第42話 祈りにならない祈り
幸いにも四人は<アイレース>号に残っていたエヴシンたちが、クルーザーを回収しに来てくれたことで、宇宙服にある酸素を使い切るまえに救出された。だがリビュアの一件があったせいか、そのあと船内には沈鬱な空気がたれこめつづけていた。
気絶したあと、リビュアはなかなか意識を取りもどさなかった。医療ブロックにある病室にはいつもリンジーの姿があった。マーチの声が聞こえているときのリンジーは、一種異様な近寄りがたさを漂わせていた。たとえそれが心的外傷によるフラッシュバックであったとしても、リンジーはリビュアが必死に祈ったことを信じたいという執念がそうさせたのだ。ともすればその執念はマーチへの抗議となり怨念となってあらわれた。
それほどマーチの医学的判断は冷静でありかつ冷淡だったのだ。事実を伝えるということは深刻でさえある。マーチにもそのことはわかっていたし、リンジーの信じる気持ちを思いやりたくもあったのだが、同情から生まれるものに期待するほど、マーチは軽薄でも愚かでもなかったのだ。人格コンピューターがもつ高潔さといえるのかもしれない。
マーチはリンジーに告げた。おそらくリビュアは、満杯に膨れ上がった心の風船が破裂するまえに、無意識に言葉と感情を恐怖や祈りという形にして溢れさせ、迸らせたのだろうと。思えばそれは人間の人間たる性そのものであると。一見相反するように見える恐怖は裏をかえせば祈りという崇高なものになりうるのだと。また冷たい現実ではあるが、リビュアがそういう反応を見せたことは、ある面では良いことであるとも。彼女が言葉と感情を溢れさせることが出来なくなったなら、ただでさえ回復していないダメージを抱えている脳細胞に、さらなる損傷をあたえかねないというのがその理由だった。
前回おこした気絶は、リビュア自身が何かを思いだそうとしたことと、彼女が見たなんらかの景色から誘因されたものだが、今回の気絶はそうした状況に恐怖と祈りというものが加わったのであり、リビュアが脳に受けたであろうダメージは、前回と比べれば質的にも量的にも大きいのだと。もしももう一度、気絶するほどのフラッシュバックをしたならば――前回気絶させた思い出そうとする意志、思い出させた風景という要因と、今回リビュアを気絶させた恐怖や祈りとが重なった場合、なにが起こるかはまったく保証できない。ともするとすべての記憶を失いかねないと、最後にマーチは悲痛な声を抑えてリンジーに告げたのだった。
しかしそうした沈鬱さもリビュアが意識を取りもどすと、潮が引くように薄れて消えてゆき、船内にも明るさが戻ってきた。前回と同じように当の本人であるリビュアは、巨大なホール状の出口に着いてから、ぼんやりと陽のあたる温かい場所に座って、星空を眺めながらオズウェルを待っていたことしか憶えていなかった。夢の中で見た虹とオーロラがこの世のものとは思えないほど美しく、そこで神様を見たという神秘さにうち震えて感動したと微笑んだりもした。
大人たちにとってみれば気の休まる話だった。自分の心身がどんな困難に襲われても、けろりとして笑っている少女リビュアは頼もしくあり、健気で立派だと映っていたし、なによりもえくぼを見せて笑う顔に癒されていたのだ。
癒されるべきリビュアのとび色の瞳から輝きが失われなかったことは喜ばしいことだが、なんだか子供じみた大人ばかりが彼女のまわりを取り巻いているのではないかと、リンジーはときおりクルーたちに不安げな表情を向けることもあった。
「どうせまた今日も下ネタでも言うんでしょ?」
「いや、あれは俺なりに結構反省してるんだ。もうその話は勘弁してくれ」
「オジさんのため息、荒ぶれた牛の鼻息みたいだったんだよ」
病室は見舞いにくるクルーでいつも賑やかだった。
「ついにオジさんという呼び名になっちまったか」
口をとがらせながらも、オズウェルは責任を感じているのか、よく病室に姿を見せていた。
「レックスは真面目すぎるのよ。これからは冗談のひとつくらい言えるようにならないと」
「そうは言ってもねえ、リブにわかる冗談をいうのは僕には骨が折れるんだよ」
「平気よそんなこと。だってあたし、顔や口で笑うんじゃないもの、ね、ママ」
リビュアはウインクをした。
リンジーは繋いだ手が伝えてきた、くつくつけたけたした笑いを思いだして、ウインクを返した。
「なにそれ? それも冗談のひとつかい?」
レックスが片目を閉じようとして、不器用に両目をくしゃくしゃさせた。
「ほらまた……真面目すぎなのよ、あなたは」
療養の日々は思ったより長くつづいていた。それは明らかにリビュアの受けたダメージが大きかったことを証明していたのだが、誰もそれを口にすることはなかった。
リンジーは一人祈っていた。このままこの子と病室で過ごしているうちに、小惑星の調査なんて終わってしまえばいいと。そうすればきっともう何も起こらないのだから。病室で無為な日々を過ごしていることで、調査の面ではフェデリコに二人分の負担を強いらせていることも気づいていたが、リンジーは一人祈っていたのだ。
しかし、調査が思うように進んでいかないでいたこともまた事実だった。それでも小惑星の探査はつづき、一つまた一つとクルーたちは調査を終了させていった。
その度に、リビュアは好奇心の眼で、興味津々の表情でクルーたちに冒険譚をせがみ、なんとしてもいま一度、あの砂の大地を歩きたいと思うようになっていた。
「ねえママ、心配しすぎよ。あたしはもう大丈夫なのよ。だからもう一度だけ、一緒に行かせてよ」
「それにはマーチのお墨付きがいるの。先生はなんて言ってたの?」
「あと一週間は安静にって……でも一週間もしないで調査は終わるよってエヴが言ってたのよ。あたしもう一度あの砂の海を歩いてみたいのよ」
「頭痛は? まだ時々するんじゃないの?」
「うん、するわ……でも、歩くだけなら平気なのよ。洞窟を探検したいなんて言わないから、ねえお願いママ。お願いだから……」
「ママ聞きわけの悪い子は嫌いよ。パパはなんていってるの?」
「アチエーツも安静にしてなさいって……」
「それみなさい。あなたの気持ちもわからないではないわ。ママだってあの雪の結晶のような景色は忘れられないもの。今でも眼を閉じれば浮かんでくるわ。また素敵な景色に出会ってみたい。そう思うわよ。でもだからって、そういうママにお願いするのは狡いわよ」
「わかってる……でも……」
リビュアはベッドに半身を起こしたまま俯き、唇を噛んでいまにも泣き出しそうだった。膝のうえで握られた拳が悔しさと悲しさに震えていた。
「ねえリブ、あなた恐くないの? また気絶したらどうしようって?」
「……恐くないわ。むしろお願いを聞いてくれないママの怒っているような顔を見るのが恐いの。だってこのごろ大きな声を出したり、マーチ先生はどうだとか、パパはどうだってあたしのこと責めるんだもの。……あたし、祈るような気持ちでママにお願いしてるのに、どうしてママが怖い顔するのかわからないの……」
リンジーは耳朶を打った二つの言葉を聞きそこねはしなかった。
恐怖と祈り。いまこの子の心にはふたつのものがある。あたしが調査に同行しようとするのを止めようとしてする顔への恐怖と、あたしに対して必死に訴える祈るような願いという二つが。
リンジーは戦慄した。リビュアのためと思ってやっていることがかえって彼女を苦しめ、それがまた危険なフラッシュバックを起こさせるかもしれないのだと。
自由とは何なのだろうか? 思いやりとは何なのだろうか? 強く思いやれば思いやるほどリビュアをベッドに縛り付け、自由を求める気持ちを強くさせている。心がすれ違ってゆくことに泣き出してしまいたかった。
「リブ、ママそんなに怖い顔をしてるの?」
「……うん」
リビュアは遠慮がちに小さく言って小さく肯いてみせた。
「そう。だったら謝るわ。そんなつもりはなかったのよ。ママ、ただあなたのことが心配なだけなの」
リンジーはそのあと、何かを決心しようとするかのように沈黙したあと、リビュアの両手を取って、
「みんなに相談してみるわ。あなたの希望にそえるようにね。でも、少しだけ外を歩くだけにして欲しい。これは言いつけなんかじゃないわ。ママからのお願いよ」
といってリビュアの眼をくいいるように見つめた。
卑怯なことを言っているような気がした。祈りだとか願いだとか言えば、言うことを聞くのじゃないかという狡猾さに。リンジーは自分を嫌悪した。それでもそれが彼女にとって譲歩できるぎりぎりの範囲だったのだ。
「ママ、ありがとう。あたし良い子になるわ。わが儘を言わない良い子になるように頑張るわ」
リビュアも苦しんでいた。自由を求めることに罪の意識はなかったが、度がすぎるわが儘を言っていたという意識はあったのだ。リンジーの最近の接し方にどことなく恐怖していたことも、祈るような気持ちがあったこともまた事実ではあったのだが……。
いったい何が事実なのだろうか? 考えれば考えるほど、リンジーにはすべてが事実のような気がした。悔いが残らないように、思いを伝えてゆく。良し悪しの問題ではない。それしかないのではないかと、病室を出て船内通路を彷徨うように歩きながら思った。
それでも昼も夜も苦悩してきた事柄が消える訳ではなく、悩み続けたことで酷い胃炎すら起こしていた。吐き気がした。ふっと眩暈を感じたリンジーは目についたトイレへと駆け込み、洗面台にしがみついた。何もかもがひんやりとしているように感じられた。硬質プラスティック製のしらじらしいほど白い洗面台も、金属製の鈍く光る蛇口ハンドルも、顔を洗い流した澄んだ透明な水も、喉の渇きを潤そうとして飲んだ水さえも。だがそれはやがて消え去ってゆくのだと思えた。
しかし、顔をあげて鏡に映った自分の姿を見たとき、顔にこびりついた憤りを見たとき、人は思いやりから消せない憤怒を作りだしてしまうことを見せつけられた気がした。
母親は子供のためなら鬼にもなれるということを目の当たりにしたのだ。
蛇口から落ちる水流は、願えば願うほど祈りさえ飲みこんでゆく瀑布のようだった。
「あたしの希望をあの子に見ることは、わが儘なことなの?」
洗面所には、誰も何も答えない沈黙だけが重く横たわっていた。




