第50話 毒蛇に呑まれし者
トゥラキアが他界して数週間が経ったころ、抜け殻のようになっていたヒュードラーは、導かれるように彼女が暮らしていたアパートへと足を向けていた。
なぜここに来たんだろう? 見れば思い出すものばかりある部屋に。
問いかけてみたところで答えはでなかった。ハウとエリスがアパートの部屋を借り上げていたから、トゥラキアの残していったものは、何もかも変わらずもとあった場所でひっそりとそのままの姿を見せていた。
不思議と何を見ても胸に痛みは感じなかった。心が麻痺してしまったのだろうかとも考えたが、すぐに考えるのをやめて、ただそこにあるものをぼんやりと見て回った。
姉さんを探すにしても、どこかに居場所がなければ無理だ。ならボクはここで暮らそう。そうすればきっと母さんの魂も慰めてやれることだろう。一緒にいてあげれなかったことで自分を責めるのにももう疲れたんだ。どこにいても悲しみの海が惹き起こす浪をかぶらないでいることなんて不可能なんだ。病室のベッドにいても、ハウとエリスの家にいても、どこにいてもだ。あの人といたって逃げ出そうとした。そして知ったんだ。居場所がどこにあるかを。だったらその居場所であった人を懐かしんでなにが悪いっていうんだ。何も悪くなんてない。ああ、これ、懐かしいなあ。時々読んで聞かせてくれたっけ。あの人の孤独だった心は今もここにあるんだ。それを知る手がかりもすべてここにある。だから目をそらしたりはしない。姉さんもきっとわかってくれる。ここに居たいという気持ちを……。
しかし、トゥラキアが借りた部屋で暮らしはじめてからも、ヒュードラーの憂鬱は消えなかった。茫然自失して朦朧としている。週に何度かDOXA本部に出向いて、なんとか職員としての資格がはく奪されないようにはしていたが、それ以外の時間はアパートの部屋に閉じこもっては、薄気味悪い笑いを口元に浮かべながら亡き母の形見と話していた。
母さん懐かしいね。この本のこと憶えてるかい? 毎晩のようにせがんで読んでもらったっけね。終いには内容を丸暗記してしまった。今でもすらすらと口から零れでるように朗読できるんだ。やってみせようか。
――それでははじまり、はじまり。
「ある日、畑の近くにはえていたカシの木が神様に不満を申し立てました。
『神様! 私は農民から嫌われた、枝を斧で切られるなどして、酷い目に遭っています。私はこんな目に遭うために生まれたのですか?』
すると、神様はこう答えました。
『お前は何か勘違いしているようだな。お前の境遇は自分自身で招いたものだ。もし、農民に切られるのが嫌だったら、自分の性質を変えることだ』
こういわれて、カシの木は反省しました。いわれてみれば、枝をどんどん伸ばすために、畑が日陰になって作物に悪い影響を与えてしまっていたからです。作物を守るために、農民はしようがなくカシの枝を切っていたのです」
おしまい。――母さん、ちゃんと聞いてたかい?
そういってヒュードラーは飾られた遺影を見つめた。そこには、はにかみながら笑っているトゥラキアがいた。
母さんは素直じゃなかった。もちろんボクもだ。だからぶつかりあった。ボクが逃げ出そうと思っていることは誰よりも早く察知していた。母さんが警戒すれば、ボクも警戒した。このお話のようにね。相手のあなたに対する態度は、あなたの相手に対する態度そのものである、二人で一緒に、お話のうしろにあった解説を読んだとき、ギクリとして目をそらしてしまったんだ。
この話を読んでもらっていたころは、本当の意味で理解なんてできやしなかった。でも今はわかる気がするんだ。
嘘だ、嘘をいうな! ただ憎いだけなんだ。父さんと母さんをどこかに連れ去った奴らが憎い。ボクと姉さんのことを鞭打った奴らが憎いんだ。そうだ、ボクと姉さんを離れ離れにした奴らが憎いんだ。あいつは何一つ苦しみを背負わずに生きてるんだろう。名前さえわからないあの男。偉そうに母さんに言ったんだ。「ラキア、連れて行ってくれ」ってね。今でもはっきり覚えてるんだ。殺してやるんだ、いつか。
<ケイローン>号の奴らも芥屑だった。火星の連中もそうだ。人殺しどもめ! 月で暴動を起こした奴らも人殺しだ! あいつらは、ペールとメールさえも奪っていきやがったんだ、殺してやるんだ。いつかこの手で。
終いには母さんを追い詰めて殺したんだ! 必ず見つけ出して殺してやるぞ!
ヒュードラーの腹の底で多頭の毒蛇が、いくつもの鎌首を上げて憤怒の舌を吐いていた。
――俺様は空腹なんだ、貴様の恨み辛みをよこせ――と。
黄ばんだ薄汚い牙から、濁ってどろりとした黄土色の液体がぽとりと落ちた。
全身が燃えるようにカッカと熱かった。沸騰して毛穴という毛穴から蒸気が噴水のように吹きだしているようだった。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ!」
ヒュードラーは恐ろしい考えをふり払おうとして激しく首をふってから、激しく狼狽した。
母さんはこんなボクを喜んで抱きしめてはくれない。行かなくちゃ、本部に行って姉さんの行方を探すんだ。動悸がするけど行かなくちゃいけないんだ。
ふらふらと立ち上がりヒュードラーは部屋を出ていった。
ハウとエリスが<アキレウス>号に搭乗して地球を留守にしていたあいだ、三年以上の期間、彼は憂鬱な日々を送りつづけた。母に語りかけ、ほんの数瞬だけ温もりを感じたあと、憤懣を吐き散らし、恐怖して狼狽する日々を送りつづけたのだ。
そんなある日、エリスがひょっこりとアパートに姿を見せた。
夫婦そろって地球に帰還していることは耳にしていたのだが、ヒュードラーは会いたいという気持ちにはならなかったのだ。
「ヒュー、顔色がよくないわ。ちゃんとご飯は食べてるの?」
「うん……」
「夜は眠れてるの?」
「まあね」
「背、だいぶ伸びたわね。いくつくらいあるの?」
「わからない」
エリスが何を聞いても、短くおざなりな言葉しか返ってこなかった。
「しかたのない子ね。でも今日はあなたにどうしても渡したい物があってここへ来たのよ。受け取ってくれる?」
「…………」
「受けとらないといっても置いていくわよ。あたしが帰ってからでいいわ。データカードを読んでみて。約束できる? そのあとどうするかは、あなたの自由よ」
「わかった」
「半年後にはまた航行に出るのよ。ごめんねヒュー、何もしてあげられなくて」
エリスは持前の明るい顔で、お土産を渡すようにカードを置いてきたことに罪深さを感じていたのか、アパートの階段を降りたあと、振り返って「ごめんね、ヒュードラー」と囁いたあと、胸元で握った拳を掌で覆ってからもう一度囁いた。
「ヒュードラー、あなたを信じてるわ」と。
データカードには意外なものが記録されていた。リビュアが書いたらしい日記が記録されていたのだ。
――今日はマーチ先生が前にお話してくれた童話をもういちど読み聞かせてくれました。忘れないように書いておきます。内容はこうです。
それでは、はじまり、はじまりー!
ある日、牛飼いが牛に荷車を引かせながら、山道をタラタラと歩いていました。ところが、カーブに差しかかったとき、曲りきることができず、車輪の一部がくぼみに落ちてしまいました。
しかし、牛飼いは、どう対処していいかわからず、ボケッとつっ立ったままです。しばらくして、
「あっ、そうだ。自分が崇拝している神様にお願いして助けてもらおう」
と神頼みしたところ、神様からこういわれたのでした。
「くぼみに落ちた車輪をもち上げ、牛が前に進むように、突棒で突け。そういう努力をしてから神頼みをするがいい」と。
おーしまい。
なんでもマーチ先生の言うには、このお話は――ただ神頼みするだけでは問題は解決しない。自分がやれることはすべてやったうえで天命を待つ姿勢が大切である――ということを教えているのだそうです。ふふふ、白状すると、難しい言葉がいっぱいあって本当は意味が良くわかりませんでした。てんめいってなんだろう? でもなんとなくお話の内容はわかりました。とにかく一生懸命やりなさい。好きなことをとことんやってみなさいということなのだと思いました。すうはいとか、かみだのみとかいう言葉の意味はちっともわかりませんが、きっと尊敬とそんなに変わらないのでしょう。でも、努力という意味はちゃんとわかるのです。なので、何かを頑張るときは、そのことを尊敬して一生懸命に努力しなさいということなんだと思うのです。マーチ先生のことだから、あたしが少しくらい間違えて憶えてしまってもきっと怒らないと思います。明日はまた楽しみにしているぜんしんりょうほうの日です。まえに泳いでしまって叱られましたが、明日もきっと泳いでしまうことでしょう。泳ぐことを努力するのが良いことなのか、泳ぐことを我慢するのが良いことなのか、明日憶えていたら先生に聞いてみようと思います。
ヒュードラーは涙した。追いかけつづけた姉があまりにも幼い姿になって目の前に現れたからだ。もう何年も前のものであることは明白だった。日記に書かれた日付がそれを証明していた。
リビュアより物知りになり、幾分冷静にものを見つめられるようになっていたことが、無情な月日が流れてしまったことがたまらなく悲しかった。
だが日記は、取り戻しも巻き戻しも出来ない、時間というものの厳格さを教えてくれていたし、トゥラキアの形見を抱いて過去を彷徨い、現実の中で戦うことを忘れきっていたことにも気づかせてくれたのだった。
「姉さん、ありがとう。ボクは腑抜けになっていたようだ」
母さんボクは母さんに教わった一番大切なことを忘れていたよ。戦いなさい。何度も何度もそう教えてくれたっけね。
耳の奥で怒涛のごとくトゥラキアの声が蘇えった。
――誇りをもちなさい。体中に傷があるからって、あなたの価値が下がることはないのよ。大切なのは、あなたがこれからやること、やってみたいことを見つけること。そして何よりもこれをやったんだと言えることなのよ、わかる?
「ああ、わかるよ、母さん!」
――俯かないの。顔を上げなさい。胸を張るのよ!
「わかってるさ、ボクできるよ!」
――なによ、あなたのされたことはその程度なの。そんなはずないわ。さあ、もっと叩きつけなさいよ、お前のしたことはこうだって、教えるのよ!
「そうだ! 恨みをはらさずにおくものか! やってやる、やってやるんだ!」
だがそれはかつてのヒュードラーではなかった。
長年月のあいだ、腹の底に飼いつづけてきた、九つの頭を持つ毒蛇が完全に彼を呑みこんだ瞬間だった。
かつては安堵と信念をかねそなえていた虹彩異色症の瞳から二つの光が消え去り、憤怒と怨念という真紅の炎が灯った瞬間だったのだ。
――さあもっと。もっと出来るはずよ。あなたの怒りはそんなものじゃなかったはずよ!
「母さん、わかってる。仇は必ず取ってみせるさ!」
――悔しいことがあったら立ち向かいなさい。黙って耐えていては駄目なのよ。欲しい物が手に入るまで戦うの。わかる?!
「ああ、やってみせるよ、欲しいものが手に入るまで戦ってみせるさ! 俺様にまかせておけ!」




