第45話 ごめんなさい
レックスの宇宙服にある生命維持装置からのビーコンが途切れて三十六時間後、<アイレース>号はL4-0427の大地を離れた。
三度目のフラッシュバックを起こしたリビュアは、すぐに意識は取り戻したものの、大した反応も見せずに真っ青な顔でベッドに横たわりつづけていた。ほとんどの生体反応は鈍く、誰と会話しているかもわからないようだった。唯一リンジーと会っているときだけほんの少し口角を上げて見せたが、蒼白で眼ばかりぎらつかせる弱ったリビュアにあっては、それはかえって無気味で薄気味悪かった。
何を思いだし、何を忘れてしまったのか、リンジーにもマーチにも判断できなかった。だがリンジーは覚っていた。リビュアにとって全てを思い出すことは全てが無に帰すのと同じであろうことを。世界の全てを知ることもまた同じだと思った。知らないことが幸せなのだとさえ思えたのだ。
そのリビュアは、ときおり照明の弱められた病室の天上をキッと睨んで、眼を開いたまま夢遊病者のように「ヒュー、ヒュー」と譫言をつぶやいては、見る者の命すら搾り取ってゆきそうなおぞましさを醸し出していた。
誰も彼もが疲れきっていた。小惑星を離れてすぐにレックスへの追悼として、格納ハッチに張り巡らされたがらくたは、蛍光塗料を吹きかけられて宇宙へと放出された。ぼんやりとした黄緑色の篝火は、蛍のように漆黒の海を群れて泳いだかとおもうと、蝋燭の炎が吹き消されるようにふっと消えてしまった。
心身ともに疲れきったクルーたち、しだいに衰弱してゆくリビュアのことを考えて、マーチとアチエーツは全員が早期に冷凍睡眠に入ることを勧めた。
マーチはここ数日点滴しか受け付けなくなったリビュアを、このままベッドに寝かせておくことの危険を承知していた。しなびて縮んで死を待っているような少女にしてやれることは、それしかなかったともいえた。外科的な治療であれば、<アイレース>号にはまだ十分以上に医薬品もあったし、最高の技術を誇るマーチがいたが、こと心理的な治療に関しては、希望を地球の医療設備やスタッフに託すしかなかったのだ。
こうして<アイレース>号のクルーたちはレックスを喪って、予定より早く冷凍睡眠カプセルに身を横たえることになった。
「リブ、あたしよ。リンジーよ、あなたのママよ、わかる?」
「ママ?……」
すでに室温が下りはじめていた部屋は、船内服の上から刺すような寒気を感じさせるほど冷えきっていた。
「カプセルのドアをしめるわよ。地球につくまでしばらくお別れよ」
「ドア……閉めちゃだめ」
リビュアは痩せて蒼白な手を胸の上に組んでいた。青紫の血管は透けて見えた。とっくんとっくんと流れる血だけが、リビュアの生の証であるようだった。
「わかったわ。あなたが眠ったら、マーチにドアを閉めてもわうようにするわ。――おやすみ、リビュア」
こらえきれない寒さだった。そのまま痩せ細った娘の体を温めてやるために、カプセルに潜りこみたい気持ちもしたが、心なしか頭痛を感じたリンジーは意を決して立ちあがった。リビュアの口元が幽かに動いたように見えたが、眼を閉じてしまっていたので、気のせいだろうと思い、リンジーは部屋を後にして、そのまま自分に用意された睡眠カプセルのある部屋に向かった。
それぞれの部屋で、次々にカプセルのドアがスライドして閉じてゆき、リビュアのカプセルだけが開いていた。
突然、少女は瞼をあげ、辺りを見回した。
睡眠カプセルにある準備完了をしめす、赤と緑のインジケーターが点灯しているのが目に飛び込んできた。
「あの子がいた星に戻らなくっちゃ」
リビュアは何も感じていなかった。寒さも、怠さも、頭痛も、空腹も。
「あたしは悪いお姉さんだわ」
幽霊のように半身を起こし、ゆっくりとカプセルをまたいだリビュアは、ふらふらしながら戸口を抜けて通路を歩いていった。
冷え切った体温と、痩せてしまった体重のせいで、マーチの敏感なセンサーですら少女がカプセルを抜け出したことはわからなかった。
「ハッチはこっち」
薄い生地で淡い水色のワンピースのパジャマを着て、砂色の毛布を床に引きずりながら、リビュアは裸足で通路を進んでいった。骨ばった足が折れそうに痛々しい。
「ハッチはあるわ……ほうらあった」
なんの躊躇もなく、リビュアは爪先立って壁にあるボタンを押した。
警報が鳴って、回転灯が真赤な光を縦に横にと迸らせた。
「そんな顔して怒らないのヒュー。ふふふっ、お馬鹿さんね」
パジャマの裾が風になびいている。
開きはじめたハッチから大気が流出しているのだ。
「あなた、誰かが格納ハッチを開放したわ!」
「いったい誰が!?」
「リビュアよ……」
マーチとアチエーツは瞬間的に電気信号を回路に流した。だが手遅れだった。
「あたしが悪かったわ。今からいくからね、ヒュードラー」
リビュアはどこか遠くで自分を呼ぶ声を聞いたような気がして振りかえった。
「リンジー……止めても駄目なの。だってあなたはあたしのママじゃないんだもの。でも大好きだったわ」
刹那、猛烈に渦巻く大気の波に足をすくわれて、リビュアは宇宙へと運ばれていった。
「ごめんなさい……リンジー、ごめんなさい……」
少女はとび色の瞳を開いたまま、肺がまたたくまに萎んでゆくのを感じた。苦しくはなかった。悲しみの瀑布にある滝壺に呑まれてゆくのを感じた。淡い灰色の雲の中を落下していっているのがわかった。
宇宙の闇を進んでいた逆行小惑星――L4-0427RAと名づけられた真黒な岩塊が黒い雲を引きながやってきて、リビュアの体を粉々に砕いていった。破れた水色の布きれと、砂色の毛布だけをその場所に残して……。
それまで灰色だったくもが突然真黒に染まり、何も見えなくなった。何も聞こえなくなった。誰かを恨んでいるようないたたまれない心持ちだけが感じられた。急に寒さと淋しさが湧き上がってきて、次にはそこいらじゅうが溶けてしまいそうなくらい熱くなった。怨みの心持ちも、淋しさも、寒さも、熱さも、どんどん激しくなってゆく。耐えきれないほど怒涛のように襲いくる心持ちは、とてもこらえ切れるものではなかったが、やがてその波は静かに退いていった。かとおもうと、ほっとする間もなくまた波が襲ってきた。
何故かわからなかったが、これは永遠につづくということだけはわかった。
誰かがいるような気もするが、それは分身のように怨みをうねらせ、淋しさを渦巻かせ、あたり一面を凍りつかせた刹那、こんどは灼熱してすべてを焼き尽くそうとする。分身のようでもあり分身のようでもなかった。何も見えなかった。何も聞こえなかった。何かを感じているようで、そうではないようだった。
リビュアが黒い雲――暗黒物質にとりこまれてから八か月後、<アイレース>号は傷つき汚れ果てた船体を青々とした海の浪に洗われていた。
かつてあった虹――アイレース――の輝きはどこにも見出すことができなかった。
遠く離れた宇宙で、人知れず漆黒の海を漂っていたパジャマと毛布は、いつのまにか艶のない真黒な正八面体をした物体になっていた。
それは時折りなにかに反応して、非道く悲しい歌をうたうのだった。
助けて……助けて……と。




