第47話 殻の中に生まれし毒蛇
赤い惑星、Mars、いくつかの呼び音をもつ太陽系第四惑星の火星。
その呼び音の中でもっとも火星を的確に表しているのは、神話にある「城壁の破壊者」というものであり「破壊と狂乱」というアレスという名の神ではないかとヒュードラーは思った。
酸化鉄を含む赤い地層は見るものを畏怖させ、直径は地球の半分ほどだというのに、地表の起伏は激しく荒ぶれている。
かつてこの星では惑星規模の戦争があった。鉄でできた戦いの機械たちは互いを破壊しあい殺しあい、なだらかだった美しい地表に穴をうがち、眠れる火山を怒らせて地球の規模とはくらべものにならない高さで屹立する山と冥界のように深淵な谷をつくった。そして人々は滅亡した。残ったものはそれでも生きつづけた季節だけなのだろう。ヒュードラーはギザ基地の宇宙港にほど近い部屋で、風に吹かれて赤銅色の砂が渦を巻くのを見つめながらそんなことを考えていた。
戦い、戦い、戦い……いつもそればかりだ。腹の底から憤怒が湧き上がってくるのがわかった。
いまのギザ基地だって何も変わらない。嫌われものの軍隊が目障りだと言って、地球人は戦いの地を火星へと追いやった。そこで軍人たちが作り上げたものといえば、地球の二分の一サイズのピラミッドとスフィンクスと、この宇宙港だ。過酷な労働条件だったのだろうに、ピラミッドやスフィンクスの配置は地球のそれと寸分も違わぬほど正確だ。エジプト五千年の歴史にあやかって「滅びざるもの」を作りたかったというのか? 馬鹿馬鹿しい。滅びを恐れているから、あんな城壁を作ってギザは我が身を守っているんじゃないか。自信のないことおびただしい。それでも自分たちが愚かで憐れな存在だとさえ気づけない。人間てなんなんだ。戦っている人間ていったい何なんだ!
ヒュードラーは、鞭打たれたときに感じた、瞬時に肌を焼かれるような痛みを思いだし、叫びたい憤怒に駆られて、赤茶けた風景をじっと見つめていた。
つかの間の平和。家庭? それだって怪しいものだ。あの城壁はどうだ。誰人の侵入さえ許さないような分厚さと高さをもって頑強に築かれた城壁。だがそこで何があった。数か月前、見知らぬ集団の襲撃を受けて、レーザーに焼かれ、手榴弾を投げ込まれ、閃光で視力を失い、腹や背中に火傷をおい、腕や足をひきちぎられ、死んでいった人がいるっていうじゃないか。
遠く霞む城壁には、焼け焦げた痕や削れ落ちた部分がまだ修復されぬまま、侘しい姿を曝け出していた。
火星が悪いんじゃない。この星がつけられた呼び音に罪なんてない。かつて美しかっただろう楽園を破壊し、それにちなんだ名を与え、見下しているのは人間だ。人間こそが悪じゃないか。腹の底でいくつもの頭を持つ大蛇が殻を破ろうとして暴れているようだった。まだ生まれたばかりであろう小さな存在だと感じはしたが、多頭の蛇はいつか凶悪な怒りを爆発させるような気がした。それほどヒュードラーの中にある憤懣は熱せられていたのだ。
それでも彼は、血眼になって赤い世界で心安らぐものを探し出そうとした。
「あるとしたら……」
視線の先には、船体や各種装備の試験と完熟訓練のために、ギザにやってきて、<ケイローン>号の隣で翼を休めている<アキレウス>号があった。
ハウとエリス。でも違うんだ。生来ボクとあの人たちは人種がちがうんだ。あの人たちは温かい、とても温かい。ともするとあの人たちの中にいることで、ボクは自分を失ってしまいそうになるのをこれまで何度も感じてきたんだ。だからあの人たちはボクの家族にはなりえない。信じてこの身を投げだせるのは……。
「姉さんとあの人……そしてペールとメールなんだ」
ヒュードラーは視線を<アキレウス>号から離して、デスクの上にぽつんと置かれているポンコツ宇宙船のおもちゃと、その横にあるいまも使っている傷だらけのデータパッドを見つめた。
「帰りたい……あの人と姉さんのいる地球に」
……そうだ、方法はあるじゃないか! <アキレウス>は地球に帰るんだ。何も修理のはかどらない<ケイローン>で帰ろうとすることはないんだ。だけど、父さんと母さんはどうするんだ。いいや平気だ。父さんと母さんはボクなんかが心配する必要なんてありはしない。それにボクはDOXAにいる限り、この船のクルーでありつづける、そう決めてるんだし。よし帰ろう。帰ってあの人に会って、姉さんを探しだすんだ。あの人がボクの願いに首を振るはずんなんてない。またアメリカじゅうを走り回ることになったって一緒に旅をしてくれるさ。いや、アメリカだけじゃない。アジアだってヨーロッパだって行ってくれるさ。あの人はきっとボクの傍にいてくれる。
何かに弾かれたように、ヒュードラーはインターホンのもとへ駆けだすと、受話器を上げて、
「アキレウス号への直通回線を開いてくれ」
と明敏な声でいった。
その<アキレウス>号と<ケイローン>号の人格コンピューターは情報交換のために、直結回路を接続していた。厖大なデータがやりとりされていたが、作業はもう終盤に差しかかっていた。
「なあおまえ、アキレウスが送ってよこしたあのデータはもう知っているのかい?」
人格コンピューター間の直通秘匿回路を流れたペールの声は沈んでいた。
「あれと申しましても、何のことなのか……」
メールはそっけない素振りをみせたが、「あれ」がなんであるのかは十分にわかっていた。
咳払いのような信号を送ったあと、ペールは悲痛な感情を回路に流しながら、
「娘のことだよ」
と囁くようにいった。
「名前というものだけであれば、あたくしも同姓同名ということを考えもしました。でもあのアキレウスの寄こしたデータには、あの娘の出生地も、生年月日も、生育履歴もありました。もちろん家族構成も。事実として受け入れるしか……」
「では君はヒューのこともわかっていたんだね」
「はい。黙っていて申し訳ありませんでした」
ペールは思った。いまこの耐えがたい苦痛を乗り越えるためには、メールの顔を見て、体温を感じとって、涙に泣きぬれたいと。メールもまた同じ感情を抱えていた。
「忘れるはずがありません。ヒュードラーはわたくしの息子です。そしてリビュアはわたくしの娘なのですから。どんなに忘れようとしても忘れられるはずなどありません」
メールの神経回路は涙滴で満たされていた。
「その息子も、どうやらこの船を去っていくようだがね……」
「さっきアキレウスとの回線を開いたようですからね。もちろん話した内容まではわかりませんが」
「リビュアのこと……彼に伝えるべきだろうか」
「そんな残酷なことは出来ません。あの子はまだあたくしたちが死んだと思えていないでしょうし……ましてや……」
「名のりあうことも叶わず、ただ黙って見守るのがわたしたちの勤め……か」
「ヒュードラーはきっとリビュアの死も受け入れらないでしょう。あの子はまだ子供なんです。ようやく十一歳になったばかりの子供なんです。残酷すぎます。神は憐みをたれてくれないものなのでしょうか……」
「おまえ、感じたかい? あの黒雲に遭遇したときに、なにかを」
「ええ……幽かにというか、気のせいとも思えましたが」
「人格コンピューターに、気のせいなど介入のしようはないよ」
「そうです、わたしはリビュアの声を聞いたのです。聞こえましたとも。『ごめんなさい……ごめんなさい……』と泣く声を……」
「もうよそう。考えたところで何も出来ないことをわたしたちは誰よりも知っているのだから」
「恨めしいんです……」
「よしなさい、メール」
「自由に歩きまわれる体が恨めしいんです。今すぐあの子を抱きしめられる腕が恨めしいんです。あの子を抱いて『大丈夫よ、あなたは一人ぼっちなんかじゃないの』と言ってあげられる口が恨めしいんです」
「よせ、よすんだメール、よしなさい。少し寝るといい、君は疲れているんだよ」
ヒュードラーが何も知らぬまま<キンダーハイム・アキレウス>号に移乗して、地球に向かって飛び立ったのは、それから数時間後のことだった。
星空では火星の衛星フォボスとダイモスが眦をあげて船を睨んでいた。狼狽と恐怖の眼で。
少年の腹の底で毒蛇が殻を破って、恨めしそうに怒りの咆哮をあげた。毒蛇を制する毒はまだ少年の手に握られていた。




