
彼女の行動を見るに、蓮と2人で話す時間を少しだけ作ってくれるということなのだろう。ただ、統治は一切納得していない表情をしているが。
今すぐに蓮を問い詰めようかと勇み足になる統治の腕を掴んだまま、櫻子は笑顔を崩さずに言葉を続けた。
「名波さんもこれから駅へ行かれるかと思うので、ちょうどよかったですね。統治さん、行きましょう」
「いや、櫻子さん、俺は――」
「――行きましょう。心愛ちゃんだから大丈夫ですよ」
櫻子に遮られ――暗に『統治さんは心愛ちゃんを信用していないのですか?』と訴えられ――統治は言いかけた言葉を飲み込んだ。そして、蓮とすれ違いざまに何とも複雑な視線を向けた後……立ち止まり、ぎこちなく振り向いて。
「心愛……寄り道をするんじゃないぞ?」
「するわけないでしょう!?」
という心愛のツッコミが、誰もいないエントランスに響き渡った。
櫻子が引きずるように統治を連れて行ってくれたので、仙台駅までの短い距離を、蓮と並んで歩くことになった。
「お兄様が失礼な態度で……本当にごめんなさい」
「いえ……当然だと、思います」
建物の外へ出ると、ビルの隙間風が2人へ襲いかかる。心愛は思わずマフラーを巻き直した。
刹那、歩行者用の信号が点滅して赤に変わる。時間帯も遅いので、今、同じ場所で信号待ちをしているのは2人だけだ。歩車分離のため、車用の信号が青になった瞬間、一気に車が動き始める。
車のエンジン音で、きっと、この会話は誰にも聞かれない。
心愛はどこか自嘲気味に呟いた蓮の横顔を見上げ、素直に聞いてみることにした。
「そもそもなんですけど……名波君、こんな時間にどうしてここへ? バイトは夕方までですよね?」
「期末テストが近いので、学校に戻って自習室で勉強をしていたんです。自習室も20時までなので、地下鉄で仙台駅に出て、乗り換えようとしたときに……今日、心愛さんが実技試験だったことを思い出しました。支局の明かりもついている様子だったので、それで……」
もしかしたら、その可能性に賭けて、隙間風が通るこの場所で待っていてくれたということになる。
心愛には特に連絡などなかった。もしかしたら里穂や仁義を通じて、政宗や櫻子の動きは伝わっていたのかもしれないが……その上でここで待つこと決めたのは、間違いなく、彼自身だ。
「僕がいても、何も出来ないんですけど……」
「そ、そんなことないです!!」
条件反射で反論した瞬間、蓮が少し驚いたような表情で心愛を見つめた。
一方の心愛も、そんなことないと言ってしまった手前……何か、根拠のあることを言わなければならない。
「心愛、今回は本当に、自信がなくて……気付いてましたよね」
「そうですね。内容が内容ですし……」
「実際に怖かったです。ずっと震えてました。けど……何とか頑張って、戻ってきたら、櫻子さんやお兄様、名波くんがいてくれて……終わったって実感して、安心できたんです」
実技試験の内容を聞いてから、ずっと、緊張状態が続いていた。
お茶の熱さも、味も、気にすることが出来なかったくらいに。
毎回、土壇場で思い出すのは……華からもらった言葉だ。
心愛が『縁故』を続ける上で指針になっているこの言葉は、もしかしたら、蓮の一件がなければ……聞くことが出来なかったかもしれない。
確かに4月、あの時は……あの時も、今回のように、とても怖かったけれど。
全てがマイナスではなかった、そう思えるだけの積み重ねが出来た。
そして、今の彼が……以前では考えられなかった蓮の行動が、その考え方は間違いじゃないと、背中を押してくれている気がする。
――片倉さんのこと……正直、まだ少し怖い……かも、しれないけど……でも、今はお兄様達が信じて仕事を任せている人だから、心愛も……心愛も頑張って、また、信じてみようと……思ってる、ところです。
信じられるかどうか、また、はっきりと断言することは難しいけれど。
そう思いたいと思える根拠は、一つずつ、増えている気がする。
「だから、何も出来ないことなんか全然なくって……その、要するにありがとうございますっ!!」
雑に話をまとめて頭を下げた瞬間、歩行者用の信号が青に変わった。
駅の方へ続く歩道を歩きながら、蓮もまた、口元を引き締める。
そして、白い息と共に、思いの丈を吐き出した。
「お疲れ様でした、心愛さん」
明日になれば、片倉華蓮として同じ言葉をかけることができるけれど。
今回はどうしても、今日中に、名波蓮として、労いの言葉を伝えたかったから。
蓮の言葉を受けた心愛は、軽く目を見開いた後……目を細め、前を見つめる。
そして、澄んだ空気へ向けて、いつもよりも少し。ゆっくりしたテンポで返答した。
「これくらい、『縁故』として当然ですっ」
歩く速度を緩めるのは、今日が終わるまで。
明日からはまた、いつも通りの速度で進み続けたい。
一方、心愛たち3人を見送った政宗とユカは、手分けをして、事務所内の施錠や食器の片付けを終えたところだった。
「とりあえず、心愛ちゃんは合格できそうやね」
ユカがキャビネットの鍵を片付けながら声をかけると、荷物をまとめた政宗が「ああ」と安心したように肩をなでおろす。
「正直、どうなるかと思ったけど……後ろから見てても、心配ない立ち姿だったな」
「やっぱ、名杙本家の長女は伊達じゃなかよ。今日は自分の名前すら名乗っとらんかったし……」
『遺痕』と対峙する際、心愛は自分の名前を先に名乗り、相手に認識させることで場を優位にすることができる。
しかし今回の彼女は、それを行わなくとも……問題なく仕事をこなすことが出来た。単純に怖くて話かけることが出来なかっただけかもしれないが、それで結果を出せたのだから特に採点には影響しない。
要するに……彼女の才能は順調に伸びている。それをしっかりと確認することが出来た。
「これで、来月の繁忙期も何とか乗り越えられそうやね。仙台って一ヶ月間、ほとんど忙しいっちゃろ? あたしも頑張らんと……」
ユカが事前に聞いている情報では、仙台市内中心分で約3週間、大規模なイルミネーションイベントが開催されるため、通常対応と並行してイベントの巡回が必要になるらしい。
初めて過ごす、宮城の冬。間違いなく人生史上最も寒い冬になることは分かっているが……寒さ対策がほとんど出来ていないことに気付いて、無意識のうちに身震いしていた。
今日の夜も、大分冷え込んでいるのに。
12月になってしまったら……果たして自分は、どんな格好をすればいいのだろうか。
「ケッカ、寒いのか?」
「あ、ううん、今は大丈夫。来月に向けて。ちゃんと防寒対策ばせんといかんなーって思って。宮城ってやっぱ、雪が降ると?」
「雪は……年明けに降ることが多いけど、福岡より寒いことに変わりはないと思う。特に足元は、滑らない靴を一足持ってると便利だぞ」
「うぇー……いっちょん分からん。今度、櫻子さんに……」
洋服に関してをほぼ一任している櫻子に、冬用の靴を見繕ってもらおうかと思ったけれど。
言葉を切ったユカは、上着を着た政宗を見上げた。そして。
「……じゃあ政宗、今後、靴を一緒に選んでくれん? あたし、何がいいのか、とか、本当に分からんけんが……」
「俺が? 別にいいけど……櫻子さんじゃなくていいのか?」
「うん。今の時期の櫻子さんを、あたしの用事で呼び出すのは気が引けるし、それに……」
ユカもまた上着を着込むと、首にマフラーを巻いた。そして、カバンを持って彼の前に出ると、くるりと半回転して彼に向き直る。
「政宗に選んでもらった靴だと、仕事中も一緒に歩いてるような気がするけんね。初めての冬も滑らずに、うまくいきそうな気がする」
「っ……!?」
「やけんが……仕事が少し落ち着いたらでいいけん、よろしくね、政宗」
ユカが屈託のない表情で、そんなことを言うものだから。
無言で頷いた政宗は、今年の冬、彼女へ最高の靴を贈ることに決めた。
その後、電車での帰宅中……先に帰った統治から『心愛が名波くんに、』という、まるで櫻子のようなメールが届くのだが……それはまた、別の話だ。




