2022年誕生日短編③:アンノウン・リサーチ【桂樹・瑞希・蓮(華蓮)】
2022年誕生日短編第3弾は、5月・6月生まれのキャラがメインです。時系列としては、6幕の本筋終了直後となります。(ユカが福岡に行く前です)
とはいえ、桂樹と蓮はもう会ってはいけないキャラ。さて、間に挟まってしまった瑞希はどう動くのでしょうか。
■主な登場キャラクター:瑞希、桂樹、蓮(華蓮)
困ったことになってしまった。
9月も折り返したある日、時刻は間もなく16時30分。銀行から差し戻されてしまった書類を目の前にして、新人職員・支倉瑞希は一人、職場の机で途方に暮れていた。
本日、目出度く銀行から差し戻されたのは、今年の4月まで『仙台支局』の顧問という名目で名を連ねていた男性への支払いに関する書類だ。彼女が勤務している『仙台支局』には、名前だけで報酬が発生しない(したとしても年間に微々たる金額)の監査役と、万吏のように実務まで委託して正当な報酬を支払っている監査・相談役がいる。
今回、書類を差し戻された人物――名杙桂樹は、後者にあたる相談役として、4月まで在籍していた人物らしい。その後、『諸般の事情』により相談役を外れたのだが、4月分の相談料を支払うということで、政宗が9月上旬に書類での手続きを実施していたとのことだ。
そう、今はもう9月。4月分の報酬がどうしてこんなに遅れたのか気になった瑞希が、その理由を政宗に尋ねると……「関係各所への調整が手間取ってね……」と、苦笑いで言葉を濁されたので、きっとめっちゃ大変だったんだろうと思い、それ以上は追求出来なかった。
丁度、祝日が続いたことで、手続きに時間がかかっていたらしいが……最終的に、『支払い先口座に該当なし』ということで、書類が戻ってきてしまったのである。
金銭に関するこれ以上の遅延が組織の信用度低下に直結することは、想像に難くない。せめて、桂樹本人に電話で直接のお詫びと事情説明をすることが出来ればいいのだが、電話番号も分からないし、何よりも勝手な行動は厳禁だ。
そのため、早急に政宗へ確認したいのだが……彼は今、外回りで外出中。統治は中学校への出張講師中であり、ユカは直前に控えている福岡出張を万全の体調で挑むために、今日は午前中勤務で早退している。要するに今、この事務所内は一人きりだ。
政宗が戻ってくるまで、予定ではあと30分。それから相談すればいいものの……そもそも、支払口座の該当がないとは、どういうことなのだろうか。まさか、この『名杙桂樹』という人はもう、この世には――!?
「そっ、そんなこと……さ、佐藤支局長も忙しかったから、口座の番号が違うとか、そういうことだよね……!!」
そう思った瑞希は、政宗の作業の時間短縮のため、書類のどこにミスがあったのかをピックアップすることにした。そのため、該当の情報が書いてある社内情報システムを開いたのだが……『名杙桂樹』という人物に関する情報は、一切、見つけられず。
退職や転職などの事情があるにしても、過去の経歴として名前と略歴、何よりもこれまで支払ってきた金銭に関することくらいは多少残っていてもおかしくない。しかし、彼に関する全ての情報が、まるで、意図的に削除されたかのように、一切、見ることが出来ない。その事実がますます、瑞希の妄想をあらぬ方向へ加速させてしまう。
なんてったってここは『東日本良縁協会仙台支局』、生者も死者も同等に扱う場所なのだから。
そう思った瞬間――瑞希の背中を、冷たい汗が駆け下りていく。
「こ、こんなに探しても何も分からないなんて……ま、まさか、この名杙さんは本当に――!?」
「――お疲れ様です」
「ひぃやぁぁぁ!?」
刹那、真横から不意に話しかけらたため、瑞希は素っ頓狂極まりない声と共に大きく目を見開いた。
そして、硬直を絵に書いたような顔で声がした方を見ると……ぎょっとしている片倉華蓮が、こちらに視線を向けている。
「すいません。驚かせるつもりは……」
「い、いえっ!! 私こそ失礼しました。お、お疲れ様です……!!」
相手が同僚であることに安堵した瑞希は、肩をなでおろして軽く頭を下げた。華蓮もまた、ペコリと頭を下げた後、静かに自席――瑞希の正面――の椅子を引いて腰を下ろし、パソコンを機動する。
瑞希が「申し訳ないことをしてしまった……」と、軽く凹んでいると、華蓮は自席にあるクリアファイルを持って、再び瑞希の方へ近づいてきた。
「すいません支倉さん。これ、山本さんの福岡行きに関する、経費の見積書です。計算ミスがないかどうかチェックして、問題なければ佐藤支局長に回してもらえませんか?」
「わ、分かりました。ありがとうございますっ……!!」
「あと、差し出がましいようですが……何かあったんですか? 先程、お一人で考え込んでいらっしゃる様子でしたが……」
「あ……」
そう言って自分を見つめる華蓮に、瑞希は一瞬思案した後……。
「あの、片倉さんは……名杙桂樹さんの連絡先など、ご存知でいらっしゃいますか?」
「え……!?」
次の瞬間、常にポーカーフェイスの華蓮が、珍しく驚いた表情を見せる。これはマズいことを聞いてしまったのでは、咄嗟にそう思った瑞希は、慌てて釈明した。
「す、スイマセン!! ただ、ご本人に直接伺わないといけないかもしれないことがあって……で、でも、社内のシステムでは、本当に何も分からなくてっ……!!」
「そうでしたか。いえ、その……スイマセン。名杙桂樹さんは知っていますが、連絡先までは……佐藤支局長も果たして、どこまで知っているのか……」
「そ、そうなんですね。とにかく、佐藤支局長が戻ってきたら相談してみます。スイマセン、取り乱してしまって……」
「いえ、私こそ……そうですよね、桂樹さんの情報なんて、もう……」
そう言って軽く息を吐いた華蓮は、踵を返して自席へと戻る。その背中にこれ以上の詳細を追求することが出来ず……瑞希は銀行からの書類に付箋を貼った後、一旦、脇へ置いた。
その後、戻ってきた政宗に急ぎ報告をして書類を見せると、政宗は苦い顔をしてため息をついた。そして、桂樹が4月以降に名字を変えたこと、それを知ったのがこの書類を提出した後だったので、訂正出来なかったことを明かす。そして、彼が『今の名字で使っている銀行口座』の情報が必要であることと、『瑞希以外の仙台支局の人間が、桂樹と意図的に接触することが望ましくない』ことも。
政宗はこう続けた。桂樹は4月に、片倉華蓮と共謀して、『仙台支局』を陥れようとした人であること。その時の処分で、政宗や統治、ユカ、華蓮からの連絡は、新たな『縁』構築の可能性があるので、あまり好ましくないこと。
じゃあ、書類を郵送しますか、と、瑞希が尋ねる。政宗は……桂樹が今、どこに住んでいるのか分からないと肩を落としてしまった。
しかし、このままではいけないと思っているのは政宗自身だ。彼が軽食の買い出しで席を外している間、瑞希は机に座って思案する。
このまま、見なかったことにすることも出来るだろう。相手方との接触は、上層部がいい顔をしないのだ。恐らく支払いが遅延したのも、そんな上の声と政宗が戦い続けたからだと想像出来る。
でも、政宗はきっと……間違いなく、長い物に巻かれることをよしとはしない。幸いなことに、瑞希と桂樹に直接的な接点は何もないのだ。何か、力になれることはないだろうか。
「せめて、名杙桂樹さんの連絡先につながる何かが分かればなぁ……」
華蓮から回ってきた書類を見て、電卓を弾きながら、無意識のうちに口にしてた言葉。すると、パソコンを挟んだ向こう側から、キーボードを叩く音に混じって、こんな声が聞こえてきた。
「これは私の独り言なんですけど……桂樹さんの大学時代の同級生に、支倉涼子さんという方がいらっしゃいます。今も、サークル関係で繋がっている可能性は、ゼロではないかと」
「っ!?」
刹那、瑞希は手を止めて椅子から身を乗り出し、独り言を呟いた華蓮の方を見やる。
「ほ、本当ですか!?」
「独り言です。すいません、私の口からは、あまり……」
「い、いいえっ!! 独り言ならしょうがないですねっ!! だ、誰に聞かれても、おかしくないですよねっ!!」
瑞希は慌てて姿勢を元に戻すと、頭の中で情報を整理して……支局長へのプレゼンを組み立てる。人に何かを伝える時には、明瞭完結に。そして、導き出される結果や利益を、嘘偽りなく伝えること。これは、前職で身につけたスキルだ。
「……よ、よしっ……!!」
急ごしらえで原稿を作り終えた瞬間、コンビニの袋を持って、政宗が戻ってくる。
「あ、あのっ!! 佐藤支局長……!!」
彼が自分の椅子に座った瞬間、瑞希は立ち上がって彼へ詰め寄った。そして、首を傾げる彼を見据え、口を開く。
「お話が、ありますっ……!!」
瑞希にしては珍しい自己主張に、政宗は反射的に頷くしかない。
そして――
翌日、時刻は間もなく午前11時。
瑞希は『仙台支局』の事務所内で一人、固定電話の受話器を握りしめていた。
これから、名杙――もとい、最上桂樹という人物に電話をかける。この対応が出来るのは瑞希一人のため、政宗を含む他のメンバーは、20分ほど席を外している。
電話番号をメモした付箋紙を握りしめ、一度、深呼吸。そして、震える指に力を入れて、『教えてもらった』その番号に電話をかける。
「大丈夫、お姉ちゃんがああ言ってたから、絶対に大丈夫……!!」
呼び出し音が耳に届く中、瑞希は改めて、ここまでのことを思い返していた。
昨日の夕方、政宗に声をかけた瑞希は、姉の涼子であれば桂樹とコンタクトを取れる可能性があること、まずは桂樹の意思を確認して、今後の処遇を考えようと提案した。
そして、その連絡調整係を、自分が引き受けることを。
「私のお姉ちゃんを経由して、名杙桂樹さんご自身に、事務手続きに関する連絡を取りたいことと、私がここで働いていることと……個人情報を伝えていいかどうか、確認を取ります。そこで、きょ、拒否をされてしまったらそこまでだと、おもいますし……もしも、もしも先方がいいと言ってくれたら、わ、私が電話をして、改めて、書類をお送りしていいかどうか確認をしますっ……!!」
政宗は、瑞希の申し出に謝辞を述べた後、それならばメールの時点で住所を聞いて、郵送の許可をもらえばいいのでは、と、提案した。これは単純に瑞希の負担を減らすためである。
そんな彼の言葉に、瑞希は「でも……」と、言葉を切って。
「でも……同級生の妹とはいえ、見ず知らずの、しかも、『仙台支局』の人間に、いきなり住所まで伝えろというのは、先方の心象があまり良くはないんじゃなかなって……思うんです。それに、まずはお姉ちゃんの端末を使わせてもらうので、具体的なことは伝えられませんし……そこから仕事用のメールを使うのは、あ、あまりよくないんじゃないかなって、思って……」
これだけ、桂樹との接点に気を遣っているのだ。メールという形に残る連絡手段よりも、電話と、必要最低限の郵送のみで終わらせた方が、お互いのためになるような気がする。
瑞希は両手を握りしめて、じっと聞いている政宗を見据えた。
「私は、これ以上……『仙台支局』を嫌いになる人を、作りたく、なくて……。私の考えが甘いことは、その、分かっています。でも、もしも、許してもらえるなら……ちゃんと、ご本人とお話をして、その上で了承を頂きたいんですっ……!!」
お願いします、と、頭を下げる瑞希に、政宗は再度「ありがとう」と告げて、名杙統治へと電話をかける。そして、その場でいくつかやり取りをしてから電話を切り、改めて瑞希を見据え、今後の方針を伝えた。
瑞希の提案通り、まずは同級生である涼子を経由して、手続き上の不備で本人へ連絡をする必要が生じたので、電話番号を瑞希へ伝えていいかどうか了承を取る。そして、もしも了承が取れたら政宗へ報告後、先方の指定日時に、『仙台支局』の固定電話から連絡をする。詳しいことはその際に口頭で伝えること。
個人情報の観点から、関係書類をおいそれと外部に持ち出すことが出来ないので、書面でのやり取りは郵便で行うこと。
もしも桂樹自身が否定的であれば、彼の意思を尊重して、これ以上踏み込まないこと。
以上のことを瑞希主導で実施しても良いという許可を、政宗がその場で出してくれた。「大丈夫、何かあった時の言い訳は完璧だよ。だから……支倉さん、よろしくお願いします」、そう言って任せてくれた彼の期待に応えたい。
その後、業務後に涼子へ連絡をした瑞希は、こちらの事情を説明して彼女の協力を取り付けた。そして、瑞希が電車に乗って帰宅している間に……桂樹が電話番号を伝えることを許してくれたことと、彼の番号と希望日時が記載されたメッセージが届いたので、思わず車内で変な声が出た。
「す、すいません……ありがとう、お姉ちゃん」
姉へ謝辞を送った後、政宗へ簡単にメッセージを送る。すると……程なくして、涼子から返信が届いた。
『役に立てて良かった。彼、名字が最上に変わったんだって。優しい人だから、ミズちゃんの話をちゃんと聞いてくれるはずだよ。ミズちゃんのお仕事が無事に終わることを願ってます。頑張ってね』
「優しい、人……」
姉のメールを反すうする。
名杙――最上桂樹。姉と同じ年齢で、大学では同じサークル仲間で……。
そして、今、瑞希が働いている場所を、壊そうとした人。
人間には様々な一面があることくらい分かっているけれど、こんなに高低差がある人物も珍しい。
「どんな人、なのかな……」
取り決めとして、直接会うことは出来ない。でも、どうか、姉の言葉どおりの人物であって欲しい。
窓を流れる海沿いの景色をぼんやり眺めながら……瑞希は人知れず、唇を噛み締めた。
そして、今に至る。
耳に届く呼び出し音に呼応するように、自分の心臓が大きく脈打っていることが分かる。
もしも留守番電話に切り替わってしまったら? もしも、開口一番に怒鳴られてしまったら? 原稿は作成済みなので喋ることは決まっていた。後はどうか、相手が温厚な人物でありますように。
瑞希の頭が不安で埋め尽くされかけた、次の瞬間――
『……もしもし』
唐突に回線が繋がり、受話器から、知らない男性の声が聞こえてくる。
瑞希は反射的に息をのんだ後、慌てて手元の原稿に視線を落とした。
「お、お世話になっております。私、『東日本良縁協会仙台支局』で事務作業を担当しております。支倉と申しますが……最上さん、で、お、お間違いないでしょうかっ……!?」
『……はい。間違いありません。こちらこそ、お世話になっております』
電話の向こうから聞こえてきたのは、極端に低すぎない男性の声。特に激高する様子はないが、かといって、好意的であるようにも感じられない。要するにビジネスライクに話を進めてくれそうな気がする。
「こ、今回は唐突な連絡にも関わらず、ご対応いただきまして、本当にありがとうございました。す、少しお時間よろしいでしょうかっ……!!」
『……あまり長くならないのであれば。それで、用件は何でしょうか』
「あぁああの、えっと……実は、4月まで相談役としてご尽力いただきましたので、その分の報酬をお振込みさせていただきたいのですが、新しいお名前での口座情報が分からなくて、手続きが止まっているんです」
『……』
刹那、相手が無言になってしまった。遅すぎる上に不備だなんて、呆れてしまったのだろうか。瑞希の胸に去来した焦りが、彼女を盛大に饒舌にする。
「い、今更何言ってるんだよって感じですよね!? じゃ、じゃなくて……その、ご連絡や手続きが遅くなってしまって、本当に申し訳ありませんでした。それで……」
『……そんなことのために、わざわざ?』
「ひっ!? す、すいません遅くなってしまってっ……!!」
思わず電話に向かって頭を下げる瑞希。次の瞬間、桂樹が少し慌てたような声音で『あ、いや……』と口ごもり。
『その……正直、自分でも忘れていたようなことでして……4月分まで報酬が発生していて、それをお支払いいただけるなんて思っていなかったので……すいません、そちらを責めているわけではないんです。驚いてしまって……』
「へっ!? あ、あああそうなんですね!! えっと……佐藤支局長は、こういうことをちゃんとしたい方なので、かなり粘っていらっしゃいました。それで……個人情報の観点から、書類の持ち出しは不用意に行うべきではないと、判断しまして、必要書類の郵送を考えていたんです。えっと……こちらからの書類に記載の上、返信用封筒を使ってご返送いただきたいんです。今回の手続き以外には使用しませんので、受け取り可能なご住所をお伺いすることは……で、出来ますか……?」
理由は出来る限り具体的にすることで、相手の理解を得やすくなる。これもまた、前職時代、イベントの必要性等をプレゼンする際にやってきたことだ。
瑞希の言葉を受けた桂樹は、数秒間考えた後……。
『……分かりました。口頭でお伝えしてもよろしいでしょうか』
「はい、はいっ!! お願いしますっ……!!」
瑞希は慌ててボールペンを持つと、用意しておいたメモ帳に聞き取った住所を書きとめ、復唱して確認をする。
「で、では、今お伺いしたご住所まで、書類をお送りいたしますので……よろしくお願いいたしますっ!!」
『……分かりました。お手数をおかけして、申し訳ありません』
「い、いえいえそんなっ!! そんなことはっ……!!」
『……お姉さんと、佐藤支局長や皆さんにも、よろしくお伝えください。それでは……失礼します』
「は、はいっ!! ご連絡ありがとうございましたっ……!!」
瑞希がそう言って頭を下げた瞬間、通話が終わる。受話器から聞こえる無機質な音を聞きながら……「あぁっ!! 連絡したのは私からだった!!」という事実に気づいて、恥ずかしさでのたうち回ることになるのだが……それについてこれ以上深掘りするのはやめておこうと思う。
その後、戻ってきた政宗への報告と、必要書類等の準備、郵送等の業務をこなしていると……あっという間に夕方になってしまい。
「――お疲れ様です」
いつも通りの涼しい顔で出勤してきた華蓮に、瑞希はいそいそと近づいた。
「あ、あの、片倉さん……」
「はい?」
パソコンを機動した華蓮が、椅子に座ったまま瑞希を見上げる。
反射的に昨日のお礼を言おうとしたのだが……昨日の華蓮は独り言を言っていただけだ、ということを思い出し、慌てて言葉を飲み込んだ。
そして……。
「全て終わりました。お騒がせ、しましたっ……!!」
きっと、この言葉で察してくれるはずだと信じて頭を下げる。瑞希が頭を上げた刹那、華蓮はいつも通りのポーカーフェイスの中に、少しだけ安堵を混ぜたような、そんな表情で返答した。
「お疲れ様でした」
その日、仕事を終えた片倉華蓮は、もうすっかり慣れた様子で途中の拠点で着替えを済ませ、名波蓮として自室に戻ってきた。
「……はぁ……」
玄関に入って施錠した瞬間、全てのプレッシャーから開放され、大きなため息が漏れる。自分でも納得していない二重生活を始めさせられて、間もなく半年。片倉華蓮としてのスキルが色々な意味で上達していくことに、思うことは色々あるけれど……そんな杞憂、ウィッグやワンピースと一緒に脱ぎ捨ててきた。だからもう考えないことにする。
靴を脱いで廊下を進み、ワンルームへと続く扉を開く。同時に電気をつけると、真っ暗だった部屋が一瞬で明るくなった。蓮は扉の脇に荷物を下ろすと、カーテンを閉めるために窓の方へ近づくために足を動かし……その途中にある三段ボックスの前で、不意に立ち止まった。
扉付きのボックスの中には、蓮の教科書や参考書などの学業用品や、特に好きな本などの私物が入っている。蓮はそのボックスの前でしゃがみ込むと、一番下の段を開いて……奥に入っていた写真立てを取り出した。
そこには、彼が姉として慕っている女性――名波華の写真が飾られている。
この写真は、データとして……彼の誕生日に、さる人物から送られてきたものだった。
遡ること約3ヶ月前、6月の蓮の誕生日、1日が終わろうとしている夜のこと。
ようやく解放されて帰宅した彼が明かりをつけると、静まり返った部屋が出迎えてくれる。先程までが騒がしかったおかげで、いつもの部屋が少し寂しく感じるけれど……落ち着いてしまう自分もいた。
「……もらったもの、ちゃんと整理して片付けないと」
蓮の前にあるこたつ用のテーブルには、仙台支局の面々からもらったプレゼントが置いてあった。先程、とりあえずと思ってここに置いたものだ。
蓮は床に腰を下ろし、里穂から貰った化粧水は洗面所だな、とか、心愛からもらったシュシュと髪ゴムは持ち歩くべきか、華蓮に着替えている仙台の拠点――現在は仁義が住んでいる部屋に置くべきか、なぜ政宗はああなのか、等……1人で考えを巡らせていた。
次の瞬間、ポケットにいれていたスマートフォンが振動する。短い振動が3回、メールを受信したようだ。
「名杙さん……?」
珍しいこともあるものだと首を傾げる。メールの送り主は統治だった。仕事関係であればユカか政宗から届くことが多いので、自分が何か機械系のミスをしてしまったのかと、少し焦る気持ちで本文を確認して――
「――え……?」
その画面を確認した蓮が、かすれた声をもらす。
そして、何度も何度も画面を確認してから……眼鏡の奥の瞳に、大粒の涙を浮かべた。
「……姉さん……!?」
件名のないメールには、簡素な本文と、添付データが3つ。
『伊達先生から頼まれていたデータです。
誕生日、おめでとうございます。
名杙』
その添付データには……名波華の姿があった。
恐らく彼女と親しい人が撮影したのだろう。魅力的な笑顔が更に輝いて見える。そして、そんな彼女の表情が……蓮に、華が在りし日の誕生日を、鮮明に思い出させていく。
華だけは、毎年、蓮の誕生日をお祝いしてくれた。
――蓮、お誕生日おめでとう。これからどんどん大人になっていく蓮には、楽しいことがいっぱい、いーっぱい、待っているはずだから。
電気を消した室内、ロウソクの明かりが2人を映し出す中……華は、蓮がよく知っているチャーミングな笑顔と声で、優しく語りかけてくれた。
――だから、1つ1つの出会いを大切に、これからも元気に毎日を過ごしていってね。
彼女はいつもそうだった。自分のためでなく、誰かのために動くような人だった。
どれだけ周囲から嫌味を言われても、蓮に毎年、ケーキと……笑顔をくれた、大切な人。
「お誕生日おめでとう、蓮」
その笑顔を見ることが、その声に祝福されることが、蓮にとっては何よりも誕生日プレゼントだった。
「……ねえ、さ……」
かすれた声と共に、画面の上に涙が落ちる。
本当は分かっていた。華のフェイスブックには彼女が生前に残した写真があるから、そこにアクセスすれば彼女の姿を見ることが出来ることを。
ただ、そのフェイスブックのコメント欄には……彼女を誹謗中傷する沢山の言葉たちが、今でもずっと残り続けているから。その写真を見れば……同時に、華に対する世間の辛い評価や、二度とはがせないレッテルを思い出してしまう。
だから蓮は、アクセスや保存をためらった。そして、彼女の顔を見ないまま……少しずつ、忘れ始めていた。
アルバムの写真は、先の災害によって消失してしまった。かろうじて何枚か掘り起こしたりもしたけれど……海水とヘドロにまみれた写真は、散々なものばかり。復元も試みたけれど、上手くいかなかった。
色あせ、泥がこびりつき、一部はがれた写真を見るたびに……言いようのない悲しさに襲われて、結局蓮は、その写真を全て処分してしまったのだ。加えて、スマートフォンを使い始めたのは災害後であり、災害時には自分用の携帯電話なんか持っていなかった。
だから蓮の手元には、華の写真が……1枚も、残っていなかった。
そんな彼のもとに届いた写真。これは、フェイスブックのものではない。
『生前の彼女と親しかった人』が撮影した、蓮の知らない写真だった。
これを統治が送信した理由、それは恐らく――
「……伊達先生、名杙さん……桂樹さん、ありがとうございます」
蓮はそっと、遠い空の下にいるであろう彼にも思いを馳せて……画面の向こうにいる姉に、精一杯の笑顔を向ける。
「……姉さん、ありがとう。僕は……僕は、元気だから。また1年、頑張ってみるよ」
あれから、データを元に1枚だけ印刷した写真を……こうして写真立てに入れて保存している。
会いたいと思った時に、会うことが出来るように。
「そういえば……あの時の名杙さん、どうやって桂樹さんと連絡を取ったんだろう……」
この写真を蓮へ渡すために、大人たちが何をしてくれたのか……今回の一件を考えても、それなりに大変だったことが想像出来る。
でも、そんな大人たちのおかげで、今、蓮の手元には、彼が一番大好きだった姉の写真があるのだから。
蓮は座り込んで写真立てを見つめ……少しだけ、目を細める。
「姉さんのおかげで……僕も、困っている人を助けることが出来たような気がします」
華がいなければ、蓮と涼子は接点を持つことも出来ず、桂樹へつなぐアシストをすることが出来なかったかもしれない。
これも、華が繋いでくれた『縁』の1つ、出会いを大切にした結果だと思うと、あの場で瑞希へ自分なりの助け舟を出して良かったと思える。
――大切な言葉はあまり飾らずに、勇気を出して、はっきり言ったほうがいいよ。間違って伝わると……お互い、悲しくなっちゃうからね。
――蓮はもともと口数が少ないし、色々我慢しちゃうから……言いたいことが言えなくなる前に、はっきり言えるようになれるといいわね。
あの時、華から言われたことを、少しは実行出来るようになれたような気がして。
強く願った理想に向けて……一歩、前に進めたような気がする。
「……少しくらい、なりたい自分に近づけていたら……嬉しいな」
蓮が少し嬉しそうに呟いた次の瞬間、華の声が聞こえたような、そんな気がした。
――なりたい自分になれるわよ。だって、蓮は……私の弟なんだから。
『エンコサイヨウ』を書いていて地味に楽しいのは、『仙台支局』の事務的な流れや、福利厚生を考えることです。今回も、どうやって桂樹を引っ張り出すのか考えた時に、源泉徴収とか年末調整とか色々考えたのですが説明が面倒になり「よし、賃金未払いにしよう!!」と思って、こんなことになりました。お金は大事だよ。
そして、この3人を結びつける華姉さんの偉大さですよ。最初の段階では、ラスト、蓮のシーンはなかったのですけど、本来は蓮の誕生日なので、過去にブログで書いていた内容を調整して引っ張ってきました。文中にある華の台詞の一部は、音声化で華の声をお願いしている祐梨さんが実際に考えて言ってくださったものです。本当にありがたい。
桂樹、瑞希、蓮(華蓮)、誕生日おめでとう。それぞれの道を自分らしく突き進んでいくのだよ……!!




