第46話 残酷な再会
フロリダ州オーランドにあるDOXA宇宙センターから、最新型の準光速宇宙船<キンダーハイム・アキレウス>号の竣工を祝うように、一隻の船が宇宙に旅立とうとしていた。
「少し残念な気もするが、可愛い子には旅をさせろっていうからね」
なにもかもが新しい<アキレウス>号の艦橋で、ハウは傍らにいる妻エリスに話しかけながら、窓外に見える宇宙船に目を落としていた。
「心配ないわ。あたしなんて彼の歳頃には、もう<アキレウス>号でギャーギャー騒いでいたんだからね」
その頃と比べれば、すっかり女らしくなったエリスは不揃いの赤毛が気になるのか、頭を振ってからハウの視線を追いかけて、淡褐色の瞳を<ケイローン>号へと向けた。
「それよりもエリス、彼はお姉さんのことはもう知っているのかな?」
「知らないわ。それに今は知らせるべきでないと思うわ。彼だって<アイレース>が地球に帰還したことは知っているはずよ。そこにお姉さんが乗っていただろうとも思っているでしょ。でも今はね……」
「そうだね、トゥラキアのこともあるからね」
エリスはまた頭を振ってからこたえた。
「彼女のことも彼は知らないわ。何もかもを隠すべきではないけど、今はね……」
長いため息をついたあとハウが口を開いた。
「宿命というのかな。君もそうだが、彼も数奇な運命を背負っているんだろうね」
「どうやら点火の秒読みをはじめたようです」
唐突に、人格コンピューターのファザーが報告する声が艦橋一杯に広がった。
「ヒュードラー、あなたの無事を祈るわ」
エリスは握った拳を掌で包み、胸の前で合せてから、
「さあハウ、こっちもいそがしくなるんだから、そんな深刻な顔ばかりしていないでね。この船にはお転婆娘がいることをお忘れなく」
といって微笑んだとき、<ケイローン>号がエンジンに点火した振動が二人の足元から伝わってきた。
あっというまのことだった。白い煙をもくもくと活火山のように立ちのぼらせたかとおもうと、<ケイローン>号はオレンジ色の長大な炎を吐いて、水蒸気の雲を引きながら、大空へと駆け上がっていった。
<ケイローン>号が上昇をしている五月晴れの空ほどヒュードラーの心は晴れわたっていなかった。だが、それでも不満などなにひとつ感じていなかった。姉の乗っていた<アイレース>号が、無事に地球に帰還したのと入れ替わるように出発したことに無念はあったが、風の便りにリビュアが<アイレース>号に乗っていたことを耳にもしていたのだから。
それよりも負けん気の強いヒュードラーが抱えていたのは「姉が見た景色をボクも見てみたい」という思いだった。まるでおむつのとれた赤ん坊が、姉の背中を追って這いずりまわってるように子供じみているとも思ったが、トゥラキアに買ってもらったポンコツ宇宙船のおもちゃに書かれた「ケイローン」という手書きの文字や、「ペールやメールのことも忘れないで」と言った彼女の願いも叶えてやりたかったのだ。
ヒュードラーにとって、いつのまにかトゥラキアという存在はリビュアと同じくらい大きくなっていたのだ。
あの人ならやってくれる。アメリカ縦断をしたことで痛めた身体を治してボクと宇宙を旅してくれる。そう信じてきたし、それを励みにしてきただけに、突きつけられた現実はあまりにも苦かった。あの人は必死にやったんだ。誰よりもそのことも知っていたから尚更に口惜しかった。自分のことのように涙が流れた。トゥラキアを気の毒に思った。責任の一旦はボクにもある。そう受けとっていたから、胸はジクジクと痛んだ。現実を知ったあとの数日は腐りきって何もかも放りだしてしまった。だがそのときに誰よりも鬼のような形相で叱ってくれたのもまたあの人だったのだ。誰もが薄っぺらい同情を見せ、ことによっては飛行士としてのライバルが自爆したという態度を見せるものさえいたのに。
母さん……煙草はまだいいけど。お酒、やめてるといいなあ……酔ったあの人は嫌いなんだ。
まだ一度も声にしたことがない「母さん」という呼びかたを胸の中でつぶやいてみたとき、それまで感じたことのない温もりに、全身が包まれてゆくのがわかった。羽毛の手触り、そうではなかった。シカゴの安ホテルの風呂場で触れあった肌の温もりと柔らかさ、身体を伝い、床を流れていった温水、そういうものに抱きとめられているような気がしたのだ。
母さん……いつまでも一人にはさせないからね。姉さんを見つけ出して、娘と暮らせるようにするから、それまで辛抱してください……。
「おい坊主、木星宙域まではお寝んねだ。やりかたはわかるな?」
「はい、大丈夫です」
「さすがは特待生だ。けどまあわからないことは聞くんだぜ。おっ死んでもらっても困るからな」
「はい、わかりました」
クルーたちはヒュードラーへの嫉妬からなのか、冷たく投げやりな接し方しかしてこなかった。船長にしても、副長にしても、誰にしても。
だがトゥラキアと過ごした日々が自然と彼を強くしていた。心は鋼のように強靭であり、身体はゴムのように柔軟で張りがあったのだ。だから、冷凍睡眠から覚醒して木星宙域で、<ケイローン>号が得体の知れない黒雲と接触して損傷したときも、慌てることなく任務をはたしたのだった。
無気味な黒雲は吸い寄せられるように<ケイローン>号に近づいてきた。まるでそこに愛する人がいる、逢いたい人がいるかのように……。
<ケイローン>号は寸でのところでセンサーにそれを捉えて緊急回避したが、各種センサーを焼き尽くされ、船内の回路も三割が不通になるほどの損傷を受けた。それはDOXAにとってもある種はじめての経験であり、もちろん<ケイローン>号にとってもはじめてのことだった。以前に黒雲に接触した船はあっても、どれもが未帰還になるか破壊されてしまったのだと、ヒュードラーは船長から聞かされ、運の強さをぼんやりと思ったのだった。もっとも彼は運命だとか宿命を信じていなかったから、回避できたことは人格コンピューターのペールとメールの的確で敏捷な判断があったからだと密かに分析していた。
坊主と呼び、おざなりな接し方しかしない大人たちに辟易していたヒュードラーは、それを機会にペールとメールに強い親近感を持ちはじめ、信頼を寄せるようになった。ペールとメールもまた目立たぬように彼に愛情を注いで、宇宙のことや<ケイローン>号のシステムなどを教えていった。
「まさかたったの一度も小惑星に着床しないで帰るなんてね」
「そういうこともあるんだよ。がっかりしてるのかな?」
「うまく言えないな。でも姉さんの後を追いかけるより、今は早く姉さんに会いたいっていう気はしてるよ」
「お姉さんの名前はなんていうの?」
「リビュア、リビュアだよ。本当はリビュア・アル・ファルドっていうんだけどね」
ほんのわずかな時間だった。ペールとメールが沈黙したのは。
「素敵な名前ね」
「うん、ボクの大事な姉さんだからね。会ってみたいかい?」
「もちろんよ。もちろん会ってみたいわ」
メールの声はいくぶん興奮しているように思われた。
「そっか。でもお、姉さんが『うん』て言うかはわからないよ」
「まあ、それは淋しいわね。けれども、きっとあなたが説得するでしょう」
「うーん、どうかなあ……」
「約束してくれない? ヒュードラー」
「メールはそんなに会いたいって思うの?」
「だってあなたのことを息子のように思ってるのよ。だったらあたくしがお姉さんのことをどう思うかはわかるでしょ?」
「そっか。息子かあ……じゃあボク、メールのことを母さん、ペールのことを父さんと呼んでもいいかな?」
「もちろんだとも」
「ええ、いいわよ。嬉しいわ、母さん」
「なんだか照れくさいね」
まだあの人のこと、母さんて呼べてないのに……。
それでもヒュードラーは嬉しかった。地球に帰ったなら、真っ先にトゥラキアに会いに行って「母さん!」と呼んで抱きしめあうんだ、と彼はそのとき決めたのだった。
<ケイローン>号が各部を損傷したことで、小惑星を調査することなく修理のために火星のギザ基地に着床したのは、ヒュードラーが地球を発ってから二年後のことだった。




