第49話 残された真実
ヒュードラーは一人だった。とてつもない孤独の中にいた。深く暗い闇の中にいた。
誰を頼ったらいいのかももうわからなかった。たった一人「助けて……」と残ったわずかな息を吐き零せる人がいるとしたら、それは姉のリビュアだったが、彼にはもう姉を探す力など残されていなかった。
なんとか気力を振り絞って幽鬼のような顔をして、ハウとエリスにトゥラキアの自死だけは告げた。だがそれからというもの、ヒュードラーは悲嘆に暮れてその夜はトゥラキアの亡骸とともに、まんじりともせずに過ごしたのだった。
夫妻とは長いこと話していたようだが、「すぐに行くから、おかしなことをせずに、じっと待っているんだよ」という言葉だけしか憶えていなかった。
倒れたビンとグラスの横には、手書きの手紙と、医師の診断したデータカードが残されていた。残酷な知らせばかりだった。医師の診断によれば、トゥラキアはリノにあるハウ夫妻の邸宅を訪ねたあとの精密検査で、すでに回復不能の損傷を脳に負っていることを宣告されていたのだ。
誰にも語らず一人そのことに耐えて「ヒュー、あなたに先をこさせはしないわ。一緒にケイローンに乗るんだからね」と笑っていた底にどれほどの悲しみを仕舞い込んでいたのかと考えたとき、ヒュードラーはとめどなく溢れる涙もそのままに、肩を震わせて号泣したのだった。
何もかも知ったうえで、飛行士の訓練をつづけ、その一方で無駄なことをしていることを熟知していたトゥラキア。酒と煙草だけが亡き母の楽しみだったのだと思うと、それを嫌がったことは許されざる罪を犯したような気もした。
どうして正直に「あたしの体は壊れてしまってるの。ごめんねヒュー」と言ってくれなかったのだろうか。そういう恨めしさに襲われて、トゥラキアに憤懣やるかたなさを抱いたりもした。
そんなこと、あの人が出来るはずがない。そのことを誰よりも知っていたヒュードラーの心は引き裂かれるように痛んだ。
手紙には、震えるような筆跡で数行にわたって文字が書き連ねられていただけだった。
ヒュードラー、ごめんなさい。
淋しかった。
それに負けました。
お別れの言葉はいえません。
自分勝手でごめんなさい。
PS.あなたの本当の御両親は生きています。
お姉さんと仲良くやってください。
最後の二行は文字が乱れていた。おそらく、先の五行を書いたあと、煽るように薬を飲み、朦朧とする意識のなかで追伸を書いたのであろう。
最後の最後までトゥラキアは彼の母であろうとしたのだ。もちろん、ヒュードラーはそれに気づかぬほど鈍感ではなかった。しかしそう思えば思うほど、ヒュードラーには彼女の抱えていた孤独の深淵さが理解できた。
「あなたには本当のパパもママもいるのよ。お姉さんもね。だから、淋しくなったら往きなさい。あたしを捨ててでも往きなさい。あたし? あたしは平気よ。いままでずっと一人で生きてきたんだもの。あなたがいなくなったからって何も変わらないわ」
感情に起伏を見せない、あの独特の声が耳の奥でそう言っているのを、ヒュードラーは聞くことができたのだ。
「馬鹿野郎! 何も変わらないどころじゃないじゃないか。変わってしまうのが嫌だったから、一人になるのが嫌だったから母さんは自分で……いつかわからないでいきなり捨てられるより。自分の意志で去る方が……馬鹿野郎……」
どうしてだよ……ボクは母さんを見捨てやしないって伝えたくて、飛んで帰ってきたんだよ……どうしてもう少しだけ待っていてくれなかったんだ……。
「うるせえんだよ! いま何時だと思ってんだ! 三日に一度はこうだ――」
時折り、隣室からわめく声がして、ドンドンと壁を蹴るような音もしていたが、ヒュードラーの耳には届いていなかった。
彼は、残されたデータから、<ケイローン>号の人格コンピューターのペールとメールが、実の両親であることも知った。詳細な理由や経緯はまったく記録にはなかったが、そのこともまたヒュードラーを縛りつけ、身動きがとれないほど苦悶させた。
「ペールとメールのことも忘れないでね」と言ったトゥラキア。はたしてそう言ったとき、彼女は事の真相を既に知っていたのだろうか? それも永遠の謎となり闇の中に消えてしまった。だが事実がどうであってもヒュードラーにとっては同じことだった。悔恨と悲嘆の色を深めただけだったのだ。
両親が人格コンピューターになった詳細な経緯もおそらくトゥラキアは調べつくしていたはずだ。もちろん姉の行方や居所も。しかしそれすらも彼女はひとり抱えていたことに思い至ったとき、ヒュードラーは怒号のような声で泣きわめいた。
やがて考えるだけ考え、思考力を失ったヒュードラーはただ茫然として、部屋に座っていた。
ふと人の気配を感じたが、なにかをしようという気はまったく起きなかった。
ハウとエリスが到着したとき、彼は極度のショック状態に陥っていたのだ。
数日間、ヒュードラーは夢を見ることもなく病院のベッドで眠りつづけた。そのあいだに、ハウとエリスはトゥラキアの葬儀を終わらせていた。
「最後のお別れはさせてあげたかった気はするけど、残酷過ぎる気もしてた。これで良かったのかもね」
「隠しておいたこと、彼のお姉さんのこと。それだけが彼を生かしているんだろうね」
ハウとエリスの顔にも疲れと沈鬱さがあった。
「彼は全てを失ったのかもしれない……」
ハウは灰色の瞳を震わせながら、空を見やっていた。
「なぜそう思うの?」
「実の両親も、育ての母も失った。まだ彼は知ってはいないが、お姉さんも失っている。彼にとってケイローンはただの船じゃない。それ以外の船に彼が乗ると思うのかい?」
「無理ね。あたしがここまでこれたのは、アキレウスという船のファザーとマザー、そしてハウ、あなたがいたからだもの。彼の絶望の深さはわからないわけじゃないわ」
エリスも淡褐色の瞳で空を見上げていた。
「もうボロボロになっているウサギの縫いぐるみ。憶えてるかい?」
「ええ」
「ヒューにとってはおもちゃのケイローンとボロボロのデータパッドがそれだろうね……だけど悲しいことに、物っていうのは人を過去に縛り付けようとするんじゃないのかな」
「そうかもしれないわね。正直、縫いぐるみのことは忘れてたわ」
「わたしらは彼の力にはなれないんだろうね……」
「なぜそう思うの?」
「彼のあの猟犬のような眼。あの光の強さはわたしらには無いものだよ」
ハウとエリスは抜けるような空の向こうへといつまでも視線を向けていた。
まるで<ケイローン>号を探しているかのように。




