第8話 不安と過信――断崖を登る男たち
地球の暦は月では使い物にならなかった。二週間つづく昼、そのあとにくる二週間の夜。それが月の一日だったからだ。月にとって太陽は忌むべき存在だった。漆黒の宇宙を背景に、真夏の太陽そこのけそこのけの凄烈さで、真白に輝く太陽は畏怖心を生むのだった。強すぎる光は恐ろしいものなのだ。こうしたことから、セレーネはクレーターの崖に守られた場所にあった。
間近にせまる崖――セレーネ周辺部の崖の上には宇宙港がひらけていた。その一角に、基地のエネルギーを確保するために、規則正しく並んだソーラーパネルがあった。長い昼の間、エネルギーを蓄えるための。
「おい、予定時間を過ぎてるんじゃないか?」
先頭になって崖を登っている男が足をとめ、後続の者を見おろしながら言った。
後に続いている男は、崩れやすい岩場の足元を確認してから、宇宙服の袖にある時計を見た。
「大丈夫だ、時間はたっぷりある。予定より順調なくらいだ」
「ならばいいんだが。やけに時間がかかってるように思えてな。それに見つかっちまったら元もこもない。なにしろ、俺は上から言われてるんだ。今回のは隠密性とタイミングが重要だと」
「心配はいらんさ、思ったより早く登れてることは確実だ。それにドンパチをはじめる頃は、セレーネの連中は母なる日でお祭り気分だろうしな。心配ない」
「そうかもしれないな」
リーダー格の男はねっとり湿って熱がこもった歎息で、宇宙服のバイザーを曇らせてから、また崖を登りはじめた。背負っている武器がやたらに重く感じられた。傾いた岩場に足をかけると、彼の後を追っている汚れた緑色の人影に、まばらに小石が落ちていくこともあった。
あと二十メートルってところか。遠いな……。
彼は突然、この場所の重力がたわいないことに思いいたり、腑抜けた生き方をしてきた自分を嘲笑した。
宇宙飛行士を目指してたときの訓練はこんなものじゃなかった。もっとも今じゃ、それもいかれた思い出でしかない。あと五メートル……。
男は関節という関節が、あらぬ方向に曲がって呻いているような悲鳴に気づいたが、歯を食いしばって最後の一メートルを登りきった。
あれほど峻嶮だった景色が一転し、無機質ではあるが、そこからはひらけた風景が見わたせた。整然と並ぶソーラーパネルが太陽光を反射して、青黒く明滅するのが見えた。無数の青い光は無気味でもあり、静穏でもあった。
「なかなかいい眺めだ。ガキの頃に本で見たような風景だ」
「なにをいってやがる。へんに感傷的になられても困るぜ」
後に続いている男の姿はまだ見えなかったが、湧き上がる砂煙が、居場所を教えるように舞いあがっていた。
リーダー格の男は、関節の痛みを追い払いたくて、生命維持装置を操作した。とたんに、針で刺すような鈍痛のあと、全身にステロイドが沁みわたっていくのを感じた。
「そいつをやりすぎると、役立たずになるって話だぜ」
「いまさら役立たずになったところで困りはしないさ。それに最近はあっちのクスリもいいのがあるって話じゃないか」
「その手のヤクも体に良くないって話だ」
彼のすぐ後ろにいた男も崖を登りきり、傍らに立っていた。
「しょせん、人間のやることってのは、くだらないことばかりさ」
「そのくだらないことがいいんだがな」
男はぞくぞくとやってくる宇宙服の一団を眺めていた。あちらこちらであがっている砂塵が消えると、五人一組になっている人影が浮びあがる。
「時間まで小休止でいいのか?」
「ああ、構わん。退屈ならステロイドでも何でも勝手にしやがれ。だが、肝心なときにラリっててもらっちゃあ困る。それだけだ」
「了解だ」
副リーダー格の男は、個人回線から隊内通信に切り替えて、もっともらしい指示を伝えたあと、回線を戻して、
「月の夜ってのは便利なもんだな。薄汚ねえ連中がギャーギャー言いながら、派手に砂埃を立てても誰も気づきゃあしねえ」
「慣れってやつじゃないか? どうせまた磁気嵐だとでも思うもんなんだろう」
彼は周囲に視線を走らせて、おおよそ百以上の人影があるのを確認したあと、どっかと腰をおろした。
「しかしなんだな、こんな連中でやれるのか?」
リーダー格の男は、その場に腰をおろしたまま、ぼんやりと青黒い光の列を眺めながら質問し返した。
「なにが不安なんだ? 言ってみろよ」
「ここの部隊はそれほど心配しちゃあいない。俺が言ってるのは、セレーネ中心部と、月基地の連中さ」
「それなら心配はいらん。この部隊で作戦の全貌を知っているのは、俺とお前だけだ。てことは、他の部隊にも俺たちみたいな奴はいるってことだ」
「それはそうだろうな」
その時、漆黒の天空にゆっくりと動きながらまたたく星が見えはじめた。
「あれだ、あいつが多分のんだくれ号だ」
「着床まであと三十分はかかりそうだな」
「十五分前になったら、伝達してくれ。死にたくなければ武器装備の点検だけはしっかりやれ。なにしろ品質に問題のあるものが多いからな」
「わかった」
副リーダー格の男は相槌をうってから、周囲の連中を眺めやった。のんびりしている者。薬物によって適度な興奮状態にいようとする者、不安に駆られているのか、ギクシャクした動きで装備の点検をしているもの、様々な姿があった。
「世の中、あてにならねえことばかりってわけだな」
「いまさら何を言ってやがる」
武器装備の点検をしはじめたリーダー格の男が、顔をあげて、傍らにいる宇宙服に向かって言った。
「さっきの話だがな、貧乏くじを引く奴らはいるってことだ。考えてもみろ、ここにいる連中が作戦の内容を知っちまったら、いきがるか、ビビっちまうだけのことさ。テメーの身はテメーで守るしかねえんだよ。俺とお前にしたってそれは同じことだ。他人のことより自分の身のことを考えりゃいいんだ。心配はいらねえんだよ」
「そうかもしれないな。――おっといけねえ、そろそろ時間だ」
男は袖口の時計から目を離して、隊内無線に切り替えると、わめくような声で、
「おいてめえら、良く聞け。行動開始十五分前だ。武器の点検だけはしっかりやっておけ。テメーの身はテメーで守れってことだ。いいか、欲しい物があるなら、必死になれ。守りたいものがあるならドジるな。そういうことだ」
と叫んだ。
崖を登ってたときにゃああんなにブルってたくせに、不思議な野郎だ。だが、お前の度胸だけは認めてやる。
男は目の前で起きた変化が、ステロイドで興奮したせいなのか、リーダー格の男がもともと持っている性分なのかと、ふと疑問に思った。




