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逆行する星々【外伝(3)】  作者: イプシロン
第1章 運命と意志――出会いの前にあるもの
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第9話 五分前に向かって

 少年の茶色い瞳が、壁と扉の隙間に押しつけられていた。紙一枚のような間隙の先にある舷窓には、月がぽっかりと浮かんでいた。

 それを確かめた少年はひたひたという乾いた音を立てながら、少女のいる場所へとって返すと、

「姉さん、月がどんどん大きくなってる。もう月は窓いっぱいなんだ。きっとこの船は月に降りるんだよ」

 と囁いた。

「それは良かったわ。それよりもヒュー、あなた錠のあるところまで手は届きそうなの?」

「だぶん無理だよ。何度も背伸びをしてみたけど、どうしても届かないんだ」

 少年は生ゴミのような臭気の中に横たわっている姉から目をそむけて、肩を落とした。

「わかったわ。それじゃ、錠をビリビリ、ビリビリってさせるのは、あたしがやらないとね……」

 少女はここ数日で、何十回も鞭打たれながら、懇願してやっと手に入れた半透明の容器を凝視しながら言った。

「体が痛いの。頭もボーっとしてるわ。あなたはどう?」

「ボクもだよ……。なんだか力がはいらないんだ。でも姉さんほどじゃないと思う」

 二人は、命をやっと繋ぎとめるだけの残飯をここ数日食べきっていなかった。塩辛い、そう舌が感じたものを、手に入れた容器にほうり込み、そこに尿を注いでいた。痩せた手でかきまぜられ、黄土色に濁ってどろりとした液体は異臭を放った。液体をかき混ぜるのは、神経中枢をひっかくような音を耳にするようなことだったが、リビュアは直感していた。――この汚らしいものがあたしたちを救うのよ、と。

 でもはやくしないと……はやくしないとあたしたちはきっと狂ってしまうの……。

 少女は自分が誰なのか、いったい何をしようとしているかさえ、わからなくなりかけていた。ただわかるのは、時々自分を見つめて話しかけてくる、色違いの瞳の少年を守り、救わなくてはならないということだけだった。

 もうすぐよ、きっともうすぐなのよ……。

 血みどろで破れはてた服を着たリビュアは、異臭の中で、半透明の容器をただただ見つめ続けていた。

 少年と少女のそうした地獄とはうってかわって、<のんだくれ>号の船内は活気に満ちていた。

「そろそろ着床だ。船旅での垢を落としたいだけ落とせるってもんだろ」

「なにを落とすんだか。垢を落としたつもりでいらぬ病気をもらったりするなよ。いい迷惑だ」

「前回もらっちまったお前が言っても、説得力がないってもんだ」

「こきやがれ、今度は上玉にありつくさ。お願いしたって譲ってなんかやらねーからな」

「俺の趣味はお前とは違う。安心しときな」

 脂ぎり貪欲そのものになった船員たちは、たがいに罵りあい、冗談を飛ばしあっていた。船内の通路、貨物倉庫、搬入デッキ、そして監房エリアのいたるところに、こづきあう船員たちの姿があった。

 艦橋に陣取る筋肉質の男もその一人だったが、彼は踊りだしたいような気分を納めて、平素と変わらぬ表情を見せていた。

「副長、着床まであと何分だ?」

「十五分ってとこですね」

「そうか、着床五分前になったら、船内回線を開いてくれ。今回は少しばかり勝手が違うからね」

「なんですかい? なにがあるんです?」

 この高揚感の中で妙に冷静な船長をいぶかしく思ったのか、副長はざっくばらんな調子で質問した。

「あとで教えてやる。五分前になったらだ」

「もったいぶることはないじゃないですか」

「なあに、悪いニュースじゃあない。むしろ、いい知らせを教えてやろうってのさ」

「ほんとうですかい? これまであんたには何度も騙されてる」

「信用がおけないってのか? あきれた話だ。貴様いったい誰のおかげで稼げてきたと思ってるんだ」

 表情に怒りはなかった。これから起こることを何度も脳裏に描いてきた男からすれば、目に前の言い争いなど、ものの数ではなかったのだ。

「いやまあ、そう言われちゃあ返す言葉がありませんぜ。――おっといけねえ、着床十分前だ」

 副長は船長から意識をそらすと、操舵員に向かって言った。

「コースはどうだ? 順調か?」

「何も問題はありゃあしませんよ。万事うまくいってますよ」

 着陸脚を出しはじめた<のんだくれ>号は、しだいしだいに高度を下げ、月の大気圏ともいえる空域に進入していった。

 その煤けて汚れた輸送船を追う眼が、地表にあった。

 はじめての仕事がこうもスリリングなのはどうかと思うわ。言ってみれば、太陽系で一番危なっかしい連中が何をしでかすのかを探れってことよね。いいや、それはどうかしら。海賊と比べてどっちがやっかいなのかしら?

 動きやすい体に密着したスマートな宇宙服を着こなしている女は、自問自答しながら、宇宙港ターミナルの窓から、汚れた銀灰色の輸送船を目で追っていた。

「さてさて、ここにいて安全なものなのか……」

 そうつぶやいたあと、リンジーは腰の拳銃を確かめたのだった。

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